花見
数日して、莉乃の風邪は大過なく癒った。数日の間で、冬の残り香を思わせる寒気は打ち払われて、代わりに暖かな日差しが惜しげなく注がれていた。春霞に包まれた空は柔らかな青を投げかけ、冬の薄蒼い空を思い出すことはできなかった。
すっかり花の蕾を綻ばせた、陽光の暖かさに誘われてか、莉乃は少しばかり落ち着きがないように見える。普段はひどく大人しいだけ、余計に微笑ましく映った。
幸い、今日はよく晴れそうだった。換気に窓を開けていると、ちょうど、以前に莉乃と約束したことを思い出す。
「お花見、行く?」
「うん」
朝の勉強もそこそこに莉乃を誘うと、あまり外には出たがらない彼女も、一も二もなく頷いた。
有り合わせのものでふたり分のお弁当を作り、お茶を淹れた水筒や、敷物と一緒に鞄へ詰める。
莉乃はよそ行きの、白い生地に淡いピンクを裾に差したワンピースの上から、浅葱色のエプロンを着けていた。普段からよく手伝ってくれる性質だけれど、小鳥のようにくるくると動き回る様子からは、珍しく待ちきれないように感じられる。
そんな莉乃が、私にはとても愛おしい。
「莉乃」
「お姉ちゃん?」
一通りの用意が済んで、側にいてくれる莉乃を抱きしめる。不意なことにだったから、莉乃は訝しんだかもしれないが、嫌がることはなく、されるがままにしていた。
「どうしたの……?」
「少し、こうしたくなったの」
本当に、これといった理由はなかった。肌寂しいといってもいいのだが、莉乃にあらぬ誤解をして欲しくなくて、私はそう誤魔化した。
椅子に腰かけ、莉乃を膝の上に乗せる。必要のなくなったエプロンの紐を解くと、脱がせて背もたれにかけておく。
「おいで」
「うん……」
私が求めれば、莉乃は逡巡することなく身体を寄せる。
風邪の一件から向こう、莉乃はより気兼ねなく、素直に甘えるようになったと感じる。もちろんそれは悪いことではなく、私としても嫌ではないけれど、あまり従順でも不安にはなってしまう。
自分でもナンセンスな想像なのだが、莉乃は誰にでもこんな行動を取るのかもしれない、などと思うってしまうのだ。嫉妬にしても下らない、単なる妄想にすぎないと思うのだが、そんなことを少しでも考えてしまうと、胸の詰まるような気がした。
小さな身体を強く抱き寄せれば、柔らかな感触と体温を感じる。
暖かくて、ずっと抱きしめていたかった。このまま、花見も嫉妬も忘れて、私だけのものでいて欲しいと、あまりに醜いエゴを自覚する。
「ね、お姉ちゃん……」
「何……?」
「キス、して……?」
何となく、抱き寄せても視線を合わせることは避けていた。聡い彼女に目を覗き込まれると、私が何を考えてしまっているのか、気づかれてしまうように感じたから。
だから、不意に目を覗き込まれて、私はたじろいだ。
「……ダメ。我慢、できないから」
構わず身体を押しつける莉乃の、小さな肩口を押しとどめるようにしながらも、私は我ながららしくないことを吐いた。莉乃に何をしでかすか、自分でも分からないと思った。
それでも莉乃を止めるには不十分で、もう少しそれらしい理由を用意すべきだったのだと気づいたのは、彼女がこれまでには想像もつかない暴挙に出た後だった。
「ぇ……? っ、ぅ!?」
ぐらり、と椅子が傾いだ。倒れる、と思って莉乃を抱きしめると、椅子ごと身体が床に投げ出される。莉乃がわざと体重をかけたのだと気づいた時にはもう遅く、強かに腰を打ち付けていた。
幸い座面が高いわけではないから、鈍い痛みに悩まされるくらいで済んだ。莉乃はどうだろうかと咄嗟に見上げると、ぐっと肩を押さえ込まれる。視線が合った彼女の黒い瞳は、ひどく潤んでいた。
「おねえちゃん……」
