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一、憂鬱な一日の始まり

 右よし、左よし、オールオッケー。今日も俺は一人だ。

 幻覚でも空想でも妄想でもなんでもいい。右目の端っこ、片手だけが写り込んだって両親がいれば俺は両手を挙げて年甲斐もなく大声をあげて泣き出すだろう。母親の胸に飛び込み、父親の手を握り、きっとその手を固く固く握りしめ離さないんだ。

 右よし。母親なんていない。

 左よし。父親なんていない。

 オールオッケー。悲しいことに今日も俺は正常だ。


 いつものように玄関の鍵を閉め、いつものように居間へと足を進める。今日は久しぶりに何か作るかと一瞬気の迷いが生じたおかげで両手が重い。歩く度にビニール袋の中で食材が揺れ、ガサガサと不快な音が耳に届く。

 なんでこんなに買ったんだ。

 一人ぼやくが、もちろんこれに返答をする人間なんていない。

 一旦、右手で二つの袋を持ち倍の重さがかかる。重い。漬物石を持っているかのような重圧が指にかかる。この重さから早く解放されたいと居間へと続くドアを開ける。もちろん部屋の中にも誰もいない。

 別にこんなことはいつものことだ。

 家の中に誰かがいるなんて事、我が家では滅多にあることではなかった。いつも誰もいないのが当たり前。何時に帰っても最初に帰宅するのは俺。日付が代わってから親が帰ってくればまだいい方だった。

 そんないつもの見慣れたいつもの風景であるのに、ここ半年はそのいつもがとてつもなく寂しく、辛い。

 家に誰もいないし、もう誰も帰ってくることなんてないのだ。

 我が家の居間はカウンターキッチンと同じ空間にあるので、そのまま冷蔵庫の前へと移動する。冷蔵庫の中には、この前詰め込んだ食材が所狭しと存在を主張している。

 そういえば、前も気の迷いで食材を買い込んだのだった。その時も調理の気持ちなんてどこぞへと消えてしまい即席麺を開封し、ただ茹でただけの麺をずるずると啜ったのだった。今日買い込んだ食材が入りそうもない。それどころか、随分前に買った開封済みのハムが干からびているし、残った白米なんてカビが生えている。

 ぎゅうぎゅうに押し込められた食材たちがこれ以上は入るわけがないと拒否の姿勢を見せている。これは無理そうだ。今日購入した食材を入れることなんて諦め、冷蔵庫の前に無造作に投げ置く。いつもの棚を開けて、カップ麺を取り出すつもりの手が空を切る。中を覗くと、あるはずの物が一個もなかった。前回で食べ尽くしてしまったようだ。すっかり忘れていた。チラリと床に転がっている食材に目をやる。ああ……いいや、一回ぐらい食事を抜いたって大したことにはならないだろう。記憶にはないが、こうして活動しているということは昼に何かは食べているだろう。エネルギー的には問題ない。オールオッケーだ。

 自室のベッドに雪崩込む。今日も一日が終わった。明日は土曜日。学校はない。朝目覚めた時、億劫で重い腰をあげる必要なんてなく一日中家の中にいることが出来そうだ。煩わしく誰かに声をかけられることもない。面倒なので今日は風呂ももういいだろう。このまま寝てしまおう。

 そう思って目を閉じかけて、ふと思い出す。

 ダメだ。そうだった。明日はバイトが入っているんだった。

 一度投げ出し休息の体勢をとってしまった体はとても重く、大層な体力を使って起き上がり、これまた大変な労力を使って風呂場へと向かう事となった。


「あいうえお」

 自作し壁につけたあいうえお表を眺めながら声を発する。

 昔、よく遊んでくれた近所の兄ちゃんが言っていた。大学生の兄ちゃんは随分俺たちの憧れの的で、何でも知っていて何でも面白おかしく話をしてくれる良い人だった。

 そんな兄ちゃんは大学に入学すると共に一人暮らしを始めた。最初のうちに必要取得単位を得ていた兄ちゃんは四年生になる頃にはもうゼミ以外の講義がなかった。そんな四回生の卒論提出があと一月もない時期。毎週のゼミがその週だけは教授の都合で休講。おかげで一週間、特に誰とも会話をせず家でも声を発しないでいたら、久々のコンビニのレジで「スプーンをお付けしますか?」という問いに「はい」と答えようとしたら声が出ず、ヒュッという音しか出なくて随分焦ったそうだ。人は声を発しない生活をしたら一週間で発声が難しくなるらしい。

 あの時は本当びびった! 面白そうにカラカラと笑う兄ちゃんの顔は今でも印象深く残っている。それに俺たちは「ええー! そんなことあんの⁉」と驚き一緒に沢山笑ったのだ。

