第1話 『”ノーコン女”』
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さて、ようやく第1話です。穏やかだった登場人物に動きが出てきます。こちらの方が最近の読者には心地良いらしく。ラノベのような疾走感は無いですが、『語彙と描写の豊かさが売り』なのは変わりません。どうぞお楽しみください。
「ここはどこだ?」「そうだ!」「待ってくれ」「僕はこんなこと望んじゃいない!」「あなたは特別」「帰してくれよ!」「夢から醒めて」「ここじゃない場所へ」「まだわからないの?」「外になんか」「忘れたくない!」「あそこが僕の」「違う」「嫌だ」「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」「いいえ」「嫌だ」「そう」「だから僕は」「手を」「止めてくれ」「偽りの世界は」「気持ちがいいの?」「だって」「分からない?」「だって!」「忘れるんだから」「可哀想な子」「覚悟はいらない」「信じるしかない」「希望はここにあるよ」「忘れたとしても?」「誰もいなくとも?」「全てが敵に回ろうとも?」
「それでも」
「僕は」
「世界を救いたい」
*
長い。
長い、長い夢を見ていた心地だ―僕は。曇天の下に立ち尽くす僕は。何も憶えていない。母の顔も父の顔も友の顔も誰の顔も、僕の顔さえも、まるで、頭にぽっかりと空洞ができて、その穴を通るこの塵とスモッグの薄く混じったビル風が、僕の記憶をどこかへ連れ去ってしまうかのようだ。「苦しい」「虚しい」それすらも、手放したくなかったが、至ったのは、何もない僕だった。
「空。」
一面の灰色。遠くで燃え盛り空を焦がす赤。それを覆うべく、黒く分厚く膨れる煙。
「ビル。」
崩れた鉄骨。剥き出しの支柱。風化したコンクリートの断面から、時折こぼれた欠片と粉。
「…道。」
ひび割れ、隆起し、舗装の下から土を覗かせる荒れた道路の上に僕は乗っている。一体、どこへ続いているのだろうか?折れた標識の塗料はかすみ、まるで読み取れる情報はなく、道の先は淀んだ空気が霧となって視界を淀ませていた。
「霧。きり、きり。きり…」
口ずさむ『音』がどこか懐かしく、どこか飽いていて、誰かに呼ばれることへ焦れる想いすらするのはなぜだろう。「きり」は、きっと、僕が失ったもののひとつなのではないだろうか。
それから僕は、呟き、口ずさみ、繰り返し続けた。「きり」「きり」僕はどこへ行く。「きり」「きり」僕は何をする。
「きり。きり。」
『きり』はなにも言わない。
だが、心は落ち着く。視界を横切る廃屋と折れた街路樹も、僕を不安にさせることはしない。ただの苦しそうな造形が、遠くまで続いているだけなのだ。
でも、「ちょっと、苦しい。」そんな言葉が漏れたのは、身を包むゴムのような質感のスーツが肌にひっついて息苦しく感じたからで。
「きり。きり。」
何も分からない『今』を受け入れていることができていると、信じたかった。
そんな限りなく内側に傾いた心のベクトルを、くるりと引っ掻く出来事は、予兆も無しに。全くそれが何か分からないうちに、始まった。
「…re」
「…?」
遠くどこからか聞こえた、日本人とは異なる骨格から発せられた抑揚のない声と共に。足元を何か、素早いものが掠めていく。
「Fire」
ふぁいあ。そう聞き取れた。
よじった肩を、更に素早い何かが掠めた。それは背後。背後の、荒道の端っこ。端っこの、今にも音を立てて崩れそうな雑居ビルの陰から。覗かせている白い銃身と目が合ったのだ―僕は、ひびの割れた『浪漫』と書かれたスタンド看板の裏へ躊躇わず身を滑り込ませる。
遅れて、とん。とん。僕の影を縫うように、地面を叩くものがある。弾丸だ。跳弾に気を付けて、身を包める。背後は大丈夫?うん、大丈夫。
「軽傷、軽傷。……いや?僕は何を」
