第二章 1 荒れ地
第二章
1 荒れ地
アウド・ヤールは報酬を受け取った。
腰を抜かした廷臣達がしどろもどろに弁解するうちに、この国の王家と、女性と、土地の関係がやっとわかったからだった。
国土と女王は一体。シトリアの国土は全て大地の女神の化身である女王の物。
異民族に土地を与える事は許されない。
したがって、竜の一族が定住する土地を得るためには、女王が娘に国土の一部を譲り、その娘が土地を花嫁の持参金として竜族の長に嫁ぐ、という形を取らねばならないのだった。
アウド・ヤールの要求は偶然にも、シトリアにとって竜族に土地をあたえ、定住を許すためには当然の、そして唯一の方法であったのだ。
だが姉姫ネアトリスは次代の女王としてシトリア・マイナの全土を継ぐ身。分割した一部の土地を譲られることが出来るのは、妹姫ジュナしかいない。
北の荒れ地と砂漠はジュナの持参金。ジュナを拒めば、アウド・ヤールは領土を失う。
「なぜそれがこちらに正しく伝わらなかったのだ?」
氷のような竜族の長の声に、アウド・ヤールの代理人として婚姻の書類に署名し、すべての交渉にあたっていたバルト・ドールは真っ赤になり、真っ青になり、怒りと屈辱のあまり卒倒しそうだった。
剛直な壮年の武人は、シトリア・マイナの廷臣達の陰謀と美辞麗句に翻弄されてしまったのだ。
話し言葉の差はわずかでも、凄まじく誇張され装飾された宮廷文字はほとんど解読不能、翻訳はいいかげん、問いただそうにも廷臣達は外交辞令ばかりでのらりくらりと逃げ回る。
故郷の理性的で秩序正しい契約に慣れていたバルト・ドールは、戸惑いながらも、癇癪をおこすことなく頑張って、全項目をしっかりとチェックしたのだ。
そう、ただ一つ、王女の名を確認することを除いて。
婚姻の書類に記された名は、判読不能のごてごての装飾の連なりにしか見えなかった。
離れて冷静になってみれば、たかが卑しい傭兵風情が定住の保証のために求めた政略結婚、王位継承者である大事な姉姫を差し出すわけにはいかぬ、代わりに妹姫をさしあげようという、傲慢なシトリア側の意図は明白だった。
「よくよく舐められたものだな」
アウド・ヤールは唇を歪めた。
「かくなる上は都に攻め込り佞臣共を皆殺しにして、問答無用に王女を奪ってくれましょう!」
バルト・ドールは真っ赤になって喚いた。
「初めからそうして、この一国を手に入れてしまえば良かったのだ!」
「そして東のマイダー軍と、反抗的なシトリアの民衆との板挟みになるのか?
我々が二千、いや、一千いたら、可能だったかもしれん。
竜の戦士は三百を切っているのだ、バルト・ドール」
アウド・ヤールは静かに言った。
「我々はあの姫を受け入れる。当初望んだものは全て得られたのだ」
望んだ報酬の他に、花嫁の持参金として金貨、食料、贅沢品が大量に届いた。もっとも贅沢に慣れた王女と使用人達が、これからどれほど浪費を重ねるか、わかったものではないが。
バルト・ドールはそれでも納得しなかった。
「し、しかしアウド・ヤール殿!
あの娘は!あの髪は!」
「我々はあの姫を受け入れる」
アウド・ヤールは無表情なまま、言った。
「妻にするとは、言わぬが」
集会の後。
アウド・ヤールはいらいらと居室へ戻っていった。部下の前では見せられぬ怒りはどす黒く胸にくすぶり、夕食は進まず、酒の杯ばかりが空いた。
衝動的にあの金髪の姫を求めた事を、今では深く後悔していたのだ。
女など・・・どうでもよかった。
妻など・・・誰でもよかったのだ。
そうだ、誰でもいい。あの小雀のような娘の機嫌をとっておけば、この先シトリアとの関係がうまく行くのだ。ただ、それだけだ。
それだけを考えていればいいのだ。
アウド・ヤールは無意識に懐の小さな品を探った。
安全の保障のために、小雀を手なずけるのだ。
ただ、それだけを考えていろ。それだけを・・・。
寝所の扉を開けると、部屋の大部分を占める簡素だが大きな寝台の上に、ジュナが女官達に取り巻かれて座っていた。
手の一振りで女官達を下げる。
茶の髪と青い眼の若い娘が、何か言いたそうに残っていたが、長の一睨みで逃げていってしまった。
ジュナはただ一人。
豪奢な花嫁衣裳は、寝台一面に長い裳裾を広げた、精緻な刺繍を施した白い夜着に変えられ、といて梳られた腹立たしいい金髪と濃い化粧はそのままだ。
顔も上げず、じっと正面を向いたまま。
アウド・ヤールは眉をひそめた。
様子が変だ。
これがあの夜、竜を見て眼を輝かせていたあのお転婆な妹姫か?
