第6話 『”風男”』
毎週更新中。
今回は、ゆったりしたペースで進みますが、一人称の登場人物によるとある物事に対する『認識』が、急激に様変わりする描写が見どころです。
ぜひ、ご覧ください。
*
風が好きだ。海と山からそれぞれをめがけて、人の営みを吸い込みながら鋼幹の間を駆け抜けて空へと届くところが好きだ。この横顔を撫でて。通過点にいる俺の、不安と混乱の嫌な熱を攫ってゆく。どこまでも、どこまでも、遠のけてほしい。溢れては連れて、零れては連れて、そうしたらきっと、最後には何も残らなくて。
「…それじゃあ、駄目だ。」
これは、加宮 桐が居た証。この世界で誰も憶えていない、たったひとりの親友が確かに存在した証拠は、もはやこの心の揺らめきでしか無くなってしまった。彼と過ごした記憶はここにあっても、それを否定され続ける。であるから、俺だけはおかしいと叫び続けなくてはならない。桐の居ない世界がおかしいと、訴え続けなくてはならない。でなければ、桐の居た痕跡はこの世から消え失せてしまうから。彼の吐息の波紋すらここには無いのだから。
俺(白崎 良風)は高等部第四棟の屋上―つまりいつもの教室がある棟の屋上で、空を眺めていた。4階建ての棟であるが、周囲はおよそ同じ高さの棟とグラウンドに囲まれている程度のため、見晴らしは良好だ。鋼幹が雲を纏って青い空へ突き刺さっている背景が日常で、顔を横に倒せば、大学棟の背の高い建物があるのと、掴めそうな綿雲が遠くに浮いている。
今は授業の一切が終わり、各々が課外活動に動き出す時間。桐にとっては、上弦葉域をいつもひとりで去っていく時間だった。
彼の姿を体育館の下駄箱から、薄っすら遠目に見送ることが何度もあって。寂しそうな彼の後ろ姿に、明日も迎えに行きたいと、同情ではなく『会って笑顔を見せてほしい』そんな純粋な気持ちが胸に積もった。何度も。何度も。だから俺は早起きができて、桐の葉域の道を覚えて、走って町を駆け抜ける朝の心地よさを知って。
「どこ行っちゃったんだよ、桐。どこに。どこに行った。置いていくなよ!お前!バカ!バカバカバカ!桐のやつ!バカ過ぎる!俺くらい、お前のことを大事にする親友はいないぞ!分かってんのかよ!バカ野郎ぉーッ!」
代わりなんていないんだ。あの、四真 冷華とかいう女。桐の欠片もない、あの女。友達?我が物顔で、図々しい。代わりだなんて名乗っていないけれども、桐の席に座るということはそういうことなんだろう。何者だ。昼間の押し問答では、何も情報は得られなかった。
あいつが桐を消したのか?それにしたって、手が込み過ぎてやいないか。誰の記憶からも消すなど、そんな技術は聞いたことがない。いや、時事には弱い自覚はあるけれども。
「わっかんねえ…いっつも、芽衣が考えてくれたからなあ…」
今頃、呑気にラッパでも吹いているのだろうか。いや、彼女の吹奏楽に対する熱意は痛いくらいに知っている。俺は。あいつと同じくらい、ハンドボールに精根注ぎ込んで。でも、今日は行く気になれない。ずっと、ここで風と戯れていたい。
手のひら大の電子端末をポケットから取り出し、光の反射で見えにくい有機ELの画面をのぞき込む。特に用もなかった。いつもならメッセージを確認してお終いだが、ふと、思い出に浸りたくなった。写真のアルバムを開き、過去へと遡る。桐の写ったものを探していく。
スワイプ、スワイプ。一週間、一ヶ月、二ヶ月。めくり続ける。
「…ない。」
一年前。二年前。三年前。
「ない。ないぞ。」
やがて、上へ上へとめくられた画面は、天井につっかえたように弾んで止まる。保存されている画像の全てを、一目に確認した。しかし、どこにもないのだ。彼の姿を写した写真は。
見間違いかと思った。ここ一週間でも、桐と写真を撮ったことはあったはずだ。モノレールに乗ったり、桐の家のドアが壊れたり、この鋼幹の最上部まで登ったり、メロンパンを買ったり…
もう一度。もっと丁寧に、見てみよう。
今度はリストでの確認ではなく、一枚一枚を丁寧に見てみよう。まずは一枚目だ。これは冷華と芽衣の3人でモノレールに乗った日。
「…?ああ、勘違いだな、モノレールは桐じゃなくて、冷華と行ったんだった。」
次は二枚目だ。これは購買部で数量限定の大人気メロンパンを、俺と冷華が揃って購入できた記念すべき勝利の日。