何を考え、何を言っているのか。ようやく後で分かるくらいに、その瞬間の僕の全てはフルオートにやらされていた。滑走させた足の立てる砂煙を吸わないように、ふっ、と息を吹きかけて、右手を腰に何かを引き抜こうとするその手つきも。あくびに手を当てる動作のように、椅子の背もたれに背を預けるように、洗練とは異なるも、日常にくっついたその動きは、僕に何かを教えている。記憶がここにあるよ、と。手を当てたそこには何もなく、ただのベルトが巻かれているだけだというのに。
「どうしよう。」
困った。しかし、どうにも心持ちは落ち着いている。不思議なものだ。何かに銃を向けられ撃たれ、それでも僕は余裕を失わず、遮蔽物に身を隠し、周囲を窺う。それどころか、目と鼻の先で簡素なガラスのドアを構える喫茶店に目がいくのだ。
「喫茶店、喫茶店だな。んん。開いてる?…うん、しばらく、雨宿り。」
看板を掠める先ほどの銃撃の続きを、ゆらり、喫茶店の暖簾をくぐるように避けては、僕は店の中へと立ち入る。
――――
*
「おーい!桐!きりきりきりきりきり…桐!いないのかよ!おーい!」
「みっともないわね、あんまり叫ぶんじゃないわよ。」
杉守 芽衣の呆れた顔に気もかけず、扉を叩くごとに加宮 桐の名前を呼んでは叩く白崎 良風。その額からは、水を浴びたように大粒の汗が垂れていた。それは、昨日の大雨が嘘であったかのような、照り付ける夏の日差しのせいである。地面にもはや靴を濡らす水たまりは無く、土はこびりつかない乾いた砂となっていた。
「寝てんのかよー桐!」
待ちくたびれた白崎は、ついにドアノブを引っ張る。アルミサッシの錆びが擦れる、耳の奥を擦ったような音と共に、ドアは開いた。
「あ。開いてるじゃん。」
「鍵かけないで寝てるわけ?全く、だらしないわねぇ。」
「おーい!桐!入るぞ!」
返事を待たずに踏み込む2人。加宮相手に遠慮がないのはお互い様だ。古いアパートなだけあって、歩くごとにフローリングは小さく悲鳴を上げている。3メートルもない廊下を歩けば、たちまち生活感のある居間へと続くドアに白崎の手はかかった。
「開けるぞ!」
ドアを勢いよく引っ張った白崎の手には、一瞬、空気の抵抗が強くかかり。それを構わず開け放った白崎と杉守を、吐き出し窓から吹く朝風が迎えた。纏わりついていた夏の熱気をささやかながらに冷ますそれが、ふたりにとって心地よく、深いまばたきをいくつかさせる。
「…いないじゃん。桐。」
「はあ?窓開けっぱなしじゃない。…トイレ?にも、いなさそうねぇ…」
布団がずり落ちたベッドの上はひんやりとしていて、その上で一冊の本がペラペラとページを風になびかせている。それは写真集だった。加宮らの中学生時代が、そこにはありったけに収められており、笑顔が、その次も笑顔が、脳裏をくすぐる懐かしい景色と共にある。その階段も、壁も、大樹も、鳥居も、…何もかも、ふたりの中から溢れてくる、淡い思い出を引き出していく、不思議な感覚。
「随分、なっつかしいもの見てたのねぇ。」
「ああ、うん…これは修学旅行かな。なんで今の今まで忘れてたんだろ。」
「は?あんた、忘れてたの?信じらんない!あんなに楽しかったのに!」
「い、いやいや、ちょっと。ちょっとだよ、ちょっと忘れてただけ!それより、桐のやつ!いないってことは、俺達、置いてかれたかもしれねえ!」
「ええ…そう…でも…」
部屋を出て行く白崎を横目に、杉守は散らかった部屋の様子をじんぐりと見ては喉でうなり、大きく首を捻ってはもう一瞥。
「只事じゃなかったりして…?失踪、みたいな。ねえ、良風!」
「桐ー!おい桐ー!どこだあ!桐ぃ!」
「全くあのバカは…叫ぶの、やめなさいよー!」
「ああああああ毎朝毎朝もうぅぅ、うっさいわねぇ…!く、クソガキぃ!止めなさいよぉ…!寝不足なのよぉあたしはぁ!!」
突如と玄関で、空気に亀裂が走るかと思うくらいに語尾が裏返った女の声が白崎を襲っている。「な、なに?」驚いた杉守はアルバムに手を伸ばしかけたところで、駆け足に白崎の元へと向かった。
「うぎゃー!オニババぁ!」
「お、お、お、お、オニババですってぇ!?まだ大学生よぉ!が、ガキぃい!」
「いてぇ!いてぇ!耳!耳離せ!」
