十、崩落した世界で
そんなこんながあって、気づいたら白沢とよく話すようにはなっている。よく話す、というよりはよく話しかけられる、という状態だが。最初は白沢も初めての交友に戸惑ったようで、おかしなことをして俺がついて行けなかったり、どこから得た知識なのか朝出会う度にハイタッチを求めたりといった変な友情感を持ってしまったりして付き合いきれないと思ったこともあったりしたが、その辺の話は割愛する。
そんな白沢も二ヶ月も経てば慣れてきたのか、彼らしいペースが出来てきた。俺はそれにいつも振り回されるわけだ。同級生との関係の持ち方を知らない時も、ようやっと知った後でも振り回されるのは変わらない。
こいつに振り回されるのは相手がまとっている空気が自分とどこか違うせいだろうか。白沢には何か特別なものがあるように思えてしまうのは自分との生まれ育った環境の相違によるものなのだろうか。見えない何か、に惑わされているのか、白沢と話をするといつもあっちにペースを持ってかれてしまい、少々不快な気持ちが残る事となる。
「祐大、何があったのか俺は知らないけどさ、なゆちゃんへの当たりが強すぎるよ」
「別にどうでもいいだろ」
「なゆちゃんの友人として思うことがあるから言っているんだよ。どうでもよくない」
さっきまでの笑みはどこへやら。真剣な眼差しが俺を刺す。こいつがこうなると譲らない。俺は何も言い返すことが出来ない。俺が間違っている事を自分自身で自覚しているからだ。
だから俺は、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「『イタイ』って思わないか?」
「何を?」
「あいつの行動だよ。経験値だとかレベルだとか、そんな訳のわからないことを言ってさ。変なポーズだってするし。正直、十六にもなる女子があんな事してたら引くだろ?」
「祐大は引いているの?」
逆に問い返されてしまう。白沢の顔からは何を考えているのか読み取れない。こいつの顔はいつもそうだ。にこやかな笑みを浮かべていても、真剣な顔をしていても、どんな考えからその言葉を発しているのか掴み取れない。俺がおかしいのだろうか、そんな気持ちが出てくるほどだ。
長い沈黙が続く。
「見てると祐大は引いているというより、少し違う感じがするんだよね」
白沢が先に口を開く。表情がいつの間にか変わっており、にこりと笑っている。いつもの顔だ。
「違う感じってなんだよ」
「うーん、それがよくわからない。だって、祐大は何も話してくれないし」
つまり、話せよってことか。暗にそう言っているように聞こえる。本人もそのつもりなのだろう。その顔には珍しく何を考えているのかわかるほどに、俺が何かを話し出すのを期待しているのが窺えた。
なんと答えようか悩んでいた時、丁度よく昼休み終了のチャイムが鳴る。助かった。白沢が小さく「ちぇっ」と言っているのが聞こえた。
最後の授業が終わり、机に入れていた教科書を鞄へと放り込む。俺は置き勉はしない主義なのだ。だからといって持ち帰ったところで何をしているでもないのだが。気分の問題である。
さっさと詰め、なゆに呼び止められる前に出て行こうとする。
「祐くん、待ってよ」
俺の努力も虚しく、なゆに声をかけられる。これも今日一日の行動通り、無視しようと思ったが、昼休みの白沢に言われた事が頭に浮かぶ。
当たりが強すぎる。
別に俺だってしたくてしているのではない。
だって、しょうがないじゃないか。
それでも俺の当たりの強さ、というのは身勝手で自己中心的で最低最悪だという事も自分で理解しているんだ。
自分で「仕方がない」と言って正当化していることも何の理由にもならないことを知っている。
「何だよ」
ぶっきらぼうに答える。なゆは俺が立ち止まるとは思っていなかったようで目を小さくしている。でも、そんな表情もすぐに笑顔へと変わる。
「一緒に帰ろう!」
「どうせ、バスの中で一緒になるしな」
いつもの俺とは反応が違ったためか、なゆが驚いて目を白黒させている。
「え? え?」
何もこんなに驚かなくてもいいじゃないか、と言いたくなったが、今までの俺の行動故だろう。言葉をぐっと飲み込む。
別に白沢に言われたからというわけではない。どういうわけなのか自分自身でもあまりよくわかっていない。
ただ、昔の事を思い出しただけなのだ。