「…そうだ、これは桐じゃなくて、冷華と買ったんだった。」
三枚目。これは冷華のボロアパートのドアノブのネジ頭が取れて
「そうだ、桐のアパートじゃなくて、冷華の。……!」
熱い薬缶に触れたかのような反射で、俺は電子端末を目の前のコンクリートタイルの上へと投げ捨てた。事実を受け止めきれないことへの拒絶ではない。写真が全て、ねつ造されていることへの気味悪さではない。
なんだこの感覚は。
確かに、冷華が記憶に居るではないか。思い出すことができてしまう。その写真を撮ったときの会話を、モノレールの手すりの温度を、芽衣が冷華をからかう姿を、折れたネジの錆びた断面の手触りを、この写真に写っていないその日々の情景すらも。
そして辿り着いてしまう。なぜ、忘れていたのだろう。なぜ、桐と冷華を勘違いしたのだろうという疑問に。
「気持ち、悪い…なんだ。何なんだ。思い出した?思い出しただと?おかしいだろう、そんなこと、あったはずがないのに!冷華と!俺は!初対面だろう!?今日が!初めて会った…?いや、モノレールにも一緒に乗ったしメロンパンだって…」
だが、記憶が嘘をつくのか?俺は、桐との思い出を探しているはずだった。なぜ、冷華との記憶を思い出さなくてはならない。だが、紛れもなく、これは俺の記憶ではないか。
「…これ以上見たら、分からなくなる。」
これ以上、『身に覚え』を憶えさせられてたまるか。一度、落ち着こう。そして、思い出すんだ。ここ一週間で、桐と写真を撮った出来事を。
そう、ここ最近は、芽衣と冷華と行動を共にすることが多くて、桐と遊びに行った回数は少なかった。だが、一度だけ写真を撮った機会があった。そう、この上弦葉域のある、鋼幹の最上層まで登った日。
最後に、それだけを確認しておこう。俺は電子端末を拾い上げ、再度端末の画面に目を落とした。
「…あ。」
端末は壊れていた。
*
埃とカビの臭いに馴染まぬ鼻の不快感に耐えながら、僕(加宮 桐)はヒビと剥がれたタイルがみすぼらしい研究員室のソファで一夜を過ごした。設楽 友助のアジトとされているこの地下研究施設跡地は、あまりにも手入れがされていない。高圧の電線がむき出しになっている天井や、深い割れ目が突如と廊下に横たわっていたり、寝ぼけ眼では歩けないような荒れ模様は地上の街並み以上である。
僕が再び鉄くずの山のある大広間へと顔を出してみると、設楽が何やらスパナやペンチで工作に熱中している最中だった。その表情は昨日目にした明るく朗らかで人懐っこいものではなく、職人が細工のたった一端を拘り切磋するような、芸能に一身を注ぐものである。
「…あ。おはよッス!いつから居たッスか?えーと、そう!飯にしましょ、加宮のアニキ!俺、食べずに待ってたんスから。いや…まあ機械いじりに夢中になってて食べるの忘れただけッスけど…」
「ん、ああ…邪魔したな、ありがとう。」
「はっはーコレすか?丁度仕上がったんで、問題ないッスよ!少々お待ちを…」
そう言い残して彼は、大広間の脇の小さなドアの向こうへ消えた。
この地下施設はそれなりに広い。この大広間を除く部分の床面積は大したことはないが、細く長い廊下と小さな小部屋がいくつもあり、僕はまだその全てを見て回ることができていない。この大広間をぐるりと囲むようにそれらがあり、大広間自体も、体育館4つ程度の広さがある。以前の用途はおそらく、端に引かれた線路を通っていた鉄道の荷下ろしと、そこから壁ひとつ隔てて研究室があったのだろう。その壁は今や崩落してひとつの空間になってはいるものの、残った破片がこの部屋の原型を想像させる。
「しかし…鉄道の隣すぐに研究室だとしたら。無茶な設計だよな。騒音とか、振動とか。研究なんて集中できるかよ…」
そういえば、鉄道はともかく、なぜ研究室だと直感したのだろう。
「お待たせしたッス!なんと缶詰めを用意したッスよ!めっちゃレア!」
「缶詰め…なんの?」
「鯖!」
鉄くずの山の全体像が、丁度視界に収まるくらいの距離感に設置された円卓へ、設楽は封の空いた缶詰めを2つ並べる。丁度三人程度が囲めるような足の低いものであるが、缶詰めが小さいだけにすわりがよい。手渡された鉄を研磨した箸は冷たいが、手に馴染む良い心地があったのはおそらくそれが箸だからだ。