「なぜ、何も言わぬ」
アウド・ヤールはジュナの顎に指をかけて上を向かせた。
髪を金に染め、濃い化粧をほどこされたジュナの顔は虚ろで、魂の抜けた人形のようだ。
指を話すと、じっと上を向いたまま。
がたがたと物音がして、女官達が出て行った扉が突然開き、一人の男が転げ込んだ。廷臣と女官が続き、あわてて男を取り押さえ、引っ立てようとする。
「竜族の長殿!」引きずられながらも、彼は叫んだ。廷臣がいそいで口をふさぐ。
「しゃべらせろ。何の用だ」
黒髪のひ弱そうな青年は必至で叫んだ。
「長殿!
恐れながら申し上げます!
姫は、ジュナ様は、女王陛下に呪をかけられておられる!自由な意志を奪われておいでです!」
アウド・ヤールはジュナを振り向いた。
ジュナは上を向いたまま。無表情な化粧の中からその瞳だけが生命を持ち、彼の動きを追っている。
振り返ると青年だけを残して、皆、逃げ去っていた。
「呪だと?意志を奪う?
野蛮人との結婚を嫌がって逃げ出さぬためか!」
「いいえ!
姫は偽りの婚儀を拒否されたのです!あなたを欺く事を拒否されたのです!」
その声が聞こえたのかどうか、アウド・ヤールは低くうなり声をあげてジュナに近づいた。
「どうすれば、呪が解ける?」
マレムは一瞬、言葉に詰まった。
「・・・花婿が・・・くちづけされれば」
罵り声を上げたアウド・ヤールは、マレムを寝室から蹴り出すと、ジュナの金髪を掴んで荒々しく引き寄せ、唇を強く合わせ、突き飛ばした。忌々し気に、手の甲で口についた鮮やかな紅を拭う。
寝台に倒れ込んだまま、しばらく喘いでいたジュナは、いきなり跳ね起きた。化粧の下で頬がみるみる紅潮する。
アウド・ヤールに向かって大きな枕が飛んできた。
「何をするの!無礼な!近寄らないで!
乱暴者!野蛮人!酔っ払い!」
一声ごとに枕元の杯が、水差しが、香水瓶が飛んでくる。
さんざん物を投げつけられて、アウド・ヤールも頭に血が上った。過ごした酒が、一気に回る。
ジュナが振り上げた枕が、いきなり二つに避けた。中に詰められていた大量の白い羽根が、吹雪のように室内に舞い散る。
あっけにとられたジュナは、羽吹雪の中から目の前に突き出された白刃に息を呑んだ。
「無礼・・・だと?」
アウド・ヤールは唸った。
「これが無礼なら、お前の国の仕打ちはなんだ!王女の代わりに奴隷娘を押し付け、しらを切ろうとするこの図々しさはなんだ!」
「何が奴隷娘よ!私は第二王女・・・」
突きつけられた剣先が、ジュナの言葉を封じた。
「我等は金髪碧眼の民」
狼が歯を剥いて唸る様に、アウド・ヤールは続けた。
「金髪の人間以外に市民権はない。あとは全て奴隷だ。それが我々の掟だ。
無論、奴隷と正式な婚姻は出来ぬ」
「そんな事、こちらが知るわけないでしょう!」
ジュナは青くなって叫んだ。
だからこの男は、金髪の姉さまが欲しかったんだ!
ドキドキするほど光る剣の先で、竜族の長は金に染めたジュナの髪をなぶった。
「奴隷が髪を染め、竜族の真似をするのは、死罪に値する」
手首をちょっとひねると、金の髪の一房がぱらりとジュナの膝に落ちた。
「このまま手打ちにされても文句は言えぬ、重い罪なのだ」
ジュナは震える声で言った。
「あなた達の法律が、どうして私達にわかって?髪を好きな色に染めるのは、この国では罪でも何でもない事だわ。
でも、すぐに染め直します。もう、二度としないわ」
いきなり髪をわしづかみにされて、ぐいと引き起こされた。
竜族の長が顔をよせ、ジュナをにらむ。
「染める事も、切る事も、包み隠す事も許さぬ!おまえ達の法によれば、すでにお前は私の妻なのだからな!
だがこの忌々しい金色が消えるまで、そなたの身体には指一本触れぬぞ!この色が落ちるまで、偽りの妻として、我が戦士達の前にシトリアの小賢しい手妻をさらしているがいい!」
血走った青い眼、酒臭い息、圧倒的な存在感。
たてがみのような金の髪を乱し、整った力強い美貌を歪めたアウド・ヤールが、ジュナにのしかかる様にして怒る姿は、すさまじく恐ろしかった。
剣を突きつけられるより、ジュナはその眼が怖かった。身動きすらできずに、ジュナはアウド・ヤールの青い鋼鉄のような眼を覗き込んだまま凍りついた。
だがジュナが泣きも眼をそらしもしないのを知ると、アウド・ヤールは毒づいて、小さな体を再び寝台に突き倒し、足音も荒く出て行った。
竜族は金髪碧眼の民。
一方は女性のみに王位継承権があるのを知らず、一方は金髪以外を認めぬ掟を知らず。
互いの文化に対する無知がひきおこした、悲劇のすれちがいであった。