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二藍紫陽花

不適切な言葉があります。

 背中を流れる様に揺れる黒髪を指に絡め、日に焼けた女の肌を擦れば少女の様に顔を赤らめ目をそらす。歳が読めない女の表情と行動が手練手管であれば大したものだと思いながら、誰にも触れられたことのないような艶やかでなめらかな肌に唇を寄せ微かに溢した女の声を聞いた。

いくら赤線でなくなったといえ、やはりここにはその様な商売女が存在して、男はそこでそんな事をしているには勿体ないと思うほどの女を買った。女は自分の住む小汚いアパートで敷きっぱなしの布団の上でその美しい肌を惜しげもなく露出した。正直、初めて女を買った男はその行動に驚き、一時は逃げてしまおうかなどと考えたがその少女の様にも思える女の可憐さは惜しいと留まった。

「お前、何て名前だ?」

首筋に食らいついていた男が突然、空気も読まずそんな事を呟き、女は少し目を丸くしたが目尻の垂れた挑戦的な色合いの瞳は薄らと子供の笑みを浮かべ知らないと答えた。

「しらねぇって事はないだろう。なんて呼ばれてんだ」

女の小さな、しかし弾力のある乳房に触れ、擦る様に手を動かせば猫の様に目を細め、唇を笑む女は小さな、少し低いぐらいの声で呟く。男に聞き取れないほどの声で高瀬と確かにそう言った女の桃色の唇に食らいつき、薄い幾つかの染みのある布団へ押し付けると女の指先は小さく震えた。

「高瀬ってのは苗字か」

女の内股に流れる赤い筋を気付かない事にして男が言えば高瀬は違うと言った。古い友人の家へ久しぶりに訪ねてみた男は今更、どうしてこの少女の様なそれでも色気のある女と会話しているのか考えてみる。

そうだ、あの友人を訪ねて来たというのに友人の姿はどこにもなく、そこにいたのは年齢不詳の商売女だった。間違えたと帰ろうとしたのに女が腕を掴み子供の様な笑顔で買ってなど言うから、女に困っているわけでもなく、むしろ女に小遣いを貰うような生活をしているのに初めて女を買う事になったんだ。慎は改めて自分の行動に不満を感じながら美しすぎる女を見た。

「お母さんがそう呼ばれてたらしいんだよ。でもあたしが生まれてすぐに死んじまったからあたしは知らない」

立てかけられたちゃぶ台に引っ掛けられた松葉色の寝間着をはおり慎の隣に座った高瀬はやはり子供の笑顔で言う。長い黒髪が情事後の独特の乱れを出していたのが妙にしっくりときていた。

「お前も親なしか」

「珍しかないよ。道歩いてりゃ親なしも乞食もうじゃうじゃいる」

ちょこんと慎の膝に跨った女の寝間着は内股に流れていた赤い筋を拭った染みができていた。

 六月だ、じめじめとして天気の纏まらない、それなのに紫陽花は毎日美しい花を見せてくれる。そんな季節だ。慎は何を思ったのか突然に高瀬に会いたくなった。

あいつを買ったのはまだ寒い冬の始まりだったから数か月、会っていないのに今日、急に思い出したら会いたくなった。

しかし、高瀬について知っている事は少なく、確かあれの部屋には電話はなかったしあったとしても番号を知らない。突然家に押し掛けるしかないなと思い立った慎は土産のぶどうを片手に歩いていた。

パラパラと雨が降っていて、行き交う人間は傘を差したり差さなかったりしている。高瀬のアパートは人通りが少なく、前からこちらにやってくる女が一人いるだけだ。

紫陽花の様な大人しい藤色の傘を差した女はまるでアパートに向かうように歩いてくる。高瀬の同業者かなどと考えながら二階にある高瀬の部屋へ行くために階段へ向かった。

「あれ、お客さんだ」

錆びた手摺にぶどうの入った袋を引っかけた右手を置いた瞬間、背後から聞いたことのある声を聞き振り返る。ポタポタと落ちる様に降る雨と藤色の傘の隙間から高瀬の顔が見えた。

「おまえ、太ったか?」

首をかしげる高瀬に対しての第一声は我ながら失礼だったと思う。

 数か月ぶりに入った高瀬の部屋は布団だけ真新しくなっていた。この前みた幾つかの染みがある薄っぺらい安物ではなく、ある程度の暖かみはありそうな布団になっていて、何処にも染みは見当たらなかった。

「お客さんがくれた金で買えたんだ、ありがとう」

そう言って笑った高瀬の顔はこの前の子供の顔じゃなく、少し大人びた優しい微笑みになっていた。まるで少女から女に成長したみたいだと思ったが、口に出せば怒りそうなのでやめておいた。