設楽と向かい合うように円卓を挟み、あぐらをかく。その後の言葉は、自然とこぼれた。
「いただきます。」
「いただきます!」
「イタダキマス」
いつの間にやらそばで機械音を鳴らしていた『パスマロちゃん』の返事に続き、缶詰めを持ち上げる。
箸先で細かく分けた鯖をつまみ、口へと運ぶ。
甘しょっぱい味付けの汁が舌先へと滴った。
それを合図に、口を閉じて、唇から端を抜き去って。
冷たかった鯖が、口の中でやんわりと温まってゆく。
それで、思い出したように噛み始め。
顎へと染み渡る、久方ぶりに噛み締めた奥歯によるじんわりと痛いような感覚。
思わず、身をよじらせてしまう。まるで、長い間それが使われてこなかったよう。
だが、それ以上に、少しばかり味付けの濃い鯖の缶詰をいつまでも味わっていたくて、噛み締めることを止めなかった。
「…おいしい。」
「おいしいッスね。」
「オイシイ」
記憶が無くても分かる。こういうときは『美味しい』と言って、感謝するものなのだと。
ここにいないあの2人のおかげで、僕は生き延び、代わりにこれを食べていて。それが分かっていても、実感が湧かないのは申し訳なくて。せめて、憶えていようと思った。
「昨日…亡くなった2人の名前は?」
「バンダナの方が、陽太。声が低い方は、祐一ッス。」
「分かった。」
「ヨウタ、ユウイチ」
「そうッス。パスマロちゃん、たまに呼んであげて下さい。俺たちも、たまに、思い出すッス。」
「ヨウタ、ユウイチ」
記憶が無いといっても不思議なもので、物の名前や使い方などは憶えているものが多い。そのくせ、自分の名前が憶えていなかったりと、ちぐはぐな失い方をしている。一方で、思い出といったものは一切合切見当たらない。自分がどこで何をしていたのか。何を目的としていたのか。箸よりも自分のことを知らないなんて、お笑いじゃないか。でも、こうして新しい記憶を積んでいけば。きっと、正しい何かが見つかるような気がする。
『与えられる情報はこれだけだ。これ以上の情報は、真偽に欠け、また、無垢なお前の判断に水を差すだろう。』
そうだ。手紙を書いた昔の僕も、それを見越したような言い草だった。
「加宮のアニキは、これからどうするッスか?」
「ん?ああ…コーヒー豆を探しに行く。かな。」
あえて国会議事堂を目指していることは伏せた。
「…え、コーヒー豆?」
「うん。」
「そりゃあ…経緯は知らないッスが、難しいお題ッスねえ。」
「ムズカシイ」
ヘルメットを揺らして設楽は顔をしかめる。僕は残った鯖を一口に食べ終え、缶詰の汁を啜った。
「…やっぱり難しいの?」
「んーまあ、あるところにはあるッス。ただ、この辺は既にほとんど漁られて、食料はもうないッスから。北の方へ行かないとならないッスねえ…」
「北…」
「北は殺戮機が多い上に、人も多いッス。とんでもない奴らが多いッス。それでも噂じゃ、機能している街もあるとか…」
「殺戮機が居るのにか!?」
「…いや!眉唾ものッスよ。街があるなんて。」
設楽は噂話を口にしたことを後悔してか、目線を逸らして否定した。それが尚更、僕にとっては街の存在を期待させる。火のない所に煙は立たぬ、と言うではないか。確かめる価値はあるだろう。
「…行くんスか?」
「え?ああ、まあ…そうだな…」
「そういう顔、してるッス。正直、行ってほしくないッスよ。俺、あの二人が居たから今日まで生き延びて来られたッス。もう、守ってくれる人は…」
「お前も一緒に来る。それじゃあ、駄目か?」
「っはぁ…やっぱり、そうなるッスよね…」
設楽は答えを渋るも、目線はある一点に注がれていた。それは先ほど彼が工作をしていた、鉄くずの山の近くに据えられたデスクの上。そこには手のひらに収まるくらいの、黒く四角い何かが置かれている。
「一週間。待ってほしいッス。一週間で、丁度食料も底が見えて来る。そして、加宮のアニキにはアレを使いこなしてほしいんスよ。」
「アレ?」
「加宮のアニキが持つ、リボルバー銃のアタッチメントッス。つまり、追加武装ッスね。まあその前に…」
既にふたりとも、箸を置いていた。そして設楽は手を合わせる。僕も逸る気持ちを抑え、手を合わせた。
「ごちそうさまでした。」