第0話 『”こんな日々がずっと続けばいいのに”』
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日常編です。異変の始まる、3秒前。
日常編ということもあり、日常の描写に特に注力しています。話のテンポも遅く、ゆったりとした平穏の描写が続いていくことこそが、正に『日常』だと作者は思っているからです。
また、未来の日本を描くということもあり、建造物はいちから説明しなくてはならない重たさ。SFの難しいところです。そこは頭の中に描く未来の日本を楽しんでいただきたいところ。
第1話ではなく、『第0話』としたのは、あくまでもこの物語は『異変』が起きてからがメインであるからです。日常描写は異変を描くためのアクセントとして用意しましたが、あくまでも前菜です。かといって、後から付け足すように日常を回想などで書きたくはありませんでした。
よって、『第0話』とした次第です。
読者の皆様には、この第0話では『日常』を楽しんでいただきたいです。
文中にある登場人物たちの穏やかなやり取りや、未来都市ながらも残されている自然への感性は、私達の日常にも通じるところがあります。ぜひ、情景を思い浮かべながら日常に目を向けてみてください。
*
僕が住んでいるところは六畳半の1LDKで、日差しがよく差し込んでくれる。フローリングの真ん中をベッドが占拠し、部屋の四隅にはそれぞれクローゼットと姿見、テレビと教科書の山がある。
「暑いな…またシーツ洗わなきゃ…」
額の汗を枕で拭いながら、うつ伏せの身体を起こして眩暈が収まるのを待った。カーテンが無いため、夏場の寝床はすぐに熱気に満ちる。一刻も早くこの気だるさから解放されたいと、ベッドから足を下ろした先には布団の感触があったことから、そろそろ布団がいらなくなる時期なのだと自覚した。
掃き出し窓に手をかけ、窓のキャスターの転がる乾いた音にボルテージをかけるべく、一気に開け放つのは快感だ。空へ吸い込まれるように、一晩を共にした空気たちが外へ逃げて行き、代わりに、待ちくたびれて駆け込んでくる客のような外の空気が部屋の中へ吹き抜けてきて、昨夜断っていた外と繋がった気がするのは僕だけではないはず。それくらい、外と内の繋がりをはっきりさせることは重要なこと。
「今日も、張り切っていこうか。」
狭いベランダの向こう側では、今日も街々が浮いている。
ここは地上100m近くの高さに建てられた住宅街の一角、ボロアパートの一室だ。アパートの位置が高すぎる?それは確かに。だが、これは珍しいことではなく、この時代においては『至って普通のこと』。
宙に浮かぶ数多くの街々。そのひとつひとつが、地表から伸びる鋼の柱と支柱によって支えられている。柱は高さ八百メートルおよび半径数十メートルほどもあり、よく喩えられるものとしては大樹だ。鋼の柱はその無骨に無機質な点を除いて、大木の幹に見立てることができる。よって名称は『鋼幹』。これが今の日本を文字通り支えている世界最大の建造物群だ。
その鋼幹から伸びる支柱『鉄枝』が、街々を様々な高さで支えている。それがなんとも、鋼幹から枝分かれして生えている葉のように見えるのだ。実際、一本の鋼幹から伸びる鉄枝が支えている街の総数は1000を優に超える。が、街といっても、地区ひとつ分ほどの大きさであるので大した広さではないが、合計すれば日本の本来の国土の十分の一に近い面積にのぼるらしい。また、街のひとつひとつがその程度の面積であることを利用し、日光を一定時間にそれぞれの街が浴びられるような配置で建造することができているという、見事な緻密さ。これらの特徴こそ、まさに樹木と似通った点だろう。
故に、鉄枝によって宙で支えられている街はそれぞれ『葉域』という単位で呼ばれているわけだ。
日本は現在、このように上へ上へと国土を拡大し続けている。今日もどこかの鋼幹で、自律制御された重機たちが新たな国土を建造中だ。人口増加と経済規模の拡大、数世紀前から続く海面上昇などなど諸般の事情により更なる領土が必要となった日本は、バカ高い必要経費に目をつむって嫌々ながらこの国家建設事業、空中埋め立て計画を始める。蓋を開けてみれば、調子に乗って建てるわ建てるわ、今や建築大国日本と呼ばれるに至る。
「日本は鉄臭いデース。」実際にそんなことはないが、外人がそう言って茶化すのはよく見る光景。
「…この連続失踪事件、反社会的勢力によるものとの見方もありますが、野上さん。いかがお考えですか?」
「ええーそうですね。連鎖的に起きているということはやはり組織的な犯罪なのだと私は思いますよ。」
テレビではニュースキャスターの女が連続失踪事件の特集を細々と話していた。それに対し蛇足の安直な感想を垂れる芸人上がりのコメンテーターのせいもあってか、寝起きの頭にはそれらが重たい音に感じ、内容は全く頭に入ってこない。
「ああああ、テレビなんて買わなくても良かったかなあ…」
安価な立体ホログラムは画質が良くないので安物のテレビを買ってみたは良いものの、どうにも音声が耳に通り過ぎて刺激が強い。天気予報が見たいところだったが、時間もなく不快具合が増すばかりだったので、テレビの主電源を落とした。僕はベッドの上であぐらをかくと、朝食のシリアルが入った袋に手を突っ込んで一掴み、口いっぱいにそれを頬張った。甘みがあるものの、むせるくらいに粉っぽい。
(今日の帰りは必ず、牛乳を買ってこよう)
口の中の僅かな潤いさえもさらっていくシリアルを飲み込むと、僕は洗面所へ突撃し、手に汲んだ冷水をもたげた顔に思いっきりぶつける。これで目が覚める。ダラダラしがちな僕としては、ベッドから洗面台に勢いよく駆け寄るのがコツなのだ。
洗顔もそこそこに、歯ブラシ、着替え、忘れ物チェック。全てオールグリーン。クセがないながらも量のある毛髪にだぼったさを感じるが、まだ前髪が邪魔になるほどの長さでもないため、右へ流して放置だ。
「行ってきます。」
誰もいない部屋に挨拶を投げて、僕は足早に外へと飛び出した。
―――
「桐!おい遅ぇぞ!」
僕―加宮 桐が建付けの悪いアパートのドアに鍵をかけていると、三年ほど聞き慣らした声が下から飛んできた。既に汗を帯び始めた手を器用に使って手早く施錠し、鍵をカバンのポケットにしまって、触ればボロボロ鉄かすが落ちる手すりを伝い階段の方へと向かう。塗料が剥がれ錆びついた階段の二段目に、友人の白崎 良風がどっかりと座っていた。
上にカーブをかける眼尻のせいで、少々ガラの悪いように見える彼だが根は純粋なやつだ。アクセサリー類を一切身に着けないところには大人たちも好感を覚えるところだろう。個性的な彼の短い白髪は、視力に自信がない僕にとっては目立って助かるものだ。
「そこ、座るとズボン鉄臭くなるよ。」
「細かいことはいーんだよ、ほろえば大丈夫だろ!そんなことより時間!学校!不真面目系な俺と真面目系なお前、ふたりで遅刻した場合ダメージでかいのは多分俺なんだよーっ!」
「そんなことはない、ない。平等、平等。」
「いいから早く降りて来いったら!」
「へいへい。」
白崎は立ち上がるなりその場で足踏みをする。急げ急げと、走る格好だ。勘弁してはくれないか、今日はそれなりに暑いのだが。
学校指定の手持ちカバンを右肩にかけ、階段に足を下る。体重の乗った踵が、カツン、カツンと鉄らしい音を弾く。拍を取られている感覚が、僕の次の一歩を急かされているみたいで少し楽しくなった。いつの間にか、僕は駆け下りていた。階段の先には準備万端とばかりに足取りに弾みをつけた白崎が左手を挙げていたので、僕は勢いの乗った手で、白崎の手のひらを狙った。
大きく振りかぶって、思いっきり、その手をひっ叩く。パーン、と、くたびれたアパートに響く快音。ああ、じんわりと手が痺れるのが非常に心地よい。このまま砂利を後ろへ蹴飛ばしながら、まばらな人気が歩きやすいコンクリートの道へと飛び乗るのだ。