見れば、加宮の隣の部屋のドアが少し開き、そこから伸びる細い手が白崎の耳をつまんで離さない状態。状況を察した杉守は、「ご、ごめんなさい!」と、逃げようとする白崎を取り押さえ、頭を下げさせる。
「だから言ったでしょこの白バカ!騒いだら周りの人に迷惑なんだから!」
「あ、あんたも十分うっさいわよ…ま、まあ、いいわ。これに懲りたら、もう、騒がないでよね、あたし、無理なんだから、大声とか…」
「わりぃ!ところで桐知らねえすか?」
こいつ、いけしゃあしゃあと。
それは杉守が内心で吐いた台詞。取り付く島も無さそうな間であったが、思いの外、ドアは数センチの隙間を残して閉めかけて止まるので、これ幸いと杉守はドアノブを抑えて畳みかかる。
「桐の姿がないんです!ドアも開いたままだし、窓も開けっぱなしで、部屋は散らかってるし(おそらくこれは常時だが)、なにより良風を置いて学校にいくなんて考えられない!」
「は、はあ…?し、知らないわよ…そんなことあたしが知るわけ…知ら…知…ああ、知ってたわそういえば。」
「そうですよね、知りませ…え!知ってるんですか!?」
「え、ええ。まあ。多分昨日は帰ってないわよ。」
「えっ」
あの桐がそんな放蕩なことを?白崎も杉守も、それを腑に落とすには彼の信条と行動を知りすぎていた。異常事態だ、そう同時に直感したのは2人の共振ではなく、純然たる結論で、竹木を揺らせばしなると同じ。
「なぜ、帰っていないって分かるんですか?」
「こ、ここ、ボロいから。と、隣の音が丸聞こえなの。あ、あたしは聞き耳なんて立ててないわ!隣から、物音、しなかったのよ。少なくとも、朝の4時くらいまでは。」
「朝の4時?」
「あ、あたしがその時間くらいまで起きてたのよ!文句あるの?…そう、そうよ、それで、気持ちよくこっちは寝てたのに、あんたたちが騒ぎ始めるからぁ…!」
再び言葉の端々で声を裏返し始めた彼女の様子に、ヒステリックの予兆を察知した白崎たちは、その場からじりじりと立ち去る準備を始める杉守。これ以上、彼女の感情的深みに嵌まっていたら始業時間に間に合うかも分からないという判断だ。
「お、お話!ありがとうございました。参考になりました。それでは!私達、学校がありますので!さようなら!」
「え?あ、ちょっ、ちょっと…」
(行くわよ良風!あんたは良くても私が遅刻なんて許されないんだからね!)
(お、おいー、まだ時間、余裕あるって…)
杉守が強引に良風の腕を引っ張り、2人はアパートの階段を駆け下りていった。成す術なく2人を見送ったドア越しの彼女は、程なくして赤い眼鏡の奥で目尻を吊り上げ歯ぎしりを立てる。まるで自分から逃げられたようである状態が、年上である彼女の高いプライドに障ったのだ。
「こ、これだからガキはぁ…ッ!…そ、ういえば、あの加宮って子、あたしの傘、返してないわね…あるかしら…」
彼女ははだしのまま部屋の外に出て、隣の加宮の部屋の玄関を確認する。
「ないわね…っていうか…開けっ放しじゃない…ホントに…」
彼女は好奇心に身をうずかせる。「鍵、探すだけなんだから…」と、自分に言い聞かせては周囲に人影が無いことをじんぐりと確かめ、彼女はそのまま加宮の部屋へと入っていった。
――――
*
「いらっしぇーませぇ。」
「あ、え、ひ、人がいる!っていうか、この店、営業してんのか!?」
「は…?表の看板を見て入って来たんじゃねえんでございまするかぁ?」
僕―加宮 桐が踏み入った喫茶店には、ひとりの女がカウンターで煙草を吸っていた。
彼女の言葉に釣られ振り返った先にある外の看板は銃弾に晒され、赤いゴシック体で書かれた『浪漫』の文字がひび割れている。そんな外の様子と打って変わって平静な店内の様子に、僕は戸惑いを隠せない。更に異質なのは、この給仕服の女。手入れされたドラセナの観葉植物や清潔そうな木製のカウンターからは想像がつかない態度を見せる。
「客じゃねえでございまするかぁ?」
灰の焼け落ちる煙草を片手に、レジの隣で女はベージュ色に染めた長い髪の毛を指先で弄ぶ。開きかけた瞳孔で僕を睨んでいるのか値踏みしているのか。ひとつ言えるのは、どちらかというとこの女は、街角の何気ない喫茶店よりも銃弾ひしめく廃墟の街並みの方がお似合いだろう。
