1.ケヤキと祠
「最低最悪だ」
大橋拓也は小声で吐き捨てると、大蛇の背さながらにゆがんでねじれた道路に一歩、足を踏み出した。
道路のうねりに足をとられ、体がぐらりと右に傾く。大橋は倒れそうになりながらもなんとか体勢を立て直すと、パンパンに膨らんだビジネスバッグを持っていない方の左手で、ずれた黒縁眼鏡の鼻根を押し上げた。
「だいたい、なんだってこの道路、こんなにゆがんでやがるんだ」
そこは、歩き慣れているはずの通勤経路。寝過ごしたため、今朝も猛ダッシュで駆け抜けた住宅街の道だ。その時はなんともなかった。大橋の記憶では確かにそうだ。だが、今はなぜだかジェットコースターのように大小さまざまな起伏に富んでおり、とてもまっすぐに歩ける状態ではない。大橋は左右に大きく体を揺らしながらよろよろと、まるで足のおぼつかない高齢者のように、その道を自宅へ向かって歩いていた。
歩きながら、やけ気味に足元の小石をけっ飛ばす。小石は道路わきの街路灯に鋭い金属音をたてて跳ね返り、大橋の方へまっすぐに飛んできた。大橋はたたらを踏むような格好でその直撃を避けると、深いため息をついた。
――やってらんないよ。俺の人生、悪い方にばかり転んでいきやがる。
確かに大橋の人生は、順調とは言い難い。
大人しく気弱な性格の彼は、地味で目立たずどちらかといえばいじめられるタイプで、中学時代に父親が急な病で亡くなったあと、一時不登校になったりもした。浪人して何とか三流大学に滑り込んでほっとしたのもつかの間、卒業する頃には世は不況の嵐。仕方なく成り行きでとった教員免許を生かして教員を目指すも採用試験で落ち続けた。ようやく合格通知を受け取ったのは採用試験に挑戦して三年目、そんな彼を支え続けた母親が心臓発作で亡くなった日の翌日だった。
あれは夏の暑い日だった。その日大橋は赤十字の救急救命講習を受け、人工呼吸や心臓マッサージの方法を教えてもらったばかりだった。蝉時雨の降りそそぐ中、講習を終えて帰宅した彼が見たのは、テレビがつけっぱなしの居間でうつぶせに倒れている母親の姿だった。
頭の先からつま先まで寒気が走り、胸が押しつぶされるような感覚に倒れそうになりながら、彼は習ってきたばかりの心臓マッサージをごろりと寝ころんで動かない母に必死で施した。その体は、まだほんの少しだけ温かかった覚えがある。だが、母は再び目を開けることはなかった。こうして彼は天涯孤独となった。二年前の話である。
母の死の翌年、彼は小学校教師としてとあるの町の小学校に赴任した。教師としての資質があるとは言い難い彼にとって、ここでの教師生活はまさに苦難の連続だった。
昨年度に受け持った三年は見事に学級崩壊を起こし、四年に持ち上がることができずに今年は二年の担任になった。実力のある中堅が担任していたこの学級は、学校内でも一,二位を争う担任しやすい学級として認識されていた。だが、今年度になって大橋が担任するやいなや、学校内で一,二位を争う問題クラスになってしまった。
朝自習中の私語、立ち歩きから始まり、授業中は児童がクラスを飛び出して徘徊し、休み時間はケンカやケガが絶えない。給食中もふらふら立ち歩く児童が多く、掃除もまじめにやらず遊んでばかり。下校途中は停車中の車にいたずらをしたり、民家の呼び鈴を押して逃げたりと、何か悪いことがあれば必ずと言っていいほど彼のクラスの児童が関与している状態だった。
例によってこの日も、大橋のクラスの児童が大事件を起こし、彼はその後始末に奔走したのだった。
給食準備中、大橋のクラスの児童が隣のクラスの給食当番にちょっかいを出した。それが元で当番の児童が転倒、持っていた食缶からこぼれたスープが近くにいた児童にかかり、やけどを負ったのだ。