『こんな日々がずっと続けばいいのに』
―――
今僕がいるこの葉域は居住葉域のひとつだ。人が住むための葉域で、それなりの数のアパートやマンション、一軒家の他に、コンビニエンスストアと総合病院が一軒ずつある。葉域の中ではこの居住葉域という種類が一番多い。僕の住む葉域は病院があるという点で恵まれてはいるが、スーパーが無いことには少々の不満を覚える…もっとも、スーパーのある他の葉域への移動はそれほど手こずらないものだが。
同じ鋼幹にある葉域同士ならば、鉄枝や鋼幹に内蔵されたエレベーターを利用して行き来することができる。エレベーターの入り口こそ鉄枝一本につき十箇所しかないが、鋼幹の中では一般車両が二台は入る大きさのかごが常時数百基稼働しているらしい。よって、エレベーターの待ち時間はほとんど無く済んでいる。ただし、他の鋼幹同士の移動はモノレールを利用しなくてはならないため、遠い鋼幹を目指したならば長旅にもなるだろう。
僕と良風は高校三年生だ。上弦学院高校という、大学までエスカレーター式の学校に籍を置いている。この鋼幹の中ではそれなりに優秀な方で、僕は学業を、白崎はスポーツの成績が認められ入学を果たした。
あのハイタッチから十二分ほど。アパート群を既に突破し、この一軒家の立ち並ぶ通りを抜ければ、葉域と葉域を移動するためのターミナルが見えてくる。
学校まで走ることはそう無いわけではない。いつもなら軽快にターミナルのエレベーターへ飛び乗っているところだが、今日は別だ。この、眼前の景色が揺らいで見えるほどの夏らしい夏。かき氷も半分を食べ終わる前に水になってしまうだろう。七月に入ってからそう無かったこの猛暑に体力はみるみる奪われていく。
二十一世紀より急速に進んだ地球温暖化により、今の日本の四季のバランスは崩壊した。天候はもちろん、気温は特に予想のつかない数値を叩き出してくる。ゆえに、天気予報は必ず見ておかなくてはバカを見る世の中だ。
見よ。通行人の中で万に一つも傘を持っていない人間がいるだろうか。
「今日!もしかして午後は雨か!」
「桐!俺も傘を持ってきていないぞ!はっはっは!仲間だ!」
カバンを提げた会社員や早朝から井戸端会議を繰り広げる主婦を横目にひたすら走り抜け、やがて僕たちは一呼吸も休むことなく、息絶え絶えの状態でターミナルまで辿り着いたのだった。
ターミナルはガラス張りの建物で、エレベーターを内蔵するだけの建物だけに性質は簡素なものだが、そのアーティステックな造形が人々には一施設であることを印象付けるようだ。ターミナルの前には円形の乗降場がある。サルビアの赤が際立った円中央の花時計の周りを、車がかわるがわるに人を降ろしては去っていく。ターミナルの前の人並みがまばらであることを見て、混雑という程ではない様子に僕は安堵した。エレベーターの回転数は今日も良好らしい。
僕たちは上がっていた息を整えながら乗降場の周囲をぐるっと回り、ターミナルの中へと歩みを進めた。
「おー、これなら間に合いそうだぜ、桐。ちょっと休んでいくか?」
「馬鹿言いなさんな。ウサギと亀のウサギかお前は。とっとと行くよ。」
「なんでだよおーその童話、仕事中に寝るなって話だろぉ?」
「いや違うから。命題の履き違いも甚だしいな!それ!」
ターミナルの中は空調が効いていて実に涼しいものだ。ホールの端々にはソファが設置されており、一休みを誘う白崎の気持ちもわからなくはない。が、ああいうものは一度座るとなかなか立ち上がれないものだ。僕は白崎を連れて正面つきあたりのエレベーターの行列へと並び、順番を待つ。
エレベーターの同乗者は十数人ほどで、人と人の間に十分な余裕がある。僕たちはその空間の端に陣取った。というのは、鉄枝の移動中に外を眺めることができるからだ。鉄枝はその大部分が金属か何かで覆われているが、所々がガラス張りになっている。日光で鉄枝の内部が蒸し焼きになるのを防ぐためらしい。かごの前後左右もガラスでできているため、鉄枝の内部で隣り合わせになった他のかごに乗った人と目を合わせることもある。どこかの鋼幹の一定の位置で三秒間目を合わせると恋に落ちるだとかなんとか、そんな話もあるくらいだ。
「やっぱりエレベーターは端っこ!な!桐!」
「思ってても言うな、それ。恥ずかしいから。」
かごがゆっくりと動き出し、やがて速度が乗り始める。速さが一定となり鉄枝から鋼幹の中へと移ったところで、かごの中の照明を打ち消す強い日光が差し込んできた。
「おー。何度見てもすっげー!」
周囲を顧みず、白崎が歓喜の声を上げる。ここは数ある鋼幹の中でも高さはそれなりだ。ぐんぐんと昇っていくかごから見下ろせる僕の葉域は、収縮するかのように小さく小さくなっていく。代わりに見えてくる、その周囲の小さな街と街と街。かごより上にあった葉域を通過する際には、視界の上から下へと街が、ストーンと落下していくようにさえ見える。僕も小さいころは、よくはしゃいで怒られた。誰に、と。そこで記憶を呼び起こすことを止めた。
「おーい桐、見てみろよー!今日も海が見えるぜー!」
「あー、そうだね…あ。」
揺蕩う波が光っていた。青い海は久しく拝んでいなかった。ここ最近ずっとご無沙汰していた、雲一つない青空のおかげだろう。そして白崎が僕の裾を引っ張って教えてくれなければ、これもまた大人ぶって僕は外を見ることをしなかったのだろうな。
「良風、子供っぽいぞ。」
「はぁー?感動を分かち合えない大人なんぞになるくらいなら、あの青い海に抱かれて沈んだ方が幾分の幸せ、です!」
周囲の大人の咳払いが聞こえた。女性のふふふという細い笑い声に僕が赤面した。でも、ここで笑える大人はなんか良いな、と、僕は思う。
鋼幹や葉域の他に、初見の外国人が驚くべき日本の特徴はもうひとつある。海と陸地が、高さ五十メートル厚さ八メートルの巨大な壁で仕切られていることだ。今や、壁の内側の陸の高さを超える海水面が壁の外で飛沫を上げている。北極や南極の氷、グリーンランドの氷、そのほとんどが溶けてしまった今でも、どこかで氷は解け続けているらしい。海水面の上昇は止まらない。二十一世紀以降で海へと沈んだ国は数知れず、地球の青はより深みを増しているのだ。
それでも日本人は海を愛し続けている。青いことを美しいと言える。散々に陸を、自然を、荒らしてきた僕たちだけれども、その感受性はこれからも変わらないだろう。地獄の免罪符にはならない程の些細な善意でしかないのだが。
しばらくしてかごは景色を隠した。普段明るいと感じていたかごの中の照明では、多少物足りなく感じる。僕は腕のアナログ時計に目を落とした。運が良いことに、学校のある葉域までの途中で降りる人が居なかったため思いのほか時間に余裕ができていた。
「この分なら、昼ご飯買ってから行けそうだね。」
「あーそんなに時間余ってんの?んじゃ、購買部寄っていくかぁ。ハンバーグがいいな!やっぱり、こういう時はハンバーグだ!」
「お前それ昨日も言って…まあ、いいか。僕もハンバーグにしよ。」
かごのガラス壁によりかかる。ほんのりと温かく、冷房で冷やされた身体には心地良く感じる。暑かったり寒かったり忙しい最近だけど、今年も風邪をひかないで済むといいなぁ、と、のんきな欠伸をひとつ漏し、まどろんだところで少々まぶたを閉じてみた。
『こんな日々がずっと続けばいいのに』
―――
上弦学院高校は地上五百メートル地点の葉域にある、私立高校だ。同じ葉域内に上弦学院大学も内包しており、上弦学院の施設のみで埋め尽くされるその葉域は上弦葉域と呼ばれている。基本的に高さがあればあるほど地価は高いため、この上弦学院の上等さは見ての通りである…と、毎年の春に理事長が胸を張って語っている。無論、バカと煙は高いところが好きという台詞は上弦学院においての禁句である。