幼馴染の俺たちはいつも一緒だった。学校への登校も下校も、遊ぶ時も本当にいつでも一緒だったのだ。なゆと登下校を一緒にしなくなったのはここ半年の事だ。
昔、俺たちが小学生だった頃、二人で手を繋いで歩いた。中学生の頃、肩を並べて歩いた。高校生になったら、どうなるのだろうと思ったものだが、蓋を開けてみたら、俺が距離を置いていつの間にか二人で歩かなくなっている。
それでいい気もするし、駄目な気もする。
自分でもこの感情をどう処理すればいいのかわからない。
「祐くん、どうしたの?」
あまりにも俺が停止していたせいだろうか。なゆが俺の顔を覗き込んでくる。顔のあまりの近さに驚いて一歩足を引く。
「別に何も」
この感情はなんでもないし、この驚きもなんでもない。
更に問われても面倒なので俺はさっさと歩き出す。なゆが「待ってよー!」と慌てて追いかけてくる。
「何だか久しぶりだね」
俺に追いついたなゆが口を開く。口元には笑みが浮かび、側から見てもご機嫌なのが見てとれる。今にもスキップをしそうな軽やかさで歩く。
今まで俺がしてきた事を思い、なゆの事を直視できない。つい、目を逸らしてしまった。
「祐くん、遊びに行こうよ」
「行かないからな」
なゆの誘いに即答する。昨日から妙に遊びへと誘われる。そんなに遊びたいのなら女子の友人と行けばいいだろうに、と言葉が出かかり、口を噤む。
そうだ。なゆには友達と言える女子が少ないのだった。
北鈴になゆと親しい女子はいない。もちろん、なゆの奇行のせいである。腰に手を当て「世界は俺の踏み台である!」なんて高らかに宣言する人とは誰だって付き合いを遠慮願いたい事だろう。男子ですら引いてしまい、なゆとの会話を極力避ける奴ばかりだ。それが女子となれば尚の事。なゆと交流しようとする物珍しい奴はいない。
中学の時の同級生もいたのはいたが、高校生になった今も交流しているのかどうかは俺にはわからない。俺を遊びに誘うぐらいには友人たちとの交流がないのかもしれない。
「きっと楽しいよ」
「行かないって。しつこい」
でも、とかだって、という言葉を言って尚もめげない。あまりのしつこさに、気力をごっそりと削られる。そんな俺の様子に気づいたのか、なゆは口を噤む。辺りを静寂が包む。
無言でバス停までの道のりを歩く。まだ、まばらに生徒が残っており、女子は廊下で談笑を楽しんでいるのか笑い声が響く。校庭からは男子野球部員の掛け声がリズミカルに聞こえてくる。
よくある高校の下校時の風景だ。その風景の中での違和感の一つとして、ある男女の無言で並んで歩く姿。
恋愛感情のある男女が恥じらいから無言になっているのではない。慣れ親しんでよく知っている幼馴染みと会話もせずに歩く姿は不協和音以外の何ものでもない。
なゆが俺の様子を伺っているのが空気中に伝わる。
なんだよ、そんなことを目で語ってみる。口に出してしまったら、また、なゆに対して強く当たりそうだった。
「祐くん、元気?」
「……は?」
予想だにしていなかった問いに思わず、素っ頓狂な声が出る。不意打ちだった。
またなにか遊びの誘いだと思ったのだ。何度断っても、その度に何度も誘ってくるので、俺が遊びに行くと肯定するまで、なゆは繰り返すと思った。
想像していたものとあまりにかけ離れた言葉に思考がついていかない。
「祐くん、ずっと元気が無いように見えるから」
なゆが静かに言葉を吐き出す。
その言葉は俺の様子を伺っているように見える。恐る恐る、俺の方へ視線をチラチラへと送る。また、いつものように俺が怒りださないか。俺の反応がなんと返ってくるのかわからず不安で怖がっているような。
なんだ、それ。そう言って笑い飛ばしてやりたい。
だが、俺自身、自覚があるだけに笑いなんて出てこなかった。無理に笑おうにも笑顔を忘れた表情筋は機能を失ってしまったようで口角が上がることもない。言葉すら出てこなかった。
どう返せばいいのか。
また、沈黙が続く。
なゆは俺の様子をずっと気にして視線があちこちへと飛ぶ。困ったように眉が下がり、今にも泣き出しそうな表情だ。
いっそのこと泣き出してくれたほうがこっちも反応を返せるというのに、俺の期待通りになゆは泣いてはくれなかった。
じっと俺を見つめ続けるだけだ。
俺が遂にその視線に耐えられず、目線を逸らす。その視線の先は地面だった。数メートル先のコンクリート。
俺のあまりの反応の無さ故なのか、なゆが口を開いた。恐々とだが、しっかりとした口調だった。