「おまえ、雨の中どこ行ってたの?」

好奇心で訊いてみたがまるで恋人面だと少し笑えた。冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスへ入れながら少しだけ振り向いて高瀬は笑った。

「蜜柑が食べたくて、探しに出たんだけどやっぱり何処にもないんだよね」

そりゃこの時期に蜜柑なんて置いてるのを見てみたいとツッコミながら差し出された麦茶を受け取り、ゆるりと座る高瀬を眺めた。

細かった腕は少しだけふっくらと丸みを帯びていて、首筋は細いままだが骨が浮き出るほどの細さでもない。物色する様に高瀬を眺め、足先から頭までじっくりと見つくしてやろうと思っていた慎は不意に一点で動きを止める。

ふわりと身体のラインが分かりにくい下着みたいな洋服を着ている高瀬の腹がぼてっと出ていた。ぼてっとと言えば少し違う気がするがそれ以外に表現がないぐらいそこだけがぽんと飛び出していた。

「子供できたのか?」

飲み干そうとした麦茶の傾きを止め、唇に微かにお茶が触れるぐらいでそう呟くと同じように飲み干そうとした麦茶の傾きを止めた高瀬が笑う。唇からグラスを離し床に置いて健康的な肌色の手がそっと腹を撫でた。

「馬鹿みたい?」

自分では馬鹿だなんて思わないんだけどねと呟きそうなほど母親の顔をした高瀬が腹を見た。そこに確かに母子が存在するのかと残った麦茶を飲み、グラスを床に置いた。

身を乗り出し高瀬が触れる腹に高瀬の手をクッションにして触れる。まだ小さめなのかそれすら分からないが確かに膨らみのある腹を何度か撫でると少しだけ愛しくなった。

「俺の子、だったりするわけかやっぱ」

腹から高瀬の頬に手を移動させ、漆黒の目を見れば気まずそうな、言い難そうな声を上げた。

「お前、あの時が初めてだったんだろ」

確かにお前はあの時が初めてだった。俺は見たんだ。そう主張した慎に素直に頷き誰にも聞かれる恐れもないというのに耳元に口を寄せ小さく言う。

「慎さん以外に抱かれてないよ」

真っ赤な頬で目を逸らした高瀬の言葉にそれほどの驚きも見せず、そこで初めて安心を感じた様な溜息を吐きだした慎は身体を元の位置に戻しのけ反る様にして少し笑いながら高瀬を見る。

「そっか、俺以外に抱かれてないか」

高瀬に聞こえないようにそれはよかったと呟いたがその意図は自分でもわからなかった。

 雨は本格的に降り出し、隅に追いやられた布団に座り目の前にあるちゃぶ台の上のぶどうを無言で食べる。同じ様に無心でぶどうを食べる高瀬を横目で確認して窓の外を見た。

すっかり夕方で雨雲と夕日の不気味な色合いが気持ち悪い。壁を背もたれに枕を肘置きにした慎がじっと外を眺め、何かを決断したように息を吸い込み声を発した。

「お前に名前、つけてやるよ」

確か数か月前のあの日、名前はないと言っていた。一つだけ、良い名前を思いついたから付けてやるよ。戸籍上はどうなるか知らんがなと独り言のように呟き高瀬の返事を待った。

「どんな、名前?」

口から皮を出し、少しだけ好奇の目をした高瀬が返事をする。予想通りの返事にほんの小さな笑いを溢し窓の外から視線を外した。左隣に座っていた高瀬の顔をじっくりと見て、頭の中で何度も浮かんでは消えた名前を呟く。

「とし」

口元で種を取り出す高瀬がくいっと首をかしげた。もう一度、慎が声に出すともっと深く体を斜めにしたのがからくり人形の様で可笑しい。

「どんな字?」

「さぁ、知らね。俺の母親の名前だからな」

顔も知らないあばずれだったけどな、と続け少し間をおき別にお前があばずれって意味じゃないぞと付け足した。高瀬にとってはそんな事はどうでもよく、慎から名前をもらえた事が嬉しかった。

「名前なんか、もらっていいの?」

手に持っていたぶどうのカスをチラシの上へ捨て、慎の座る壁に押しやられた布団に近づいて正面に慎の顔が見る様に座り、少し照れている様な素ぶりを見せるその人を眺める。どういう意図で言ったのかも知らないが自分だけの名前は嬉しいものだった。

「やるよ。その代り俺はお前の事としって呼ぶからな」

本当の名前がどんなのでもとしって呼んでやるからなとまるでこれからも会うような言葉を言う慎はふいと顔を逸らし暗くなった外を見た。対する高瀬は驚きを隠せぬまま、熱くなる顔を冷やそうと手で包むが震える指先までもが熱く火照っていた。


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