ターミナルを出てすぐのところに上弦学院の校門がある。中に入ってからが広く、遅刻を危惧して転がり込んできた学生にとっては校門を通過したくらいで安心できるものではない。四百メートルトラックの校庭だけで四つ、校舎はワンフロアに十教室を完備した五階建ての建物が第十棟まである。加えてその倍の棟数を揃えた大学設備が立ち並ぶ光景は、学園都市と呼ばれるのも頷けるというものだ。敷地内にはフリーで借用できる乗り捨て可能な自転車が数百台あり、増設は常に検討されている。
建物の数だけ見れば狭苦しい印象を受けるが、実際のところはこの葉域の広さに見解を改めるだろう。むしろ、舗装された道路や規則正しい街路樹、いたるところにある芝生や花壇、ついでに大きな栗の木を生やした丘まである様は都会であることを忘れさせるほどだ。アメリカの大学をモデルにしただけあって、従来の日本では考えられない敷地の使い方をしている。枯山水庭園がある点は、もはや理事長の趣味の領域。
僕と白崎はちょっとしたスーパーのような購買部で昼食を買った後、自らの教室へ向かう。僕たちの拠点となっている教室は高等部第四棟、通称高レンガ棟だ。文字通り赤レンガでできた建物で、内部は白熱電球を模したLEDが古めかしさを演出している。白い壁に接している床や階段は弾力の無い赤色の絨毯が敷かれ、つい歩く足がゆっくりと気取ってしまう厳かさがあった。…白崎は全く感化されずに走ることさえするのだが。
外のレンガ造りと対照的に、中の空間の所々の節目が黒い木材で区切られている。シャンデリアが付いてもおかしくないような内装だ。高校生にこのような装飾の施設は猫に小判だと思うが、クラスメイトの礼節に以前より磨きがかかっているように見えることから、この環境を導入する成果はあるらしい。…白崎を除いて。
教室の扉は木製の、横にスライドして開くタイプ。焦げ茶色の見た目通り、扉は少しばかり重くできている。掴みやすいように設計された縦に長い取手の接合部には、金色の装飾が施されている。自動ドアが主流の今となっては、これはただの気取ったインテリア。
「おはーよございまーす!」
白崎の独特な挨拶が教室に注入され、会話をする声は止まないままに、クラスメイト二十八人がそれぞれこちらに視線をくれる。どうやら僕たちが最後の到着だったようだ。それでも始業時間に余裕があるためか、誰かの元へ集まる者、一人で本を読む者、仮眠を取る者、各々の行動をしている。
「良風!あんた今日日直でしょ!来るの遅すぎ!」
「ゲッ!」
僕たちから見て教室の奥、教卓の周囲で固まっていた女子の輪からひとり外れてこちらに向かってくる彼女―杉守 芽衣は、後ろに隠し持っていた日直日誌を取り出すなり、素早く白崎の顔面へぶん投げた。白崎は持ち前の反応速度と鍛えられた屈伸を生かし、これまた見事な動きで日誌をしゃがんで避ける。当然、白崎の後ろに立っていた僕は無事では済まないわけだ。
「いはい…」
運悪く、日誌の角が僕の右の頬に食い込む。
「あんたの代わりに日誌取りに行ってあげたんだから感謝しなさい!」
「ありがとう!」
間髪入れずに切り返す、白崎の悪びれない感謝の言葉。普通なら面食らうものだが、杉守は馴れたもので。
「バカ!それより遅れてごめんなさいが最初でしょうが!」
理不尽な切り返しで対応。
「ごめんなさい!」
僕は床に落ちた日誌を拾い上げて口を挟む。
「それより…僕に謝ってはどうだろう。日誌。超ぅー、痛かった。」
「桐も一緒ならなんで良風のことさっさと学校に連れてこなかったのよ!?あんたも同罪!遅刻ざぁい!」
謝りもしないどころか腰に手を据えて声高らかに罪状を言い渡す彼女。さてさて、これには僕も堪忍袋が膨れ始めるというもの。
「なんだ遅刻罪って!っていうか、僕は関係ないからな!そんなの良風が早く起きれば済む話じゃないか!」
「何言ってんだよ桐ー。俺、今日はちゃんと早起きしたぜー。」
「は?じゃあなんで遅れて……」
その時、今朝方の一場面が走馬灯のように思い起こされる。僕は家の鍵を閉め、待っていた良風に急かされて……
『待っていた』良風に『急かされて』
(ん?僕のせいか?)
いっけね。とりあえず、この沈黙を破らないと気持ちが悪い。ささ、落ち着いて言葉を選ぶべし。
「まぁ…そうだね、うん。済んだことは仕方ない。良風もこうして謝っているわけだし、三人の友情ならこの程度のこと…水に流して然るべきだよ、うん。僕もね、良風が日直とか知らなかったとはいえ、配慮が足りなかったかなぁって」
「…え?何?論破厨のあんたがこうも素直に折れるのは怪しいわね…。まぁ、うん。そうね。友情は大事。うん。」
杉守はその綺麗なアーモンド形の目を訝しげに細めながらも、黒板の上に掛けられた時計に目をやるなり、まぁいいわ、と自らの席の方へ去っていった。歩きながらポニーテールを結びなおしている姿を見て、僕は緊張を解く。杉守は気分を切り替える際に髪を結び直すクセがあるからだ。これでこの話は終わったと言えよう。
僕も早く席に着こうと動き出した際に、良風が僕の肩を、ポンと叩き耳元で「サンキュ」と呟いてきた。
え、なんの感謝?水に流したこと?いやいやそれは保身のためだったんだよなあ…
良心が軽く痛んだが彼がバカなのを思い出して、みんな幸せならそれでいいか、と思うことにした。
『こんな日々がずっと続けば』
―――
「加宮。保古主義とはなんだ?」
「物事が進歩し、今までの在り方を失うことによる、不測の損失の存在を仮定し…ええっと」
「教文を丸暗記するから行き詰まる。本質を理解しろ。」
(くそ、ミスった…アウトプットはこれだから…)
教壇に立つ遠上 進の、黒板に立てる電子チョークの音が耳につく。僕のプライドが回答に失敗したことを囃し立てて顔を熱くさせるので、余計に悔やまれる。だが、本人が気にするよりも周囲は無関心なもので、クラスメイトは遠上の放つ圧を避け、手元の教科書で先ほどの問いの答えを練り続けることに精いっぱいだったり。
遠上が教壇に立つと教室の空気の密度が増すのようだ。言葉でなくただの存在だけで僕たちを統制している。白衣の後ろ姿と、ゆっくりとした動作、歯に衣着せぬ物言いと遠慮のない態度が僕らの動きに釘を刺す。
遠上はふと黒板にテキストを書くことを途中で止め、こちらへ向き直った。
(き、きたぞ…!)
僕を含めた全員が刮目、臨戦の構えをとる。見よ、遠上がチョークを中指と薬指の間に挟んだ!これは如何にも、遠上流〇×問題開始の合図である。落とせない試練が始まる。誰が指される?誰が?誰が?僕たちの脳内タービンが回転数を上げていく中、遠上は教科書に目を落として語り始めた。
「…保古主義の。道理は簡単だ。保古主義は物事を進化させることで、同時に失うことがあるかもしれない、という慎重性を正当化した概念だ。現社会ではこの概念が浸透し、人々はより安全な手段と合理的な決断を長期的な目線で考えられるようになった。…白崎。〇か×かで答えろ。消耗のない電子チョークで字が書けるとはいえ、タブレットやスクリーンが普及するご時世に教師が未だに投影技術を使わず、黒板に文字を書いているのは保古主義か?」
三十席ある教室の窓際、最後列でうたた寝に蕩けていた良風が勢いよく立ち上がって答える。
「ま、まるです!」
「残念。ハ・ズ・レ、だ。」
良風、撃沈―(ああ、当たったのが白崎で良かった。本当に良かった!スポーツ推薦枠はスケープゴートだぞ遠上。文派にさえ当たらなければ僕らの勝ちさ!フゥアッハッハッハ!)と、皆がそう思っているに違いない。
犠牲となった良風は、髪を白くしてゆっくりと膝を折り、顔を伏した。否、白崎は元から白髪であった。遠上は手元のメモ帳にペンで何かを記入する。
(!書かれた…書かれたぞ…!)
