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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜想曲

作者: 杏藤 輝行

 ピアノを弾く音。


“私は聴かせたい人の為に弾くの”


 夜の校舎。

 ショパンのノクターンが微かに聴こえる。メロディーに乗って明かりが一つ一つ消えていくように思えて、気が付けば真っ暗闇の中。奏でられているピアノの音だけを頼りに歩き続ける。


 音楽室。

 扉の前に立ち止まる。



***



よりは将来ピアニストになりたいの?」


 及川 依は私の恋人だった。


「ピアニスト? 別になりたくないけれど」


 ピアノコンクールで何度も入選・優勝していて、高校卒業後は海外の有名な音大への推薦入学と留学が決まっていた依だったから、むしろ当たり前の質問をしてしまったと思っていたのに思わぬ答えが返ってきた。


「え、じゃあなんのために留学するの?」

「……聞くところ間違ってはいないけれど、気になるのそこ?」


 私が誤魔化すように困った笑みを浮かべると「きちんと答えなさいよ」と睨みを効かせてくる依。


「だって、留学しちゃったら寂しいじゃん。別に理由ないなら行かなくていいんじゃないかなあとか……思ったり」


 素直にそう言うと依は機嫌を良くしたみたいで面白そうに笑う。


「ホント、あんたって私のこと好きだよね」


 依の言葉に私は何度も頷く。

 それから、ふんわりと良い香りが近くなったと思ったら私の頭に手が置かれて撫でられた。

 恥ずかしくて視線は上にあげられずで下を向いていたけれど、口元は嬉しそうに緩んでいたと思う。


「私は聴かせたい人の為に弾くの」

「それって私?」


 「それは誰? とか言わないところ、私好きだよ」と言って依は私にキスをする。


“聴かせたい人の為にって言うのに、万人の人のを虜にして才能が認められているじゃないの”


 私はただのしたたかな女。

 依の前では素直な女の子を演じているだけでおなかの中は真っ黒、愛情と憎悪の間で揺れている。

 依を愛している。だけれど、ピアニストの夢を諦めた私は同時に依の才能が憎かった。

 依が居るから私は要らない、頑張らなくても良いという周りの状況に耐えられず私はピアノ教室を辞めた。


「ところで、さっきの何の曲?」


 唇が離れて、思わず口走ってしまった。


「……本気で言ってる?」


 あきれた様子の依に笑顔を向ける。


 ショパンのノクターン。

 依が現れる前のこと、ピアノ教室の期待を一身に背負って挑んだコンクールで初めて優勝した時の曲だ。忘れたいけれど、忘れられないから反応してしまって、結果とぼけたフリをする。


「依が弾くと全部良く聴こえるし、感動して曲はどうでも良くなるんだよね」

「何それ、あんただってノクターン弾いていたじゃない。あんたが好きな曲だから私だって好きになったのに」


 依の苦しそうな顔。


“私の方が苦しいよ”


 密かに心の中で呟く。私は笑顔を崩さない。


 私がコンクールで優勝した次の年。

 私が通っていた中学校に転校してきて同じピアノ教室に通うことになった依。ピアニストの両親の下で育って将来を期待されていたけれど、ピアノが好きじゃないと言っていた。

 両親や大人たちへの反発からか、高圧的な性格で学校でもピアノ教室でも周りに敵を作って独りぼっちだった。どこかそれが寂しそうに見えたから「一緒に弾いたら楽しいよ」と声を掛けてノクターンを弾いたんだ。私が好きなピアノを好きになってほしかったのと、ちょっとしたお節介。

 ピアノ教室に来てもレッスンを受けようとしなかった依は、私と一緒に弾くようになってから自主的にコンクールに向けて練習に励むようになって、一番上手にノクターンを弾いて私を喜ばせたいと言ってくれたから素直に嬉しかったのを覚えている。

 そして、その年のコンクールで前年の私と同じショパンのノクターンを弾いて優勝した。


“神様は残酷だ”


 コンクール当日。

 依の次に弾くことになった私は舞台袖で出番を待ちながらその演奏を聴いていた。彼女の指先から紡ぎだされる音の一つ一つを誰よりもその身に受けて感じていた。努力ではどうにもならない圧倒的な才能の違いを突き付けられる。涙が出て足が震えた。奏でる音から感じる世界に魅せられて、悔しさと恐怖と強く心を揺さぶる感動が入り混じる。

 だが、そんな天性の才能を持つ彼女を憎むのと同時に愛した。

 演奏が終わり、鳴りやまない拍手と歓声の中、真っ先に私が待つ舞台袖の方へ振り返り向けてきた笑顔がとても輝いていていた。ただただ私に褒めてもらいたいという純粋な気持ちを踏みにじることが出来ず、笑顔を返した。