 その話をこの前、ふと思い出しのたで、自主的に声を発するべく壁に表をつけた。なぜあいうえおなのか聞かれても答えられそうにない。気分だ。

 目に入ったら声を出すようにしているが、基本目に入らないので意味はあまりない。

 今日はほぼ誰とも会話らしい会話をしていないように思う。思うというのも記憶がほとんどないからだ。漠然とただただ過ごした世界では自分が何をしたか、誰と何を話したかが全く意識に残らないものらしい。

 最近の俺は言葉という言葉を発しなくなっている。人と交流を持つこと自体がもう大変な重労働で煩わしいのだ。絶え間なく続く他愛のない会話。ただの世間話。会話することが目的で終着点の無い対話ほど疲れるものはない。随分と体力を奪われ、終えた後の俺は一種の空しさを抱えながら疲労で体の力が抜けきってしまう。

 無理に張り付ける顔。生気の籠らない仮面をつけて話したものほど覚えていないものはない。仮面をつけている時間には制限があるようで、その限界を超えて無理に着用しているとこちらの精気まで吸われるようだ。

 その結果、とんでもない疲労が蓄積されていき、家ではただぼけっとするだけの無意味な時間が過ぎることとなる。

 別に無意味でもいい。価値なんてない。全てどうでもいい。

 ただ、無意味な会話によって疲労が発生してしまうのはいただけない。疲れるのは御免だ。

 明日のバイトを思って会話が発生する前から疲れが溜まる。明日は億劫だな。

「わをん」

 あいうえお表を最後の行まで読み終え、労働を終えた俺の体はやっと休息へと入ったのだった。



 翌日、目が覚めて視界いっぱいに天井が広がる。このまま、何もせず、ただ天井を眺めていられたらどんなにいい事か。そういうわけにもいかないので、大きく息を付いて動き出す。

 動かねば。金を稼がなければならないのだ。

 いつものように準備をし、階段を降りる。

 一階に降りて、ある部屋の前に立つ。

 いつものように胡坐をかき、ただ扉を見つめる。

 いつからだろう。

 俺は両親の部屋の前に座り、ただ、ただ、扉を見つめるだけの時間を過ごすようになった。自分から取っ手に手をかけ、ドアを開けることはしないし、もちろん、中から両親が開けて顔を出すなんてこともない。

 無意味で無価値な俺だけの時間だ。

 ドアが開き、父親が顔を出したりしないだろうか。

「お、どうした? 祐大」

 中に入っていいものかどうか悩みドアをノックするかどうか躊躇っている俺に声をかけるのだ。

 そして俺はいつものようにお決まりの台詞を言う。

「今何してるの?」

 息子に何をどう言ってやろうか思案する表情が浮かび楽しそうに笑う。

 父の口から何が飛び出してくるのかワクワクする。

 この瞬間がとてつもなく大好きだったのだ。


 妄想。空想。


 今ではそんなこと絶対に起こりはしない。

 それにこのやり取りは小学生の時に卒業している。

 中学生になってからは部屋の前でどうするか悩む俺は終わった。ドアをノックできるようになっていたのだ。

 それが、今では俺はまた何もできない小学生に逆戻りしている。扉が勝手に中から開かないかと期待を抱いている。

 開きやしない。

 死んだのだから。

 いつものように「お? どうした祐大」という声は聞こえやしない。

 いないのだから。

 誰もいない。中は空っぽだ。そんな事わかっている。でも、声をかけずにいられないのだ。

「今、何してんの?」

 もちろん、中からは何の返答も無かった。

 また同じ質問を投げ掛けようとしたとき、携帯のメロディが鳴り響く。

 バイトに出かける時間にセットしておいたアラーム。行く時間にセットしておかないと意思の弱まった重い腰は上げてくれなさそうなのでいつも必ずアラームを鳴らすようにしている。でないと俺の重たい腰は梃子でも動かないぞという強い想いを放つのだ。

 うんざりしながら画面表示を見つめる。ボタン操作をしないといつまでもけたたましく鳴り続けるのだろう。携帯に「何をしているのか」と逆に問われた気分になる。うるさいな、俺の勝手だろ。

 乱雑に操作し、アラームを解除する。

 横に置いておいた鞄に携帯を放り投げ、腰をあげる。俺の重い腰は周りに指示された時だけは言う事をきく。アラーム先生の力は偉大だ。重い足も一歩を踏み出し、玄関へと向かう。

 すぐそこの距離がとても長く、遠い。歩いても歩いても進んでいないような感覚に陥る。

 後ろを振り返りドアを見つめる。もちろん、何もない。


 行ってきます。


 今までだったらそう声を出すが、今発声させる意味はない。誰もいない空間に言葉を出してどうするというのか。

 何もない空白に俺は鍵を閉め、歩き出した。



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