「り、りの」
普段なら抱き上げることもできる莉乃の体躯でも、全身の体重をかけられては、とっさに身動きは取れない。ひやりとしたフローリングと莉乃の間に挟まれて、私はなすすべなく黒曜の瞳に晒される。
「……わるい子で、ごめんなさい」
室内は不気味なほど静まり返って、莉乃の消え入りそうな声がよく聞こえる。それに応じる間も無く、柔らかい唇がおずおずと触れた。もっとも、落ち着かないような戸惑いはすぐに消えて、莉乃は舌先を差し入れてくる。
抵抗しようと思えばできたのかもしれないが、私はそうしなかった。
何だかんだと御託を並べてみても、結局は莉乃とのキスが好きなのだと思う。だから、求めてくれるのなら拒みたくなかった。
ふと、莉乃が最初に求めてきたときも、良く晴れた、静かな昼前だったことを思い出していた。目を伏せ、いつかの時を回想しながら、唇を緩める。
私は彼女の為すがままに任せて、腕の力を抜く。
遮二無二とでも言えばいいのか、莉乃の口づけは激しい。余裕のなさの表れなのか、目を強く閉じて、顔を汚すことも厭わずに唾液を舌伝いに注ぐ。私も舌を絡め、注がれたものをゆっくりと喉に送り込む。
震えるような吐息が、柔らかな唇と舌の隙間から漏れる。朧気な視界の向こうにいる莉乃の頬は、熱気からか紅く染まっていた。
「ふ、は……ぁ」
小さな身体では、さほど長く交わりは続かない。それでも唇を濡らす唾液が細い糸となって、莉乃は名残を惜しむように薄目を開く。
「……ごめんな、さい」
「りの」
胸をいっぱいにするように空気を吸い込んで、吐き出すように小さな声が聞こえた。名前を呼ぶと、ふるりと肩口が震えた。
小さく開いた唇の端からは、一筋の唾液が流れ落ちて、莉乃の頬を汚している。虚脱しているのか、持ち上げようと脇の下に手をかけても抵抗しない。
「おいで」
上体を引き起こし、莉乃を胸元に抱き寄せる。莉乃は何かを恐れるように目を開いて、私を見上げていた。
「おねえ、ちゃ……」
「なぁに……?」
悪いことをしたのだという認識は、幼いながらに強いのかもしれない。少し前まで、私が避けていた莉乃の瞳は、泣き出しそうなほど潤んでいる。
莉乃のことを思えば、形だけでも怒った方が良いのだろう。だけど、少しも怒るつもりにはなれなかった。
「ごめん、なさい……」
「いいよ。そんなに、キスしたかったの?」
むしろ、床に打ち付けた痛みも忘れるほど、私は嬉しかった。頬を真っ赤に染めたまま俯く莉乃の肩を抱きしめ、そう尋ねると、こくりと首を振る。
こうして暮らす前は、私に触れることさえ恐れた莉乃が、自分から触れ合うことを望んでくれる。ましてやこんな振る舞いは、私以外の誰にも見せないだろうと、確信することができた。
「ありがとう」
「ふ、ぇ……?」
こんな風に自分の独占欲を満たすのは、我ながら浅はかな行為なのだとは思う。それでも、莉乃が私を選んでくれるのは、嬉しかった。
「ふふ。出かけようか」
「うん」
莉乃から離れるのは、いつも名残惜しい。けれど、彼女が触れることを望んでくれるなら、私を選んでくれるなら、恐ろしくはなかった。
抱きしめていた腕を解いた頃には、莉乃から泣き出しそうな表情は消えていた。
桜の頃に天気が荒れるのを、よく春嵐や春荒れと呼ぶけれど、その日は嵐などとは対極の、麗らかな空だった。穏やかな風はせいぜい、莉乃の豊かな黒髪とワンピースの裾をそよがせて、手元に花片を届けるくらい。
人混みを好まない莉乃は、家の周囲から少し郊外に離れた公園を好んでいた。街中を流れる川面と平野を囲う丘陵にある公園は、さほど大きくはないが、時季ごとの花々や樹木を植栽してある。花が盛りと言っても、市街から離れているために人出は少なく、他者を気にする必要もない。丘の麓ではまばらに人を見かけたけれど、それも頂上までの散策路には滅多に踏み入らなかった。
