五、憂鬱な一週間の終わり
今日も日々淡々と自分に与えられた事をこなした俺はさっさとタイムカードを切って帰る準備をする。他に何かをする必要はない。与えられたもの以外をこなすことは不要だ。そんなことはノイズしか発生させない。ノイズは不快にしかならない。正常に流れている音の途中に発生する異常音。人間の耳とは不思議なもので、その異常を聞き取ってしまい、それが意識に残る。一度気づいた異常はその後もどうも気になり、それにばかり気を取られるようになってしまう。そんな存在は邪魔でしかない。聴きたいものに注意がいかず、どうしても意識が奪われてしまうのだ。
正常が一番だ。
だのに。
バス停で見たくない影を見つける。
なゆが俺を見つけてにっこりと微笑んだ。その笑みが俺には悪魔のように見えた。
俺はわざとなゆに気づかないふりをする。目と目が合っているので、気づかないふりなんて、本当に形だけになっている。
バスの待機列に並んでくれればいいものの、なゆは列から少し離れたところに立っていた。列の最後に並ぶ俺の後ろにご丁寧に並んでくる。隣に並ばれては、最早気づかないなんてことはあり得ない。俺は強制的になゆとの会話をさせられるはめになってしまった。
「祐くん、お疲れ様でした」
えへへ、と笑いながらなゆが声をかけてくる。
「ずっと待ってたのか?」
「うん、そうだよ」
何の屈託もなく、素直に頷かれてしまう。
「外でか?」
俺がなゆと店で最後に会話して、俺が上がるまでに軽く四、五時間はあったように思うのだが、そんなにもの間、外で待っていたのだろうか。いくら冬ではないと言っても、季節は梅雨。雨が降ると少し肌寒い。見たところ、なゆの恰好は春先の居出立ちで、この季節の夕方は流石に冷えるのではないかと思わさせる。
「ううん、ストバでお茶してたよ」
「そうか」
ほっとする。外で待つほど馬鹿なことはしてくれてないらしい。風邪でも引いたりしたら大変だ。屋内で過ごしていたなら体調を崩す心配はないだろう。なゆに対して邪険な対応しかしていないのに、別の所では幼馴染の心配もしたりする。我ながら自分勝手だ。
「カフェで飲みながら本を読んだの初めてだよ」
嬉しそうに自分の初めての体験を報告するなゆ。
ストーブバックス。略してストバ。女子の間で大人気の全国チェーン店のカフェだ。その名の通り、店内には欧風の薪ストーブ、つまり暖炉が置かれており、内装もヨーロッパを意識したものとなっていて女性からの人気が高い。暖炉はもちろん本物というわけにはいかず、火が灯っているように見せかける明かりが中に仕掛けられているだけで、実際に火が点いていたり、温かいなんてことはない。が、見た目、雰囲気が重要らしく、西洋に羨望を抱いている女性たちの間では憧れの的となっている。なんとなく暖炉のある部屋で暮らしいてる気分を味わいたい時に行くストバは最高らしく、「今日はストバで読書しちゃった」なんて言えば周りからは、いいなの声が巻き起こる。
雰囲気を売りにしているストバは男性からの評判はあまりよろしくない。珈琲や紅茶の味が普通で、値段相応というよりは高いように感じてしまうためだ。なので、女性の気持ちがわからない男性の方が世の中には多い。デートでストバに行けば女性からの好感度はアップするため、理解できずともストバを訪れる男性も多いらしい。
そんなストバに憧れるとはなゆも一般的な女子らしいということだろう。
あれさえなければな。嫌な事を思い出し、げんなりと萎んだ気分が更に萎んでいく。
「えへへ、これで1レベルアップ! ……したかも」
これだ。
俺はなゆにしかめっ面をしてみせる。
俺は未だになゆが言っているこのレベルアップシステムに嫌悪している。白状すれば俺も昔していたことがある。そんな自分のことは棚に上げておきながら、強い抵抗をする。
それは、もう俺は卒業したからだ。
とうの昔に。
どこか道端に放り投げてきたものだ。
過去に自分もしていた。だからこそ、余計に強く激しい嫌悪が湧いてくるのかもしれない。
「なぁ、それ。やめろよ」