「今、祐くんの世界には何が見えているの?」
どこかで聞いたことがあるようなフレーズ。果たしてどこだったろうか。思わず、なゆを見る。
なゆは先程までの少しおどおどしていた様子はどこへ行ったのか、力強い眼で俺を見ていた。
「ねぇ、今の世界は何色?」
何色って、俺の目に映ったものはコンクリート、灰色だ。
何故だろう。
どこかで聞いたことがあるような、覚えがある気がする台詞だ。
どこで聞いたのだろう。
とても懐かしいような気がする。
「私の世界はね、今、少しだけ雲がかかっているから暗い色をしているかな。でもね、大丈夫だよ。そのうち晴れる気がするんだ。雲の合間からね、光がチラチラと見えてるの。だから少しだけ明るい色もあるかも」
「……結局、それは何色なんだよ」
「何色だと思う?」
質問に質問で返されてしまう。
少し暗くて少し明るいだなんてそんな色あるだろうか。
俺が押し黙っていると、なゆが笑い出す。
「難しいよね、私も最初わからなかったもの」
「なんの話してるんだよ」
今見えている世界の色の話ではなかったのか。なゆの見えている世界の色だったはずだが、その当の本人も最初はわからなかった、というのはその色は知覚できているものなのだろうか。
一休さんの頓知を思い出す。
「昔、今よりもう少し暗い色のときにね、同じようにそう聞いてくれたんだよ」
誰が、と言おうとして思い出す。
なゆが誰かにそんなことを言われた、となると思い当たるのは一人しかいない。
泣き虫なゆと馬鹿にされ、虐められた経験をもつなゆに友人は本当に少ない。だから、いつもずっと一緒だった。
いつも泣いてばかりで、下ばかりを見て一人でいたから。
その表情はいつもつまらなそうで退屈そうにしていたから。
俺がいつも引っ張っていたのだ。
初対面のとき声をかけた。「お前の今の世界の色は何色だ?」と。
その後も、なゆが落ち込んで俯いていたときにも「今の世界は明るい色をしているか?」と声をかけ続けた。
その度になゆは、頭を横に降り更に泣いたのだった。
俺のこの台詞は受け売りだ。
誰のって他の誰でもない、俺が一番尊敬している人間。両親である。
俺がまだ小学校にも上がっていなかった頃、酷く落ち込んだことがある。今思い出そうとしても一体全体何に落ち込んだのか忘れてしまいわからないが、酷く衝撃的だったことを覚えている。その時の俺に父がかけた言葉が「今の世界の色は何色だい?」だった。
その時の俺は父になんと答えたのだろうか。それも今では覚えていない。だが、俺はそのフレーズをとても気に入り、その後、なゆに対して使うようになったのだ。
とても懐かしい響きがして当然だ。
俺の両親の言葉だ。
俺が大好きだった父の言葉だ。
表情が強張るのが自分でわかる。
「やめろよ……、そういうの。やめろよ」
声が震える。
やめてくれ。
両親のことを思い出させるのはやめてくれ。
つらいんだ。
苦しいんだ。
当時の痛みが甦る。これが痛みでなかったらなんだというのだろう。苦しさを吐き出すかのように深く息をつく。
声を発しようとしても上手く音にならない。
俺の様子になゆが訝しむ。
「もう、そういうのやめろよ!」
やっと空気を吸えた口は喜びの声を上げるかのように大声を吐き出す。俺の突然の声になゆが驚き、後ずさる。
「いつも、いつも、なんなんだよ! 俺の真似をして! 俺は! 俺は! もうそういうの止めたんだよ! いつまでそんな事続けるつもりなんだよ! いい加減、卒業しろよ! もう俺達高校だろ⁉ 子供じゃないんだよっ!」
一度開いた口は終わりを知らないかの如く止まらなくなる。一気に吐き出した後、肩が大きく上下する。
息が、荒い。
なゆの時間が止まる。
「俺の受け売りでわかったような口きくなよ。世界の色とか、そんなの……、そんなの……」
その先の言葉が出てこない。「どうでもいい」そう言いたい。しかし、どうでもよくない事を俺は知っている。だから、言い切れず先を濁すことしかできない。
「受け売りでも何でも、祐くんが元気になるなら私は何度でも言うよ」
なゆは怒るでもなく、泣くでもなく、静かに笑った。
「世界は輝いていてとっても楽しいところなんだよ」
なゆの一言に全身がかあっと熱くなる。
「何が世界は輝いている、だ! 何もないんだよ! 無意味だったんだ!」
「無意味じゃないよ、世界に何もないなんてこともないよ! 今、祐くんはちょっと疲れているだけだよ!」