内心でざわめく生徒たち。このメモは何のメモなのか。これについては諸説ある。間違えた生徒の内申点に関する情報を書き込んでいるだとか、はたまた今まで当てた生徒が分かるようにする単なるマーキングだとか、問題を外した生徒のリアクションの採点であるとか…挙げるとキリがない。以前、他の教師が気になって遠上に尋ねたらしいが、遠上は、『パノプティコン』という謎の回答にてその場を立ち去ったらしい。パノプティコンとは何なのか。インターネットで検索すると、どうやらとある心理学者が考案した監獄の形態の名称らしい。よく分からなかったが寒気がした。
「…投影技術だと俺と生徒の脳や眼球への疲労が黒板よりも高いため、授業ではそれらを採用していないだけだ。こいつは合理的結論だ。保古主義ではない。ま、これにも一定の議論の余地はあるが。次、杉守。数百年前に普及しかけた、インターネットを介した講義形式が流行りかけたにも関わらず、現在俺がここに立ってお前らに教えを施しているのは保古主義か?」
白崎の前に座っていた杉守、がこれまた勢いよく立ち上がる。いやしかし、その強かな表情。いけるというのか。それはそれで悔しい!
「まる!です!」
遠上は頷いた。
「そうだ。ネット講義と生講義、ネット講義が遥かにコストのかからないものだと分かっている今でも、未だにそのシェア率が五分五分なのは『直接講義を聞かなくて本当にいいのか?』という疑問が続いているからだ。インターネットを介せば生の人間より優秀なコンピュータが勉強を教えてくれる。今のサービスでは質問にもその場で答えてくれるらしい。オンラインの上に教室が存在する。学校という小社会、つまり公共性が必要だとぬかすユーザーにはそれと同等の疑似空間をオンラインで提供できる。それでも、俺は失業しない。保古主義の恩恵さ。」
遠上は無精髭を撫でながら、手元のメモ帳を閉じて開かれた教科書に手を添えた。
「話を戻そう。歴史の講義だったな。…さて、二十一世紀では何が起こったか?保古主義がまだ根付いていなかったことを踏まえて述べてみろ。加宮。」
「歴史学用語にいう、『迂闊な改進期』です。新しい技術の実装後にもたらす不利益の検証も不十分に行わず、技術革新を重ねていった。結果、甚大なリスク管理に失敗し、日本の領土の多くは海の底、気候は四季のバランスを失った。」
「その通りだ。人類はそこでやっと気付く。あぁ、もうちょっと慎重に行動すべきなのだ、と。そうして慎重に慎重を重ねたのが保古主義だ。よし、今日はここまで。」
―――
正午を過ぎたところで、僕たちの学校はそれぞれ昼休みをとる。僕と白崎、そして杉守の三人が、それぞれの机を持ち寄り、その上で各々の昼ご飯を広げた。今日は天気が良いので、窓際である白崎と杉守の席に僕が机を寄せる形となった。杉守が机の裏にあるボタンを押し、三つの机同士が繋ぎ合ってロックがかかる。見た目は昔ながらの四角い木の机だが、ひとつボタンをいじればUSBポートからコンセント、照明からしまいには穴あけパンチまで飛び出すとんでもデスクなのである。
「さっきの授業、訳分かんなかったわ。お前らは?」
白崎が箸で弁当のプラスチック容器の端を突きながら、渋い顔で話を振る。杉守は鼻で笑って片耳にイヤフォンをかけた。僕は教科書を取り出し、マーキングのしてあるページを流し読む。
「…僕は理解しているんだけど、うまく言葉にならない…かな。」
「授業の内容を簡潔に再構築できないなら理解したとは言えないと思うわよー」
ああ、これは問いを誘っているのだと、即座に察した。杉守が理解しているときの説明は分かりやすくていいのだが、彼女は何より受動的にその高説をのたまうことを好む。つまり、この場で杉守が期待しているのは『ごめんなさいあなたの理解した授業の内容を教えてください杉守先生』と僕らに頭を下げさせること。僕にとってはこの流れは癪なのだが、彼女の要約を聞かないのも授業内容の早期理解に差し支える。僕は数コンマの間にそれらを秤にかけて、挑発に乗ってやることにした。
「じゃあ、杉守は言えるの?」
精一杯プライドが譲歩した買い言葉だ。しかし杉守にとっては、この一言がどれほど僕にとって屈辱的かを理解している。杉守は喜々として語り始めた。
「大元は、一見いいことばかりなことでも、今までと違うことをするということはどこかで悪いこともある、って考え方。それを恐れて結局前に進まない…それを良いことだと思っているのが保古主義。」
「え。んじゃ、保古主義って悪いことか!」
白崎が口から卵焼きを覗かせて声を上げる。杉守は少し背を仰け反らせ、頬を引きつらせる。
「良風、飲み込んでから話しなさいって…。保古主義は善悪じゃないの。ただ、結果が見えていても立ち止まって再度考えることを社会的に許しただけ。」
僕と白崎は適当な相づちをとって、食事に集中する。ああ、なんとなく頭の整理がついたような気がした。
杉守の弁当は毎朝自分で作っているらしい。愛用しているのは正方形の弁当箱。水色の外観に対角線を外れた白いラインが鮮やかで、どこか落ち着くデザインである。その中身がえらく凝っているのだ。曜日それぞれに対応させた惑星をモチーフにし、テーマに沿った食材を詰めてくる。
今日は火曜日。杉守曰く、火星弁当だ。きれいに丸みを帯びた半球体のチキンライスが中心に位置している。その周りでチキンライスに足を伸ばしているかのようなちんちくりんのタコウインナー、チキンライスを圧倒した紅潮を見せる丸みをテカらせたミニトマト、流星の筋を思わせる細長く切られたキュウリなどの野菜がチキンライスを囲んでいる。チキンライスが火星で、タコウインナーが火星人ということらしい…なんとも可愛げのある発想に、その話を聞いたときは思わず顔が綻んだ。
また、杉守は頬杖をつきながら、それをひとつひとつ箸でつまんでは眺め、つまんでは眺め、食べる順番を決めてから口に運ぶという一面もある。行儀がどうこうと言うのは、些か情緒に欠ける発言だろう。…まぁ白崎は初見でそれを言い放ったらしいのだが。
僕と白崎はといえば、朝に購買部で買ったハンバーグ弁当だ。一度店頭で冷やされ身が締まっているため、箸で割くのに少々力がいる。デミグラスソースの味は定番で、どちらかというと甘みの強いものだ。普段ハンバーグと一緒に口に運んでしまって気が付かないが、白米に掛けられた塩と黒ゴマの味がそれなりに利いており、これはこれでいただくのもありだと思う。
何はともあれ、教室に電子レンジがあればもっとおいしく頂けるのだが。この暑い中、購買部まで行って電子レンジを借りるまでの気力は僕にはなく、せめて食べ物への敬意を表することで箸を収めることとしよう。
近くに居ながらも各々の感性で食事を満喫させた僕たちは、やがて自然に他の話題へと腰を移す。
「なあ、ところでさ。あの都市伝説…興味ないか?」
「良風はオカルト話が本当に好きなのね…あれでしょう、最近ネットでも話題になってる。」
「あー。あれか、あるはずのないゼロ番目のエレベーターかご。」
「それそれ!噂じゃあ、決まった時間の決まったターミナルの四号基にそれが現れるらしいぜ。一度乗ってしまったら深い深い闇の底まで連れていかれるとか!」
僕と杉守が苦笑いを交わす。白崎が言っているのはこの鋼幹にまつわる怪談だ。鋼幹と鉄枝の中では、数百のエレベーターかごが行き交っているのは知っての通りだろう。そのかごにはそれぞれ一から管理番号が振られている。その一から始まっているはずのかごの中に、管理番号ゼロ番のかごがあるというのだ。
「ばかばかしいな。大体、鋼幹のエレベーターは全てコンピュータ制御だろ。アンノウンのかごなんかが居たら、すぐ分かるって。」
「いやーそれをなんかこう…そう、巧妙に隠してるんだよ!」