動き回っていれば燦々と降り注ぐ陽光は暑いくらいで、それだけに吹き抜ける風が心地よかった。緩やかな登り坂を、莉乃は私の手を取って後ろについてくる。
「莉乃」
「お姉ちゃん?」
訪れるのは初めての場所ではないが、莉乃が普段からあまり出歩かないこと、そしてストラップで留めているとはいえサンダルであることを考えると、足許が不安だった。手をしっかりと握るのは当然としても、様子を見るために後ろを振り向くと、莉乃はきょとんとした様子でこちらを見る。
「大丈夫?」
「うん」
別に焦るようなことはないのだから、莉乃のペースに合わせればそれでいい。そう分かっていても気分が逸るのは、私自身も花に誘われてのことかもしれない。そのことが少し可笑しくて、不思議と笑みが零れる。
「よかった」
途中で一度休憩を挟んだけれど、道なりに歩けば、頂上には三十分もあれば足りた。雑木林を思わせる樹木の内を抜けていく散策道と対照に、頂上付近は見晴らしが良いよう、広場にも似た草地となっている。街を見下ろす一角が開放されている他に、周囲は樹木が植えられているが、時期だけあって白い桜花がよく目立つ。
「きれい」
「そうだね……」
咲き開いたのは昨日か今日か、ともかく満開になったばかりの桜は、薄紅よりも清冽な白を、強く印象づける。舞い落ちる頃には紅く染まるのだろうけど、爛熟した花よりも、こちらの方が莉乃にはよく似合う。
春の日差しとは言え、まともに受けると少し眩しい。オオイヌノフグリ、シロツメクサ、タンポポ、ナズナ、ハコベといった背の低い花々の間を、莉乃がしばらく立ち歩くのを眺めながら、私は桜の木陰に荷物を置いた。桜の根元には、小さなヒメオドリコソウが一群となって、桃色の花弁をつけている。
座って休むために、折り畳んだ敷物を広げている間、莉乃は蝶でも追ってか、無作為に左右へ歩みを向けていた。足を踏み外して落下するような場所ではないけれど、転ばないか不安になるのは人情だろうか。幸いにも不安は杞憂で済み、しばらくすると莉乃は私の元に戻ってきた。
気持ちの良い空気が、あるいは咲き誇る花々がそうさせるのか、彼女の表情は明るく、昂揚しているように見えた。サンダルを脱いでシートの端に揃え置くと、ぺたりと膝を折って座る。私もそれに習って靴を脱ぎ、莉乃の隣に腰を下ろした。
するりと、何でもないように莉乃は肩口に頭を委ねる。年頃よりも幼げな仕草は、まるで子猫のような無邪気さを思い起こさせた。
黒曜の瞳の向こうには、花と空のフレームに包まれて、ミニチュアのような街の俯瞰が広がっていた。あまりに飽くことなく風景を眺めているものだから、こうした眺めも珍しいのだろうかと思っていると、ふと莉乃が上体を伸ばす。
「どうしたの?」
「お花、ついてたの」
私の頭まで手を伸ばして、彼女が指先に摘んだのは、鳥が落としたらしい一輪の桜花だった。雀や目白、鵯のような小鳥は、蜜を吸う時に花を摘んでしまうけれど、花の形が残るだけに、花びらよりも莉乃の目を引いたのだろう。莉乃はそれを手のひらにとって、不思議そうに見つめていた。
「あっ、……」
ふわ、と莉乃の長い黒髪が宙を舞う。一拍遅れて、花吹雪が青空を飾った。
花は何をかもを、夢のような幻想に変えてしまうらしい。莉乃も私も、白い風が舞うのを、憑かれたように見とれていた。
我に返ると、莉乃の手に乗っていたはずの花はなくなっていた。花は風に攫われただけだろうが、思うところがあったのか、彼女の肩は小さく震えていた。