気づいたら言葉に出していた。俺の突然の言葉に驚いたのか、なゆが「え?」と聞き返してくる。
「そのレベルアップとか、そういうの。俺のバイト先にも毎日毎日やってきて、俺にちょろちょろとついてまわる事とか。全部止めてくれないか」
毎日毎日、なゆは飽きもせず、俺の視界に入ってきて、俺の前で経験値だのレベルアップだなどとぬかすのだ。
なゆは何も言葉を発しない。
泣くかと思ったが、なゆは今日も泣かなかった。
唇を一文字にきゅっと結び、ただ俺を見つめ続ける。やがて、口を開いた。
「やめないよ、祐くんが元気になるまで絶対に」
強く言い放つ。
なゆの反応に少し驚く。そして遅れて怒りが沸々と湧いてくる。
元気ってなんだよ。
俺が元気かどうかなんて、なゆに関係があるのか。俺に元気がないからなんだっていうんだ。そもそも元気ってなんだよ。
文句を捲し立てたい衝動が襲う。
「……なんだよ、それ」
しかし、俺の口から突いて出てきたのは思っていた事とは違う言葉。
「なんだ、それ。なんなんだよ」
声が震える。息を吸うのが辛うじて、そんな程度でしか言葉を発することができない。こんな震えた小さい声でなゆの耳に届いているのだろうか。
「ふざけるなよ……本当、ふざけんなよ……!」
体までわなわなと震えだす。
倒れないよう、踏ん張るために拳をぎゅっと握る。強く握った手から血が流れるのではないかと思うほど、固く、固く握りしめる。
何故だか無性に泣きたくなる。
他にも何かが溢れだしそうになる。ごちゃごちゃとしたものが身体の奥底から湧き出してくる。
何かが出てこようとするように口が何度も開く。
だが、何も出てこない。溢れ出る何かたちは、誰が一番に出てくるかを競いあっているかのようだ。声が出そうなのに、言葉が出てきそうなのに。
声が、涸れる。
ヒュッと頼りない音だけが漏れる。
駄目だ駄目だ駄目だ。出ない。何も出てこない。
何とも言えない不思議な焦りに取りつかれる。何に焦っているのか。何を焦っているのか。
声が。
出ろ出ろ出ろ、出ろよ! 何か出てこい!
必死にもがいても何も出てこない。
いや、怒りだけは出てきていた。
叫びだしそうだった。
頭が真っ白に、目の前が真っ暗になる。
ぐちゃぐちゃとしてくる。
これ以上は耐えられそうにない。何かが止めどもなく噴出して暴走してしまいそうで恐ろしかった。
もう本当に駄目だと思った。
目の前を物体が止まる。バスだった。
定時より少し早目にやってきたバスは、音を出しながらドアを開け、乗客を入れ始める。この時のためにずっと待っていた人々はどんどんと乗っていく。
この時の俺の目の前に鏡があったら、さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。
心の底からほっとした。
助かった、そんな気持ちだった。
俺も他の客に続いてバスの中へと乗り込む。後ろからなゆが俺に続いている気配を感じた。なので、俺は一人用の座席へと腰かける。
俺に話しかけてくれるなよというアピールに窓から外を眺める。
なゆは俺の二つ後ろの席に腰かけたようで、幸いなことに話しかけてくることはなかった。
バスを降りてから自宅までの道のりを無言で歩く。ここでなゆに何か話しかけられたりするかと思ったりもしたが、有難いことになゆは無言だった。
嬉し悲しいかな、幼馴染ということもあって、帰宅路も全く同じなのだ。
俺の方が歩みを速めたおかげで、なゆとは数メートルの差はあるが、それでもなゆの視界に俺が映り込んでいるのかと思うと精神的に厳しいものがある。背中から妙なプレッシャーを感じる。自分で勝手に一人で感じて気まずい思いをしているだけなのだが、なゆのことを盛大に無視していることもあり、胸の内に不快感が広がる。
仲違いした人間が、同じ帰り道で相手に向かって「着いてくんなよ」と言う場面がドラマの中であったりするが、「着いてくんな」という人間の気持ちがわかるような気がする。この不快感は形容し難い。要は相手に八つ当たりをすることでストレスを発散しているにすぎない。