両手を顔の左右に挙げ、白崎は得意げなポーズをとった。うーんとうなりながら、杉守がイヤホンを外して腕を組む。白崎の突拍子のない与太話にここまで付き合うのだから、杉守も僕もどこかで面白いと思っているからだろう。
「私は難しいと思うなー。管理番号が振られてないってことはコンピュータの制御外でしょ?そんなのがあったら絶対事故るって。」
「芽衣の言う通りかなー、あと、そのかごに乗った後の末路が話の質をぶち壊してるよ。」
「それ。私もそれ言いたかった。何ですかね、深い深い闇って。」
「だぁーっ!分かったよ!変な話持ってきて悪かったな!」
白崎はそう言って、口元をへの字にして足を組んだ。僕は少々可哀そうな気もしたが、気を遣うような間柄でもないので愛想笑いでやり過ごす。同じように杉守もニコニコしているがこれは僕とは違う。杉守が感情を表情に出しやすい性質であることから察するに、愛想笑いではなく、単純に白崎との下らないやり取りが好きだからなのだろう。
白崎と杉守は幼少期からの付き合いだ。僕が二人に出会ったのは上弦学院高校に入学して間もないころ。それでも三年間一緒にいさせてもらっているだけで二人のことは二人以上に分かっていると僕は思っている。
『こんな日々がずっと』
―――
僕の中では火曜日の授業科目が一番重たいスケジュールだ。暗記系科目のオンパレードは、授業中に内容の七割以上を覚えさせることを期待していないと思う。予習、復習が習慣付けられていない者の足をすくうフィルターではなかろうか。
週末明けの二日目という折り返し地点を待たずに迫る猛攻は、付け焼刃の勉強姿勢ではまるで歯が立たない。というわけで、今日はさっさと家に帰り復習に時間を充てるべきだろう。ここで部活動と学業の両立という二柱を貪欲に追いかける連中との差が生まれるわけだ。そういう意味ではこの火曜日、帰宅部の僕にとっては嫌いというわけではない…などと脳内分析を図りつつ、僕はカバンの中に教材を仕舞い込む。
教室の中は昼間とは打って変わって誰もいない。日中のやかましい生徒たちの音を吸い尽くした教室は、静寂をより濃くする。絶好調だった天気は機嫌を損ねたか、分厚い雲を浮かばせ、如何にも雨が降るような水分を吸った空気が窓の外から漏れており、早く帰れと僕に促しているようだ。
(良風のやつ、日直なのに窓の戸締りできてないじゃないか)
僕は窓の向こうの澱んだ灰色を見つめながら、手探りで窓を閉め鍵をかけた。おそらく帰り際には雨に当たってしまうだろう。良くてターミナルで雨宿り、悪くて明日まで止まない雨、といったところだろうか。やれやれとカバンを右手に提げて、教室を後にする。
この時間、大抵の生徒が部活動に励んでいる。白崎はハンドボール部、杉守は吹奏楽部だ。上弦学院の課外活動は大いに盛んであり、国内においての知名度はそれなりだと聞く。だが僕は、課外活動には参加していない。理由は簡単、学業においての特待生だからだ。両親がいない僕は、特待生制度によって学費を免除してもらっている。なので、成績を維持し続けることが人一倍の急務なのだ。
校舎から校門への道すがら、通りかかった校庭にはフリーキックをしようとラグビーボールの位置をしきりに確かめている高校生がいた。スポーツに詳しいわけでもない僕は、図体に似合わず随分と神経質なんだな、と横目に流して通り過ぎる。
街路樹がザワザワと僕を見送った。遠くから聞こえる混ざり合った楽器の音色や時折すれ違うランニングの掛け声、男子高校生の品の無い笑い声や誰かの大きなくしゃみ、これら全てが僕と同じ高校生によるものなのだと思うと、そこに自分がいないことに寂しさを感じた。毎日そうだ。まるで砂場で遊ぶ子供がひとりだけ先に親に連れられて帰るように。いや、これは自分が自分の意思で帰っているのだ。よって、誰からか何かの感情を誘引するものでは、ない。したくもない。どこかで同情されたいなどと、思っているはずはない。
要するに寂しいのだろう。誰かにそう言ってもらえるだけで、僕は幾分楽になれるのだけれども。
「やあ!加宮君じゃないか!」
いつの間にか下を向いて歩いていた僕は、前方から歩いてくる人物に気が付かなかった。しっかりと口を縦横に開いて発音する快活な挨拶に聞き覚えがある。
「あ…革名先輩。こ、こんにちは。」
「おや、元気がないな。加宮君、仕切り直しといこうか。こんにちは!」
「…こんにちは!」
「うん!もう一丁!」
「(…くっ)こん!にちは!」
「うむ!こんにちは!」
結構結構、と顎をくいっと上げて笑う彼は、革名 史助という。上弦学院学生会高等部の監督役を務めている人だ。
上弦学院はその規模から、学生による自治会が発足している。名を『弓乃会』という。学校運営者のほとんどがその弓乃会のOB・OGであるため、弓乃会の上弦学院内における権力は強い。弓乃会のトップは常任執行部という部署で上弦学院大学の学生から構成され、弓乃会の各支部を監督している。革名はその常任執行部の副部長。つまりは弓乃会副会長、ナンバー2に当たる大学生だ。
「聞いているぞ、加宮君。前回の中間テスト、なかなかの成績を残したそうじゃないか。目をかけている後輩の雄姿は特に心を打つね。」
「あ、ありがとうございます…。革名先輩は、どんなご用事で高等部まで?」
瞳孔の開きかけた目をギラリとさせ、クールビズのワイシャツに丁寧な折り目を付けたネクタイの結び目を指でいじる革名は校庭の方へ目をやった。
「視察さ。先日、今年度予算のうち追加分を高等部の課外活動団体に支給したからね。この時期は新しい備品の導入が多い。実際、有意義な使い方ができているか来年度の参考のためにも見ておく必要があるのさ。私が直々に行くことに意味があると思っている。」
「そうですか、それで高等部の敷地まで。お疲れ様です。」
「労い、感謝する!加宮君、何か困ったことがあったらいつでも私に声をかけてくれたまえ。全力で話を聞こう。では、失礼!」
革名は手のひらをピシッと顔の横に挙げると、颯爽と高等部の奥へと歩いていった。百七十センチほどの身長で僕よりは小さいはずなのに、対面すれば誰よりも大きく見える。威風堂々という言葉が似つかわしい人だ。去っていく後ろ姿は心身共に強者の風貌。一見細身だがそれは引き締まった筋肉の成せるもので、キックボクシングによって鍛えられた逆三角形は見事なものだと僕も思う。学業もトップレベルだというのだから、文武両道の体現だ。
そんな革名だが、彼は短髪ながら上方向にはねるクセ毛であり、それが原因でかっこいい部類というよりもどちらかというと可愛い部類として女性に人気らしい。その点が絶妙に隙ならざる隙で、同性の僕らにとっても親しみやすいところではある。
嫌に長い校門までの道を終えれば、ターミナルは目と鼻の先だ。花時計と自動車の乗降場は僕の住む葉域と変わらない。大きく違う点はターミナルにモノレールの乗り場である二階のフロアが存在する点だろう。モノレールが通っているとそのターミナルの集客がいいため、値段の張った土産物屋などそれ相応の尾ひれがつくのだが、学校しかない葉域ということもあってかターミナルの中は質素なものだ。
エレベーターの四号基が空いていたが、昼間に良風たちと話した階段話が何か気持ち悪いので、隣の五号機に並ぶ。
十列で行軍さながらの整列をする僕たちは、おおよそが上弦学院高校の制服を着ていた。私服の若者は大方が大学生だろう。
上弦学院高校の制服は、革名の恰好からネクタイを除いたのと同様のクールビズを着用中だ。男は白いワイシャツに紺のズボン、女性は白いワイシャツの襟元に細く青いリボンをつけており、紺のスカートには黒と白のチェック柄。女子の間ではこの制服の良し悪しについて賛否両論らしい。彼女らにとっては制服の見た目は死活問題なのだろう。