「お前に、何がわかるっていうんだ!」
自分でも驚くくらいの大声が出る。なゆがビクリと肩を震わせる。その反応が余計に衝動を引き起こす。
俺の反応を伺いながら、怖がりながらも、尚も俺の周りで目障りなことを繰り返す。俺の反感を買うとわかっていても繰り返される行動は嫌がらせに他ならない。
お前は何がしたいっていうのだ。俺にどうしようっていうんだ。
訳のわからない行動に苛立ちしか出てこない。
終いには、知ったふうなことを語るなゆ。
その全て、一挙一動が酷く不愉快で癇にさわる。
俺の今までの行動を模倣して、俺の今までの言葉を真似して、それで何がしたいというのか。捨ててきたものをまた目の前で他人に再現される不快感は酷く不味いもので吐きそうな程だ。
「何もわからないくせに! 好き勝手言うなよ! 外野は好きなように言えていいよな! もうやめてくれよ! 不愉快なんだよ!」
胸の内に籠っていたもやもやを全部吐き出す。
全部言い終えてからなゆの顔を見て、言ってはいけないことを言ってしまったことに気づく。
今までに見たことがないくらい泣きそうな顔をしていた。こんな顔を見るのは生まれて初めてだった。
初めて出会った時も、クラスの男子に虐められていた時も、そして、なゆの両親が亡くなってから今の今までだって見たことがない。
今にも顔がぐしゃぐしゃに崩れて大声をあげて泣き出してしまいそうな、そんな強い衝撃を受けたような顔。
これは泣く。
そう思ったが、予想を大いに裏切ってなゆは泣かない。
今にもくずおれて泣きそうな顔をしながらも、泣かずに声を出す。
「ごめんね。ごめんね」
ずっと、そう繰り返す。
俺の内側に強い衝撃が走る。
世界が反転してしまったような感覚。
あの泣き虫なゆはどこへと行ってしまったのか。
何故、泣かない。
なゆはいつもこういった時、いの一番に泣きだすのでは無かったのか。
なんだよ、なんなんだよ! 一体全体なんなんだ!
訳のわからない怒りが内側にどんどん広がっていく。
俺の怒りのヒートアップに合わせるかのようになゆの謝罪も回数を重ねていく。
「ごめんね」
うるさい。思わずそんなことを口走ってしまいそうだった。
だから、俺はなゆをそのままそこに置いて駆け出す。早く離れなければ更に酷く、心ない言葉を吐き捨てそうだったのだ。
どこまでも走る。
当初の目的地だったバス停を通りすぎ、止まることなく一心不乱に走る。
一息ついたときには校舎もバス停も視界から消えていた。
後ろを振り返っても、もちろんなゆはいない。
ほっとする。と同時に深く息を吐き出す。
目の前には遥か遠くに見渡せる住宅地。俺は今からあそこまで歩かなければならない。バスで約一時間程かかる道のりだ。とてつもない時間と体力を使うことは想像に難くない。しかし、致し方ない。あのままバスを待ってなゆと同じバスにだけは乗りたくなかったのだ。
街並みを見下ろしながら、こんな辺鄙な場所にある高校を選びやがってと過去の自分を呪う。今さら過去のことをとやかく言っても仕方がないのだが、あの頃に戻れるのなら、きっと俺はこんな高校を選びはしなかったのだろう。
いや、無理か。過去の高校を選ぶ時点に戻っても、やはり俺は同じように今の高校を選ぶのだ。それは間違いない。
なんといったって、その頃は両親が健在だったのだから。
二人がいる限り、俺は何度あの時点に戻っても何度だって同じ選択をし続ける。そして、現在に来て過去の選択を後悔するのだ。そう、何度だって。今と同じように。
じっと遠くを見る。
とうの昔に変貌を遂げた世界の見かけは何も変わっていない。大きく穴が空いているわけでも、建物が倒壊しているわけでも、隕石が深く地面に突き刺さっているわけでもない。
しかし、俺の世界は確実に終焉を迎えるような空の色をしているし、もう数分で隕石が降ってきて地球に大きな穴を空ける。
一瞬、世界がぐらつく。
過去の世界がふと顔を覗かせる。
先程のなゆを思い出す。
嗚呼、俺は世界に裏切られたのだ。
思わず、ガードレールに手をつく。何かに寄りかからないと膝から崩れ落ちそうだった。
嗚咽が漏れる。
あんまりだ。
いとも容易く世界は変容してしまうのだ。
至極簡単に足元の土台は崩れ去ってしまうのだ。
もう駄目だ。全部終わってしまったのだ。あとは破滅までのカウントダウンが始まるのみなのだ。