ふと、自分の思考の中で引っ掛かりを覚える。
仲違い、か。
俺たちは仲違いをしているのだろうか。
いや、俺が勝手になゆへ怒りを覚え、嫌悪しているだけだ。喧嘩をしたわけでも、なんでもない。俺が一方的に距離を置いているだけだ。
なんでも一方的に、自分勝手に、なのだ。
あまりの身勝手さに自嘲する。
酷い奴だ。だが、自分の事を改める気は毛頭無いのだから、呆れるぐらいに酷い奴だろう。
でも仕方がない。
世界が変わってしまったのだから。
いろいろと考えている間に気づけばもう自分の家が見えてきた。知らぬうちに随分と歩いていたらしい。最近の俺は気づくともう目的地、なんてことが多々とある。
あれ、いつの間に。そんな言葉が聞こえてきそうだ。如何に周りに気を配っていないかがわかる。毎日ただ空虚に、空白に過ごしている。
「ねぇ! 祐くん!」
なゆが大声を出す。一瞬、足を止めそうになったが、歩みを続ける。
待って待ってと早足でなゆが近づいてくる。
昔を思い出す。
なゆはいつも泣きながら俺の後をついてきた。
必死に俺の背中を追いかけて、どこまでも俺についってまわった。
意思に反して足が止まる。
背中のすぐ後ろに来たところで足音が響かなくなる。
振り返ると、想像とは異なって、昔の影とは重ならなかった。
泣きそうな顔をしながら追いかける姿は無くて、そこには何かを探しているような必死さがあった。
身勝手な俺は、このギャップにも少なからずショックを受けた。「昔」はもうないのだ。崩れ去った世界は瓦礫すらも残すことなく細かく粉砕してしまったのかもしれない。
「ありがとう」
「何が」
息を整えたなゆが突然、訳もなく礼を言いだす。憤然とした態度で答える。なゆは困ったように眉を下げたが、すぐにまた笑う。
「待っていてくれて、ありがとう」
何を言っているのだ、こいつは。呼び止められたから足を止めたに過ぎないのに。最初は無視を決めこもうとしていたのに。何も礼を言われることなんてなかった。だからだろうか。俺は更に不愉快になっていく。
「で?」
え? となゆがキョトンとする。
「当初の目的は何だよ」
随分あたりの強い言い方になってしまう。なゆが小さく、ごめんね、と微笑む。その顔がまた不快指数を上げていく。何も悪いことなんてない。本来ならなゆが謝る必要なんてないのだ。俺が勝手に一人で腹を立てているだけにすぎない。そんなことは自分でも理解しているだけに余計に自分自身にもイライラしていく。
気持ちを整えたのか、意を決したようになゆが口を開いた。
「明日はどこか遊びに行こうよ」
「明日は月曜だ」
今日は日曜日だ。だからこそ、俺も朝からバイトに入るなんてことが出来た。今日が日曜ということは明日は月曜、世間一般的に平日とされる日だ。平日ということは明日は学校が開校されていて授業がある日のはずなのだ。明日は祝日なんてオチは無い。
「サボタージュを推奨しているのか」
「うん」
とびっきり笑顔で返されてしまった。
まさか同朋から、サボりを勧められるとは誰も思うまい。不良ならいざ知らず、真面目に授業を受けている極々普通の女子からの提案は流石に度肝を抜かれる。
「俺は善良な一般人なんで」
「その善良な一般人ってのをたまには辞めてみようよ! きっと楽しいよ。ワクワクすると思うんだ」
ニコニコと笑う。俺はその返答にげんなりする。予想していたことではあるが、やっぱり期待は裏切ってはくれないのか、という失望感に苛まれる。どうして裏切ってはくれないのか、という絶望。
失望は期待するから生まれる。俺はまだ何かに期待をするなんてことをしているのかと自分のことなのに驚く。そんな自分にも気づいて更に不愉快になっていく。
もう何もかもうんざりだ。
「一人で行ってくれ」
俺はなゆにそう冷たく言い放つと自宅の扉を開いて中へと入る。背を向けていたから、なゆがどんな顔をしたのかまでは把握していない。でも、それでいい。これ以上見たくなかったから。
こうして、ようやっと憂鬱で大層つまらなくて、何の意味もない俺の一週間が終わるのだった。