あまり待つこともなく、既に僕はエレベーターで鋼幹の中を移動していた。ひたすらにかごが、足元が緩やかに落ちていく感覚は入学当初こそ苦手だったものの、今では全く気にならなくなっていた。ビルの屋上から飛び降りて、身体に速さが乗ろうとする感覚がずっと続いているようだ。もう少しかごを急がせれば、きっと身体は宙に浮くのではないか、とすら思う。
混雑したかごの中央に立っていた僕だったが、人々の横顔の隙間から丁度よく鋼幹の外の様子が伺える。触れば強い弾力で拒まれそうな灰色の雲が空の向こうまで続いているのを見て、僕は溜息を目の前の学生の背に吹きかけた。あれが雨雲でなければなんだというのか。
(あんなに晴れてたのになあ。)
何度か途中の葉域に寄ったかごは、絶えず人を乗せ人を降ろす。僕は危うく乗り過ごすところで我に返り、いつの間にか奥へ押しやられていた身体を懸命に人の隙間へ捻じ込んでかごを出た。
若干の上がった息を打ち消す人の声と衣擦れの音。エレベーターホールは帰宅するサラリーマンと学生に賑わっている。ホールの床が滑るようで、キュッキュッと革靴にしては大袈裟な音を立てている。
(やっぱり外は雨か…)
ターミナルの外を覗くと、色とりどりの傘が右へ左へ揺れていた。耳を澄まさずとも大粒の雨がコンクリートを叩く音が聞こえてくる。万事休すの僕は一直線に窓を背に四隅の黒い四人用ソファへ座った。
肩が凝りそうだったので、隣の空いたソファのスペースへカバンを放る。ゆっくりと僕の身体を後ろの背もたれへ沈ませていくと、このまま寝てやろうか、なんて呑気な考えが頭をよぎるもので、やはり朝は休まずに学校へ行って正解だったと確信する。
首を後ろにもたげ、逆さまな窓の向こうをなんとなく見ていると、通り過ぎる傘という傘がまるで踊っているキノコのようで面白く思えた。
帰らないことへの体の良い言い訳として『雨』を捕まえてしまった僕は、止みそうもない雨に希望を抱くわけでもなく、ただ無計画に外を眺めて過ごす時間を貪る。見えない陽がいなくなるまで、徐々に頭に上っていく血をそのままにし続ける。ああ、このまま全ての義務が終わらないだろうか、なんて思った矢先に。
「隣を失礼。…失礼ながら、あなた、とても酷い顔をしていらっしゃるわ。」
隣から、細く鋭い品のある女の声がした。それが僕に向けられたものだと気づくのに少し時間がかかった。僕は首を起こさず、視界の上部を突く傘の群れに意識を向けたままで答える。
「僕の顔、覗いてもいないのによく分かるものですね。」
「あらまあ。随分と意地の悪いことを言うのね。顔を上げなさい。せっかくの出会いも台無しになってしまいますわ。」
仰け反った体をしぶしぶ起こす。声の主は、僕の隣に音もなく座っていた歳の同じくらいの女の子だった。その白く麗らかな顔は僕に一瞥をくれるわけでもなくソファの前を向き続ける。切れ長くも見開いた目で、絵でも眺めるかのようにただただ目の前の人混みを直視している。上弦学院高校の制服を着用してはいるが、僕の知らない人だった。すらりと伸ばした背筋と腰まで垂らした黒い髪に、僕は少々見とれてしまった気がする。…我に返り、それを恥じた。理性的でないと思ったからだ。
「…どこかでお会いしましたっけ。」
羞恥心を打ち消そうと発した言葉は、嘘を帯びたかのような空虚さがある。
「いいえ。」
彼女はそう即答すると、薄い口元をくいっと上げて立ち上がった。そのときに漂ったかおりは意外にも、消毒液のような薬品のにおいだった。
「またお会いしましょう?」
「え?あ、ああ…」
彼女は一度も僕に顔を向けることなく、ターミナルの人混みの中へ消えていった。僕は茫然と見送って、いつの間にか開きっぱなしになっていた口をゆっくりと閉じる。僕は数秒前に漂った、ほのかなにおいを思い出していることに気づいて、またもや羞恥心を抱いた。僕というものがそんな単純であってはよくない、そう口の中で呟いて、そそくさとカバンを手に外へ出た。
―――
首を滴るこのしずくは汗か、雨水か。敷地内の最後の砂利を蹴って大股にアパートの軒下へ走りこんできた僕は、一息おいてから、今朝に白崎が座っていた階段をぐっと踏みしめた。その度に履きならした白いスニーカーが、吸い込んだ水をぐしゅぐしゅと絞り出して足跡をつけていく。この青い紐がトレードマークのキャンパススニーカーは、去年の丁度この時期に白崎と杉守が僕への誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだ。僕はその手のファッションに興味は無かったが、以前に渋々白崎に着いて行った買い物の折、僕がその靴を手に取って眺めていたことを彼が覚えていてくれたらしい。その配色が青空に雲を描きかけているようで、がらにもなく僕は一目で気に入ったのだ。
濡れた手をズボンで拭うが、既にぐっしょりとしたズボンは水気をまるで吸いとってはくれない。僕は自分の住む203号室のドアの前に立ち、鍵を探ってカバンのサイドポケットへ手を突っ込んだ。
それがどうだろう、カバンに入れたはずの鍵がないではないか。
(おいおい冗談だろ…)
心拍が加速していくのが分かる。嫌な熱を帯び始めた手で、カバンの反対側のポケットにも手を突っ込もうとした。と、ポケットの入り口で中指が何かにつっかえる。つまみ上げようとして、それは何か棒のようなものであることが分かった。
扇子だ。僕はそれを片手で雑に抜き取ったが、その赤い要に黒く漆で塗られた骨組みを脳が認識するなり、その気品に思わず両手で手に取った。まるで身に覚えのない扇子である。開いて良いものかと迷いこそしたが、扇子なんてものを手に取るのは初めてで、好奇心が勝る。
僕はゴクリと生唾を飲んで、扇子の親骨に指をかけ、丁寧に開いていく。かなり使い込まれているのか、予想以上に力が要らなかった。それとも、良い扇子とはそういうものなのだろうか。扇面は黒い下地に鈍い金箔の霞が棚引いている。だがそれよりも気になったのは、このにおいだ。数十分前に鼻にした、薬品のようなにおい―彼女の匂い。
「…これはまさか…彼女のものか…そうに違いないよな…」
はっとした僕は、おそるおそるカバンのファスナーに手をかけた。ファスナーは新品のような固い抵抗を僕の指に伝えてくる。開こうとするチャックの隙間からカバンの下地になっているエナメルの独特なにおいがした。そんなカバンの中から最初に顔を出したのは、薄くもなく厚くもない教科書の背表紙が数冊。いずれも見慣れたものだが、僕が今日カバンに詰めた記憶のないものがある。そして何より目を引いたのが、二十センチほどの黒い無地の筒。取り出してみれば軽いもので、振るとカチャカチャと何かがぶつかり合う音がする。
「…ペンケースか…?」
筒を逆さに持ち替えて振る。詰まったようなゴロゴロと弾力のある音がするのは、おそらく消しゴムか。筒の先端部分がクルクルと回るようになっており、開けてはみたものの、想像通りに鉛筆が数本、あまり使われていない質素な白い消しゴムが、コロッと手のひらに転がってきた。驚いたことといえば、今のご時世に鉛筆、ましてや、赤鉛筆なんて物を使っていることだ。
気を取り直して、次にカバンの中の教科書の一冊を少し水気のとれた手で抜き取った。ツルリとした固く茶色の表紙に黒い太字で、歴史、と筆文字のフォントがでかでかと印刷されている。その力強さに反して改めて見た僕が抱く印象は、こんな表紙だっただろうか、というぼやけたもので表紙を考えた人には申し訳ない。僕の教科書と同じく持ち主の名前は書いていなかったが、パラパラとページをめくると僕が今日の授業でマーカーを引いた箇所が迷いのない綺麗な鉛筆の線に変わっていたため、僕の物ではないことが分かった。そしてそのマーキングしている箇所は細かくも適確なもので、保古主義の概略が簡単に理解できるほど。
「頭、良いみたいだな…あの子…」
少々打ちのめされたような心持ちに覆われていた僕を、前髪から教科書へ垂れ落ちた雨のしずくが呼び戻す。