 プライドなんてちっぽけなものは捨ててしまった。神様にさえ愛される人が愛したのは私だった。劣等感よりも優越感が勝った瞬間だった。


「本当に依って私のこと好きだよね」


 先ほど私に向けられた言葉をそのまま返す。

 そう言うと、顔を真っ赤にして悔しそうな表情を作るから愛いなあって思う。

 本当に素直で純粋なのは依の方。

 子猫みたい。周りには警戒して爪を立てるけれど、私だけ信じて慕って全力で愛情をぶつけてくるのに、自分が親猫のつもりでいる。


「……私は、あんたが弾くノクターンが一番好きだったよ」


 周りの人たちが誰も私を評価しなくなっても、依りだけが私が一番だと言う。

 物心付いた頃からピアノの練習に励んで、周りからやっと評価されて期待を背負えることを誇りに思っていた。それなのに、誰もが私のことなんて初めから気に留めてなかったかのように“去年よりも良かった”と依を評価した。


「じゃあ久々に弾こうかな」


 依の顔が子供の様にぱあっと明るくなって「ホント!?」なんて言って顔を近づけてくるから、チュッと思わずキスをしたら口を押えて真っ赤になってる。さっきは余裕たっぷりな様子で自分からしてきたくせに。


「依が留学する前に心残りがないようにね。ずっと聴きたいって言ってくれてたから」


 ワザとそう言って依の心を揺さぶると、今にも泣きそうな顔で「やっぱり留学辞める」って言いそうだったから、気が付かないフリをして鍵盤をはじく。



***



 音楽室からは廊下にこだまするぐらいの鍵盤の音が鳴り響いている。優しいメロディーが急に荒々しくなって、最後に思い切り鍵盤を叩たいたのか、警報のように鳴り響く不協和音。

 思わずドアに手を掛けて中に入る。それから、こだまする音が静かになるのを待った。


“やっぱり留学やめようかな”


 「やめちゃいなよ」って。あの時のことが頭に浮かぶ。



***


「やっぱり留学やめようかな」


 依はちょっとしたスランプに陥っていた。思い切り鍵盤を叩いて不協和音を鳴り響かせて、ハッとしたような顔をしたかと思えば頭を抱えてうなだれる。


「やめちゃいなよ」


 私がそう言うと「簡単に言いやがって」とでも言いたげに恨めしそうな視線だけ送ってくる。


「現実問題色々あるだろうけれど、私は本気で思っているよ」


 そう言葉を続けると嬉しそうな顔をする依だったが、やっぱり悩まし気な表情を浮かべる。

 私はそれが不満だった。留学するって決めているのに。私の前から居なくなっちゃうくせにって。


「ねえ、依は私のどこが好きなの?」


 依は驚いたような顔をして、今度は「なんで今?」とでも言いたげだったが、私が真剣に聞いていることを感じたのか恥ずかしそうに「ピアノを好きにさせてくれて……優しくて……好きかな?」なんて言ってくる。


「そっか」


 そう言葉が漏れたから、依は不満げな表情を浮かべる。

 私は知っている。依はずっと独りぼっちだったから、手を差し伸べた私に疑似的な恋愛感情を持ってしまっただけなんだって。そして、彼女自身もそれに気が付いているが気付かないフリをしていることを。


「じゃあ、あんたはどうなの?」


 依の不満げな表情が一変、期待に満ちた瞳がキラキラしている。綺麗だと思った。


「……才能があるところかな」


 私だけ愛しているなんて悲しすぎるでしょ? ワザと酷いことを言った。

 けれども、依の酷く傷ついた表情にが目に入ったから、もしかしたら本当に愛してくれていた? なんて思うと酷い事を言った甲斐もあったかななんて思ってしまう。


「私って才能だけなの?」


 涙をためて悲しそうな顔。

 私のことを一切疑わないで全力で愛してくれる素直さが好き。

 色素の薄い栗色のフワフワした髪の毛も大好き。

 我慢しているつもりなんだろうけれど、感情が全部顔に出ちゃうところが正直で好き……あげたらキリがなかったけれど、グッと飲みこんだ。


「そうじゃないけれど、せっかく才能あるのに留学やめちゃったらもったいないよ」


 私がそう言うなり「やめちゃいなよって言ったくせに!!」と怒って、音楽室を飛び出していってしまった。


“依が居なくなったら私の存在価値って何なんだろう?”


 依が座っていたところに腰を下ろして、ピアノと向き合う。

 鍵盤に手を置いて、弾かずに止めて手を卸す。


“私こそ依を利用しているんだ”


 依がコンクールで優勝した日、依から告白された。

 演奏も散々で、先生に怒られて周りからも期待外れの烙印を押されたから憔悴している時だった。

 こんな私を、才能があって皆から期待されている依が好きだと言う。それだけが私の唯一の生きる意味になったと思う。

 色々愛する理由を並べたけれど、一番は私を愛してくれたからで、もう私を愛していないとしたら?