幸いやけどは軽かったものの、ケガを負わされた児童の親が大橋の給食指導が至らないからだと激怒し、教育委員会に訴えると言い出したから大変だ。校長、副校長、教務主任、保健教諭、学年主任に至るまで平謝りに謝り、夕方までかかってようやく事態は沈静化したものの、保護者が帰ったあと、延々と校長と副校長から「言語道断」と怒鳴られ、「教員失格」と烙印を押され、「即時撤退」まで暗に勧められる始末。午後九時過ぎにようやく大橋が解放された時には、身も心も渇ききったヘチマのように空っぽすかすかで、ものも考えられないほどやつれきっていた。
大橋は何とか気を晴らしたかった。飲めもしないくせにふらふらと飲み屋ののれんをくぐってしまったのも、そういう理由からだった。案の定、再びのれんをくぐって出てきた時には既に歩ける状態ではなかった。たかがジョッキ一杯だけだったが、彼にとっては限界をはるかに超えた量だったのだ。駅で二度ほど吐いて何とか前に進める状態になったが、それでも俗に言う「千鳥足」状態で、あっちへふらふら、こっちへふらふら、すれ違う通行人が眉をひそめてそんな彼に目をやるほどだった。
そう、道路はゆがんでいないのだ。いつもながらのまっすぐで平坦な道だ。ただ単に、大橋が酔っぱらっているからそう見えているだけなのだった。
「だいたい俺なんて、教師にむいてないし」
やけ気味にそうつぶやいて、大橋は深いため息をついた。
と同時に、怒濤のような嘔吐感がこみ上げてきて、大橋は慌てて電柱の影に隠れると滝のように吐いた。嘔吐物の飛沫が、一張羅のスーツのズボンに点々と飛び散る。大橋はげんなりした表情でその黄色い水玉模様を眺めやると、ズボンの裾をつまんで持ち上げた。
その時、大橋は頬をなでる風に何かの香りを感じた気がした。
甘さのない、爽やかな香り。間違っても嘔吐物の臭いではない。花の香りでもない。五月の風に混ざる、新緑の、爽やかなみどりの香り。
大橋はゆるゆると顔を上げた。その目に、四方に堂々と枝を張った見事な大木が映りこんだ。
「……ケヤキだ」
これだけ大きな木だというのに、保存樹木には指定されていないようでなんの札もかけられていない。こんな住宅街の一角に、これほど立派な木があることに今の今まで気がつかなかった。大橋はズボンから手を離すと、放心したようにその見事なケヤキの木を見上げた。
夜風にザワザワと揺れる枝枝が、影絵のように夜空に映えている。枝枝の隙間から、ほの明るい夜空に星がいくつか瞬いているのが見える。その輝きは決して強くはなかったが、主張しすぎない控えめな輝きが今の大橋にはちょうどいいように感じられた。
ケヤキの根元に目を移すと、小さな祠があるのに気がついた。控えめな鳥居の奥に、握りこぶし大の狛犬に守られてひっそりと夜陰に紛れている祠。そのつつましいたたずまいが今の自分と重なって感じられて、大橋はゆっくりと道を渡ると、祠の前に歩み寄った。
近くで見る祠は夜陰に紛れているせいもあるが薄暗く陰気で、女性や小さな子どもなどは怖くてとても近づけない雰囲気だ。だが、大橋はなぜかその祠に強く惹かれるものを感じた。かがみ込んで、小さな鳥居の奥をのぞき込む。狛犬の間に、朽ち果てた社と小さな賽銭箱が見えた。苔むして薄汚れたその様子に今の自分を重ねたのだろうか、大橋は胸が締め付けられるような気がして、目頭が熱くなるような感覚に襲われた。
「そうだ!」
大橋は何を思ったのかカバンから財布を取り出すと、小銭ではなく札入れを探った。お札を一枚抜き取って半分に折りたたみ、狛犬の間に手を突っ込むと、小さな賽銭箱にそれを無理やり押し込む。
それから祠の前で居住まいを正すと、二度お辞儀をし、二回拍手をする。そして再度深々と一礼した後、目を閉じ手を合わせてこんなことをつぶやいた。
「もうちょっと、マシな人生が送れますように」
大橋は目を開くと、笑った。少しだけいいことをした気がして、何だかやけに嬉しかった。
――お互い、頑張ろうな。
胸の内でそんなことをつぶやきつつ、教材研究資料が入った重いカバンを持ち上げると、大橋は踵を返した。嘔吐物が付着したズボンから立ち上る酸っぱい臭いをまといつつ、彼はおぼつかない足取りで路地の向こうへ消えていった。