身元の分かるような物は一切なかった。こうなると手掛かりといえばその扇子から漂った彼女の匂いだけだ。ターミナルで会ったあの時に、僕のカバンを彼女が取り違えてしまったと考えるのが自然だろう。あの雰囲気からは想像できない、随分おっちょこちょいなことだ。意外とかわいいところもあるのだな、と彼女の意外な一面に僕はほのかな好感を持つ。
しかし、状況は困ったものだ。家の鍵だけではなく財布や携帯端末までもが僕のカバンに入っていた。これはまるで打つ手がない。気づいた彼女はどうするだろう。財布の中の学生証を見れば、それが僕の物であることに気づいてくれるはずなので、僕たちの唯一の接点であったターミナルまで来てくれるのではないだろうか。
「ターミナルに戻るか…あ。」
もうひとつ、厄介なことに気が付いた。家に戻ってきたとはいえ、傘は部屋の中。以前は外に置いていたが、一度盗まれた経験から中へ置くようにしていたのだ。既にワイシャツやズボンの生地が肌に張り付くほどに濡れた身ではあるが、再度この雨量の中を駆けて行くのは身が堪えるというもの。
対処方法はひとつ、あることにはあるが…
「背に腹は代えられないよなぁ…でもなあ。うう、仕方ない。」
僕は数歩その場を小さく歩きまわってから、僕の住む203号室の隣、202号室のチャイムに指を当てた。すぅっと息を止め、普段使われずにバネの固まった様子のボタンへ力を込める。
…キンコーン。
雨音だけが周囲に響く。数秒経って、僕はもう一度チャイムを鳴らした。
キンコーン。…バタバタバタ
年季の入った木製のドアの向こうで、スリッパが走る音の後に何かが倒れる激しい物音がする。この住人の部屋は相変わらず片付いていないらしい。
やがて、ドアの向こうに人の気配が現れた。
「誰なの…?本当にあたしに用があるの!?」
ドア越しに、嗚咽まじりで語尾がヒステリックに高く割れた女の声がする。
「あの…以前お会いした、隣に住んでいる加宮です。」
「あぁ…ちょうどいいわ…あたしも、あんたに話したいことがあったのよぉ…」
キー…ガチャリ。アルミサッシが錆び付いた不快な音を出して、ドアがわずかに開く。隙間から、赤いアンダーフレームの丸眼鏡が半分と血色の悪い肌がちらりと覗いた。分厚いレンズの奥では長いまつげの重そうな半開きの目の下に、くっきりとした隈が彫られている不健康そうな顔。
「あ、あたしの要件から聞きなさいよ…。あの、毎朝、アパートの下に来るガキ…うっさいのよ!なんなのよ!こっちはね、夜な夜な夜更かしして仕事して!寝不足なのよ…なのに大事な目覚めがあんなガキの声なんて…鬱陶しいにもぉ…ほどが!あるのよぉ!」
「す、すいません…。後で、白崎に言い聞かせておきますので…。」
文句を言うほどに手に力が籠るらしく、ネジの緩んだドアノブがカタカタと音を立てている。
この人とは以前、雪の降る夜にアパートの目の前で出くわしたことがあった。出会い方といったら僕にとっては強烈、彼女にとっては忘れたい事故だろう。その日は、この葉域で珍しくも雪が積もった日。アパートから出てきた彼女が膝まで積もった雪に足を取られ、ちょうど帰り際の僕の目の前でベニヤ板が倒れるようにすっ転んだのである。それだけならまだしも、僕が差し伸べた手を素直に掴めばいいのに、それを平手で叩き除け自らの力だけで立ち上がろうとしたのがなお災いした。馬の骨のように痩せ細った腕と雪によって不自由な足場では到底立ち上がれるものではなく、また、彼女の高いプライドが彼女の身体を何度も立ち上がろうとしては失敗し、雪の上に身体を叩きつけることとなった。アパートの敷地に翌朝まで残った雪でできた彼女の鋳型は、さぞかしここの住人の目を引いたことだろう。これで結局僕の手を借りたのだから、格好がつかないどころの話ではない。その後、僕の名前を聞くなり部屋に籠ってしまい、それ以降はタイミングが合わないのか会ったことは無かった。
「…じゃ、そういうことだから…ちゃんと言っておくのよ…あたしはもう寝る…」
「ちょ、ちょっと待ってくださいって!」
言うだけ言って去ろうとする彼女を止めるべく、僕は慌ててドアノブを掴んだ。すると、さほど力を入れていないはずなのにドアは簡単に引っ張り寄せることができるではないか。つい、勢いがついてしまい、
「…ギャアッ!あ、あ、あ、危ないじゃないのよぉ!」
「え、えぇ?ちょっと引っ張っただけなんですけど…。」
彼女はドアノブをしっかり握っていたらしく、ドアの内側に寄りかかる形で外へなだれ込んできた。ここで彼女の体重の一部とドアの重さが、ドアノブを掴んだ僕の腕にかかるわけだが、全くもって支えられない重さじゃないことがにわかに信じがたい。紙束がいっぱいに詰まった段ボールを片手で持つよりは幾分軽いものだ。この人は見た目以上にやせ細っている。
「な、なにがちょっと引っ張っただけよ…このゴリラ!なんなのよぉ…毎度毎度人をバカにして…あの日だって…うううううぅ」
態勢を立て直した彼女は、ドアの裏でそう劈くようなうめき声を上げガシガシと頭をかきむしっている。ああ、これだから嫌だったのだ…その様子にたじたじの僕は、この人を訪ねたことを後悔し始めている。
「僕の力が強いんじゃなくて、あなたが軽いだけですよ…全く…」
「…え?あたしが軽い…?」
彼女の動きが止まり、再びドアの影から丸眼鏡の半分を出す。口元は見えないが、頬に寄った皺で口角が上がっていることが伺える。だがその頬も普段は使わない筋肉なのか、死にかけた羽虫のような小刻みの痙攣を見せているのが少々気持ち悪い。
「…ふふ、で?要件は?」
「(…?急に機嫌、直ったな…)あ、えっと…鍵を落としちゃって、家に入れなくて。多分ターミナルに落ちてるんですよね。ターミナルまで鍵を取りに戻るのに、傘を貸して欲しいんですよ。」
「はぁ…?鍵、落としたの?…ぅふふ、あんた、バカなのね…」
そう言って彼女は途切れ途切れに、うふ、と含み笑いをするので、僕はそれに怒ることはおろか、これで僕に対する彼女のプライドと尊厳が守られることになることを思い、保身の感覚に近い安心を覚えた。
「仕方ないわね…これを使いなさい、ほら。」
これまたドアの狭間から、彼女はひょっこりと傘の先端を見せる。普通、柄の方を向けるものだがここで文句を呈したものならここまでの心労が泡となるというものだ。僕は礼を言いつつ、そのビニール傘を受け取った。
「ちゃんと、返すのよ…?じゃ。そういうことだから。」
彼女はそう言葉を残し、嫌な金属音と共にドアを閉めた。僕は、ふぅ、と彼女に会う前に吸った分の息を吐き、気を取り直してアパートの階段を下った。
本来なら彼女と会うのはまっぴらごめんであるが、なにぶん僕がこのアパートの住人で顔を知っているのは彼女だけだったのだ。見たところ年上のようだが、一体普段は何をしている人なのか。一瞬僕の首に彼女の部屋の方を振り返る力が込められようとしたが、理性か感情か、他の何かがそれを制した。もうあまり関わりたくないな、と僕は心の隅で思っているに違いないのである。
「…あ。」
傘を開いて気づいた。傘の中棒の上方に、青い星柄のマスキングテープが貼られている。それも見覚えのあるもので、僕が以前持っていたビニール傘に、杉守が「かわいくする」だか何だかの理由で、そこら中にベタベタ貼ったものを剝がし損ねてそのままにしていたものだ。
これまた僕は、傘を彼女に盗まれていた怒りよりも彼女に傘を返すために会う必要が無くなったことへの保身の感覚に近い安心を覚えたのだった。
―――