「えっと…銃で撃たれまして。それで、目の前にあったこの店に転がり込んだのですが…って、そう、なんか狙われているんですよ!どうすればいいのか分からな」
「あぁあぁ!だから客なのか客じゃねえのかはっきりしろでございまするよぉ!じれってぇでありまするなぁ!」
怒号に任せて身を乗り出した彼女は、カウンターの上を右足で踏み付けると、驚くべきものを僕に向けた。
アサルトライフル。
彼女の膝上にはそれが置かれていたのだ。構えられた銃口が、その重さで上下に僅かにぶれているのを見て、直感する。本物だ。この女、短気にもほどがある。半ば引き金を引きかけているではないか。そも、銃なぞ喫茶店の店主が平然に持ち合わせていいものではない。
「ちょ、ちょ、ちょっと!落ち着いてくださいよ、勘弁してください!客ではないですけど!別に害を与えようなんて気はないですから!」
その刹那、これほどまで大きく鳴らせるものかというほどの舌打ちが店内に響いた。非常に不愉快―それは僕も同じく、まさか、認識している中では初めての、『他人との接触』がこのような荒々しく不躾な女との遭遇とは。
記憶が無くとも分かる。人との出会いとはこのような、息苦しく心に鉛を溶かし込むようなものではないと。
そんな気も知らでか、目を合わせることすらしなくなった彼女は、胸ポケットの二本目の煙草に手を伸ばす。さて、どうしたものか。思ったよりも自らの精神は逞しく、そんな彼女の態度には物怖じはしないししたくない。
「…記憶が無くってですね。ここがとんでもなく危険な土地であるのは、見て分かるんですが、なんとも状況が掴めず、困っているんです。」
「うるせえな…客でもなく敵でもないってのは、一番厄介でありまする…」
「(コイツ…)ここはどこだか、教えてはいただけないでしょうか。」
「…待て。記憶がない?ここがどこだか分からない?…っはァ!?てめぇ!新参かよ!冗談じゃねえ!帰れバカ!お前みたいなやつがウロウロすっから……ッ!」
女は。
口にしていた煙草と罵声の続きを床に吐き捨てて止め。カウンターの下へと身体を翻す。
僕は見た。血相を変えた彼女の瞳に写る、僕の姿の、その後ろに、店の窓を覗く白い銃身と二つの影を。
「Fire」
「くそがああああ店がああああああ」
炸裂する花瓶。砕ける棚。割れる額縁。袋から雪崩れるコーヒー豆。サイフォンはガラスの屑となって散った。マシンガンの嵐がなお続く。破壊の音が止まらない。火薬のにおいが立ち込める。反射的に床へ身を伏せた僕の頭上を、いくつも、いくつも、弾の軌道が裂いていった。土煙と硝煙で、何も見えなくなるまで、それは続いた。
「…止んだか…?あの女の人は、無事か…?」
「Bomb」
灰色の煙の壁から何かが、こぼれて落ちて床を跳ねる。薬莢よりも重たいものが、フローリングを叩く音がする。コン、コン、ゆっくりと転がる余韻が続く。
爆弾だ。この煙の中のどこかに、投げられたのだ。
ああ、これはだめだ。死んだ。冷静な分、僕は諦めるのも早いらしい。落ち着いているのは、肝が据わっているからでも、馴れているからでも無かった。振り返る過去がないから。自分がどれくらい大事なのか、実感が無いからなんだ。
「うちの店によお…」
「え?」
這いつくばって、成り行きを見守るだけとなった僕の隣に。エプロンのレースが、ふわり、給仕服に似合わぬ軍用ブーツで彼女は颯爽と降り立った。
「ゴミを捨てて!行くんじゃねえぇえ!!」
彼女は何かを拾い上げ。視界の悪さはなんのその、迷わずそれを店の外へと放り投げたのだ。
「す、すげ」
「バカ!伏せろ!」
「ぐえ」
やった!と、立ち上がろうとした僕の首裏を、彼女の肘が地面へ叩きこんだ。
そう、彼女の投げたグレネードは。店の外へと綺麗な放物線を描くどころか、窓の縁へぶつかって跳ね返り、僕たちの背後のカウンターの向こうへと落ちていったのだ。
「「ひっ…!」」
そして、爆発―
続きます。