 鍵盤と鍵盤の境目が分からなくなるまで見つめて、もう涙すら出ないことに気が付いた。

 立ち上がり彼女を追う。


***


 寂しげに佇んでいるピアノの元へ行き、向き合い座る。

 鍵盤に手を置いて、弾かずに止めて手を卸す。


“私たち別れた方がいいのかもね”


 色々な事を思い出しながらもう一度鍵盤に手を置いて演奏を始める。


***


 依が留学したいはずなのに煮え切らないから……依のためを思って……なんて色々言って言いくるめて私たちは仲直りした。もう「留学しない」なんて言わないって約束もついでに取り付けていた。だから、さっきまた言いそうになってたから鍵盤を弾いたけれど、やっぱりそれから指先が動かない。私は聴かせたい人の為にすら弾けなくなってしまったようだ。


「依、久し振りに一緒に弾かない?」


 依も私の異変に気が付いている様子だったが、私の提案で気が逸れたみたいで、笑顔で頷き隣に座る。

 

「何だか昔と逆になっちゃったね」


 昔は私に合わせて弾いていた依だったけれど、今は私が依に合わせて指を動かす。


「私は聴かせたい人の為に弾くのって……昔はあんたが言ってたのにね。その人の為に弾いてみたらって」


 誰かの為に強制されるなんて嫌だ。ピアノなんか嫌いだ弾きたくないって言っている依に、言ってたな。今は依が良く言っているけれど。


「なんであんた……亜乃あのはピアノやめちゃったの?」

「うーん……聴かせたい人が居なくなったからかな」


 私のピアノを聴いて、私の大好きなピアノを好きになってくれる人が居ればなんて幼い頃は思っていた。だからピアノ嫌いだった依が好きになってくれた時は嬉しかったな、と思い出す。


「私の聴かせたい相手は亜乃っだったけれど、亜乃は違ったんだね」

「昔はそうだったよ」


 だって依にはもう私が要らないんだもの。依だけじゃなく、私は必要とされていないから。


「私たち別れた方がいいのかもね」


 依の言葉が刃物のように鋭くなって心臓を刺す痛みを感じたが、平常を装って「そうだね」と言う。


「そっか……留学も、私の為って言って亜乃が私から離れたいからでしょ? やめちゃえばとか言って真剣に引き留めてくれないし……」


 依の言葉の端々から怒りや恨みの様なものを感じる。これが愛ゆえであれば幸せなことはない。

 「それは依の方でしょ」と言いたかったが、私を愛していないと気が付いて欲しくなかったから、私を強く愛していたのにと、思っているままでいて欲しかったから「ごめんね」と謝って、彼女の言い分を肯定する。


「そう……ごめんね、今まで付き合わせて」


 静かに立ち上がった依は、音楽室から出ていく。怒りもしなかったから呆れているのか、彼女も心のどこかで安心しているのかもしれない。この前みたいに追いかけたら引き留められるかもしれないけれど、彼女が後悔することは目に見えている。一応恨んでいるんだから後悔させれば良いじゃないと思って、独り笑う。

 鍵盤を弾く、独りで誰の為でもなければ指先がキチンと動いた。やっぱりピアノを弾くことは楽しい、けれども、依みたいに絶対的なものもなく、何も特徴がないこんな陳腐な音しか奏でられないことに嫌気が差して、思い切り鍵盤を叩いて不協和音を鳴り響かせる。


“依……どこにも行かないでよ”


 私の為だけに弾いてって言ったら良かったの? それとも愛は持たず、憎んだら良かったの?



***

 


 周りの人たちは、私の両親が有名なピアニストだから、そのコネとかが欲しくて私を持て囃すけれど、ダイナミックな私の演奏表現は乱暴だと両親は評価しない。対して亜乃の演奏は指先が流れる川のように滑らかに動き、そこから作られる優しい音が美しかった。


 亜乃が私に劣等感を持っているような感じは薄々気が付いていた。だから純粋な彼女の心を利用して、私が上の立場だと思わせて縛り付けてしまった。独占欲に近かったと思う。情報操作されたような偽りの天才の私を、本当に美しい才能を持つ亜乃が愛してくれているという優越感があった。


 私も、私の演奏も、心から愛してくれるのは亜乃だけだった。だから彼女の愛に甘えて沢山傷付けて、それでも一緒に居てくれることに愛を感じて安心していたが、彼女が私たちの愛に薄々疑問を持っていることに気が付いて「別れよう」なんて心にもないことを言って心を揺さぶった。


 きっと亜乃は最終的には「別れないでほしい」と言ってくれると思っていた。私から離れることはないだろうと信じて疑わなかったが、演奏中も聴こえる、規則正しくぴちゃっ……ぴちゃっ……と床へ落ちる雫の音。先ほどまで生きていた彼女の死の音が、それが間違いであるかのように主張する。


 音楽室の扉を開けてすぐ目に飛び込んだのは首を吊ってぶら下がっている、変わり果てた亜乃の姿だった。優しかった笑顔の面影はなく、暫く暴れていたがやがて静かになった。

 すぐに助けたら間に合ったのかもしれないけれど、もし彼女が助かってしまったら、いずれ愛への疑問が確信になって私から離れていってしまうことは分かっていたから、愛していると思ったままでいてほしかった。私は亜乃を見殺しにした。


 夜の校舎に鳴り響くノクターンは寂しげだった。もう誰も聴いてくれることがないから。

 真っ暗闇が瑠璃色に変わるころ、静かに演奏会は終演。

 早朝、音楽室で二人の少女の遺体が発見される。

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