汗が冷えて風邪をひくことを恐れた僕は、息を切らせない程度の駆け足でターミナルへ向かった。住宅地のいたるところで漂う温かい夕飯の香りに、僕の腹は飢えた音を捻り出す。コンクリートの町並みが徐々に灰色を濃くすることから察するに、時刻は七時を迎えようとしているだろう。雨脚はさることながら、帰路に着いた人々の数も減ってはいない。その代わり、ターミナルへ続く大通りを通る車が、モーター音だけを置いて何度も僕を追い越していく。
「はぁ、はぁ。1日に何度ここを走らされるんだ…」
出発当初は程よい圧迫を足の甲に当てていたはずの靴だったが、左足に緩みを感じた。やがて足元を靴紐が鞭打っている感触が伝わってくる。紐を結びたいところだったが、ここで足を止めると走ることが億劫になるだろう。僕は構わず走り続け、今朝よりも快適なコンデションでターミナルの花時計の円をぐるりと通り過ぎた。
「…着いた…」
ターミナルホールは鼻腔を縮ませるような、湿気と大衆の温度が混ざった生暖かい臭いが充満していた。帰りに急ぐ大勢の人々が、ダラダラと水滴を垂らす傘をぶら下げ、それぞれの目指す方向へと歩みを交錯させる。
あの雅な印象の彼女がこの人混みの中にいるイメージは湧かないのは、幻想を抱きすぎているのだろうか。そう考えたところで、自分がまるで彼女というアイドルを追いかけているような思考回路があることに気付き、必死に振り切った。「一目惚れはしていないし、好意をもっているわけではないぞ」と口元で事実を確認。ただ少し、同級生として、綺麗な女性がいたものだと思っただけなのだ。
立ち止まって周囲を見渡す僕を人々が邪魔そうに避けるので、数十分前まで座っていたあのソファの元へ歩を進めた。皺のついた背広を片手に汗をハンカチで拭う中年のサラリーマンこそ端に座ってはいたが、その隣は広く空いていたため、僕は間隔を空けて浅く腰かけた。そんな態度が嫌に思われていないだろうか、と右隣のサラリーマンの顔を横目に覗いたが何ということはなく、取り出した手元の携帯端末の画面をハンカチで几帳面に磨いているだけだった。
視線を前へ戻す。雑踏の音が改めてよく聞こえるものだ。ここに来れば彼女がいるといつしか思い込んでいたことを思い直し、自らの行動を省みる―少々早計だったのかもしれない。よくよく考えてみれば、僕のカバンの中には住所情報が入った磁気カードも入っていた。彼女がそれを見つけ、何らかの方法で読み取ったなら僕の家を訪ねてくることだってあり得たではないか。そもそもカバンを学校や警察に届けるということもあるかもしれない。
(ああ…冷静じゃなかったな。張り紙のひとつでもしてくるべきだったか…)
一度思いつくとその合理さは強く感じるもので、僕は手のひらで頬を覆い後悔にふけった。疲労か参ったか、指の隙間で合わない目の焦点が眼前の行き交う人の影と影に色のない残像を作る。
ふと気づいたことがある。今頭をよぎっているのは、家に入れないことへの心配に加え、彼女との再会が成し得ないことへも心配の範囲が及んでいるようだ。どうも、調子が狂う。そういう、いわゆる『安い』自分では在りたくない、と、気持ちに区切りをつけるべくソファから腰を上げた。
(…!)
僕はそこで硬直した。
人混みに紛れ、面前を、横切ったのだ。
彼女の横顔が―
「……おい」
口が乾いていた。声を声にするのに時間がかかった。そのちっぽけな時間が、彼女をどこかへ連れて行く。
待ってくれ。君に用事があるんだ。なぜ気づかない。届いていないのか?僕の声は―そう、出ていない。
止まっていた音が一気に僕の耳にねじ込まれてくる。これが一瞬の出来事だったことを知った。人混みに紛れて消える彼女を、僕は呼び止めることすらできなかったのだ。バカなんじゃないか。たかだか、あの彼女の横顔が、『いい』と思っただけで。
解け始めた頭が、追いかける選択肢を思い出した。置物になっていた僕の脚に血が流れ始める。僕は人の群れに身体を滑り込ませ、見失ったことを忘れ、僕は懸命に、理由もなく、エレベーターを目指す。僕の思考が今、ただひたすら彼女のものであると思えば、彼女ならば、どこへ向かうか、いや、一般人だったなら、きっと、エレベーターへ、行く。
「…っはぁ!…はぁ…くそ、邪魔だ…!」
息をするのも忘れていた。十基のエレベーター前に群がるまばらな人だかりによる立ち往生が、僕にようやく呼吸の時間を与えた。
両開きのエレベータードアのそれぞれの上部に、そのかごの行先を示す文字が表示されている。普段はその中から上弦学院の文字を探し、自分が乗るべきかごを選択するものだが、今の僕に必要な情報はそれではなく、彼女の名前が記されるはずもなく、仮にそうされたとしても、僕はそれが彼女の名であると見いだせない。
ならば。僕のカバンを探せ。上弦学院の制服を探せ。紙のような白い肌を、世俗を俯瞰するかのような冷たく切れ長い目を、多くを語らないような細い唇を、白い花を飾られた獅子のような嫋やかながらに気高い気品を、生物であることを隠すかのようなあの薬品のにおいを、それから…それから。
彼女の、蛇の胴を思わせるような、強かで長い髪を。
その切っ先が、あのエレベーターに吸い込まれていくのを僕は。
「見つけた…」
走る。手を伸ばす。―自らの靴紐を踏む。転びそうになって、踏ん張る。倒れない。それで、転がり込む。ついに、倒れる。エレベーターのかごの中、ようやくたどり着いた、彼女の足元で。
ドアが閉まり、空気の対流を止めて密室を作った。エレベーターは降下を始める。
「ふふ。ようこそ。さあ、今度こそ、あなたの意志で顔を上げて。」
かごの中で僕以外にただひとり、倒れこんだ僕を見下ろして微笑む彼女が言った。予想外なことに、僕はその言葉に安堵したわけでもなく心を躍らせたわけでもなかった。言うならば、血が凍えたのだ。
なぜだろう。彼女が僕にはひどく、恐ろしいものに思えたのだ。
四号基より乗り込んだかごはたった二人だけの乗客を乗せる。時折途切れ途切れになる照明と、普段のエレベーターからは聞きなれない、カタカタ、という部品のゆるみが鳴らす音と振動が、狭い空間を震わせている。その真ん中で、顔に陰を作った彼女が倒れた僕の顔を覗いていた。
「どこへ、向かっている…?」
かごに備え付けられたボタンはガムテープで全てを塞がれ、その脇のプレートには、『NO.0』の文字が刻まれている。
暗い鋼幹の中心をなぞるように。二人を乗せたかごは、ゆっくりと昇降路を下っていく。
*
僕―加宮 霧は瞼の裏にこもった、幾ばくかの熱を感じて自らが目を閉じていることに気が付いた。ゆっくりと見開いたはずだが、その視覚に変化は一切ない。知覚ができないほどの深く暗い闇がそこにある。僕は視力を失ってしまったのだろうか。これが夢であってほしいと切に願う。
今、重力を全く感じない中で、身体を反転させたつもりだ。反転できたのだろうか。水中で目を閉じたままでいるよりもはるかに曖昧な感覚だ。おまけに、水や空気を触っている感覚も、口から出るはずの気泡が鼻元をくすぐる感覚すらない。そうか、呼吸ができているから水の中ではないんだ。慌てず、深呼吸を…しかし、気管を抜けていくはずの吸い込んだ空気の温度もまるで感じない。気体の中ですらないというのか。
これはもしかすると、僕は死んだのだろうか。
いつの間にか、何も考えていなかった。時すらも感じていないのか、僕はいよいよ自らを失った悲しみに暮れ始める。
ずっと漂っていた気もすれば、ちょっとだけ浮いていたような気もする。僕はぷかぷかと、どこへ向かいどこへ行くのだろう。
夢なら醒めろ。醒めろ。醒めろ醒めろ。醒めろ醒めろ醒めろ。醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ
『こんな日々が、ずっと続けばいいのに。本当にそう思っているの?』
お疲れ様でした。日常から話が動き始めるのはこの次からです。登場人物が私達のような『何かをやらなきゃいけない』心理状態に移っていきますので、話のスピード感も徐々に向上していくでしょう。