「怖かった?」
「ううん……」
私が声をかけると、彼女は小さく首を振った。代わりに、胸元へしなだれかかって抱擁を乞う。私はそれを受け入れて、莉乃を膝の上に座らせた。
「行かないで、ね」
「うん、行かないよ……」
花が自分の手元から離れて、大空に舞い散っていったことに、莉乃は別離を見出したのかもしれなかった。彼女がそれを恐れているのはよく知っているし、私も恐れていた。
無論、私とて子供ではないのだから、いつか別離が避け難いことは分かっていた。ただ、そのときには莉乃が泣いてしまわないように、せめて整理をつけられるようにしたいと、詮無いことを願ってしまう。
「……すこし、さむくて」
「うん。おいで……」
汗冷えなのか、莉乃がそう訴えるのを、強く抱きしめる。いつかそうしたように、身体を重ねあう。
「莉乃……」
胸元に顔を埋めた莉乃を見やると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。それを見て、私もつられて笑っていた。
忘れてしまおう。莉乃が笑ってくれる時間に、暗鬱とした思考は似合わなかった。そう思った途端、気の抜けるような音がお腹から鳴った。
「お茶、持ってきてあるから。一緒に飲もうか」
「うん」
さすがに気恥ずかしくて、気分を変えてようと提案してみる。それに気づいたかどうかは定かではないけれど、莉乃は頷いてくれた。
鞄から飲み物を出すと、莉乃もお腹が空いていたのか、いつしかなし崩しにお弁当を広げていた。半ば忘れていた腕時計を改めると、時針はちょうどお昼頃を指していた。
弁当箱にはおにぎりと甘めの卵焼き、ウィンナー、さやえんどうの胡麻和え、菜の花のおひたし、それに茹でたニンジンやブロッコリーが色を添える。デザートには、赤い苺を別に用意しておいた。
花見の席ではあるけれど、普段の食事より豪勢というほどではない。それでも普段と変わった体験は楽しいのか、莉乃もよく箸を進めてくれる。しばらくして弁当箱は空になり、畳んで鞄にしまう。
「おねえちゃん」
「なあに……?」
食後に温かいお茶を飲んでいると、食事の間は向かい合うように座っていた莉乃が、膝下に寄ってくる。どうしたのだろうかと思っていると、莉乃はまっすぐにこちらを見つめる。
「莉乃?」
思わずきょとんとしてしまって、莉乃の瞳を見る。そのまま、じっとしていたけれど、彼女は意を決したように腰を浮かせた。
体育座りのような要領で、私に背中を預けてくる。私がそれを受け止めて、両の腕を莉乃の腰に回すと、彼女は手を取って指を絡めた。
「ありがと……」
黒目がちの大きな瞳が、楽しげに私を見る。彼女は何か、言葉の続きを言おうとしたけれど、代わりに私の手を胸元に引き寄せた。
私の一番大事なもの、私の最愛のものが、確かな意志と温もりを持って、私の側にいてくれる。それはとても嬉しくて、不思議と気持ちが落ち着いた。陽気のせいか、それとも食後のせいか、不思議と瞼が重い。
「りの」
名前を呼んでみると、莉乃は歩き回って眠たかったのか、目を伏せていた。
桜花の下で、私は莉乃と一緒に目を閉じた。
読了お疲れ様でした。以前ほど間が空かなくて良かったです。
前述の通り連作短編なので、彼女たちの関係性について気になった方は前作「秘儀」(https://ncode.syosetu.com/n3228ec/)、「風邪」(https://ncode.syosetu.com/n3913ez/)もどうぞ。
紙媒体も出す予定(しかも表紙イラスト付きです)なので、作者Twitterの方もご確認ください。文学フリマとか、Boothでも多分受け付けます。