最終話
ミッドナイト・サンがカーテンの隙間から顔を照らしたので、柄にもなくヨシコは真夜中に眼が覚めた。ビルはすぐ横で深い眠りについていた。ビルのせいね、もう、とこぼしながらベッドから出て窓辺に向かう。カーテンをしっかりと閉め、サイドテーブルの水差しからグラスに水を注いで口に運んだ。
その時、廊下で音がした。正確にはジェフの部屋の方角からだった。マーサかしら、と首を傾げる。デメイルがバスルームに向かったのかもしれないとも思ったが、バスルームより先にあるジェフの部屋に迷い込んだとしたら連れ戻さなければならない。
ヨシコは廊下に出てジェフの部屋に歩を進めた。リビングにいたマーサがヨシコの足元に駆け寄ってきた。
「あらマーサ、ここにいたの」
ヨシコの顔を見上げたかと思うと、マーサは廊下の奥へと進んだ。ヨシコがマーサの姿を目で追うと、マーサはジェフの部屋の前でフッと消えた。部屋のドアが開いていた。
「だめよマーサ、ジェフは寝てるの。戻ってらっしゃい。」
ヨシコが小さな声で呼びかける。するとマーサはヨタヨタとした足取りで部屋から出てくると、まるで電池が切れた玩具のように床に転がった。ヨシコが驚いて眼を見張ると、マーサの額が夜の暗がりの中でぼんやりと緑色に光っていた。
寝室に戻ってビルを呼ぼうか一瞬迷ったが、気を取り直してヨシコはジェフの部屋に近づいた。廊下に転がっているマーサはだらしなく涎を垂らしていたが、ぐっすりと寝込んでいるらしくヨシコが揺さぶっても目を覚まさなかった。
ジェフの部屋のドアはちょうどマーサが通れるぐらいにしか開いていなかったが、その隙間からヨシコが覗き込むと、ベッドの横に立つ人影が見えた。三つ編みを解き、ローブを羽織ったデメイルだった。彼女はジェフを静かに抱き上げた。ジェフは腹を抱えて苦しそうに呻いていた。発作だわ、早く薬を飲ませないと、とヨシコが部屋に入ろうとした瞬間、見慣れない緑色の光が室内を満たした。眼が眩んだヨシコはしばらくまばたきを繰り返した。再び部屋をのぞき見た彼女の眼に入ったのは、まばゆいばかりの光を帯びたデメイルの右手と、それを臍の上に押し当てられたとたんに同じく緑色の光を放ち始めたジェフの身体だった。思わず口を手で覆うヨシコにデメイルは気づく様子もなく、ジェフの身体をじっと見つめていた。緑の光に照らされた彼女の顔は地球の博物館で以前見かけた大理石の彫像のようだった。ヨシコの眼には、デメイルが穏やかに微笑んでいるように見えた。そう、あの時のマリア像とそっくりだわ。ヨシコは床にへたり込みそうになった。
ふいにヨシコは後ろから肩をつかまれ、心臓が止まりそうになった。振り向くとビルが彼女を支えるように立ち、その足元には目を覚ましたらしいマーサがいた。
「あ、あなた、あれ」
「ああ。」
言葉にならない言葉を交わしていると、デメイルの手から光が音もなく消え、ジェフの身体も発光を止めた。夜闇に沈む部屋ではジェフの様子は全く分からなかった。
ジェフの部屋のドアがゆっくり開いた。身を固くしたヨシコだが、後ろにいたビルが手で押したのだとすぐに気づいた。二人の眼に飛び込んできたのは、カーテンが開いた窓の下でミッドナイト・サンに照らされたジェフと、それを抱きかかえるデメイルの姿だった。ジェフは目を覚ましたらしく、デメイルの髪を小さな手で触りながら嬉しそうな笑い声をあげた。発作は収まっているようだった。それどころか、なぜ今までベッドに寝かされていたのかがひと目見ただけでは分からないくらいの輝くような笑顔をみせていた。
デメイルは二人とマーサの姿をみとめると、無言のままジェフをゆっくりと床に下ろし、ジェフに向かって二人を指さした。ジェフはあどけなく笑い、おぼつかない足取りで両親のもとへと歩み寄った。マーサが慌ててジェフに走り寄った。ジェフはマーサの首の毛をしっかりつかんでまた笑った。
ヨシコの眼に涙が溢れだした。ジェフの名を何度も呼び、強く胸に抱きしめた。ジェフの頬は血と脂肪でむっちりと膨れ、花びらのような唇が生気を得てしなやかに揺れた。
ビルと眼が合ったデメイルはベッドの横に置かれたタブレットに音もなく触れた。タブレットの画面が一瞬暗くなったが、すぐに点灯した。画面はヘリオンズのトップページに切り替わっていた。デメイルはビルにタブレットの画面を指ししめすと穏やかに微笑んだ。ああ、とビルが応じようとした瞬間、デメイルの姿が音もなく消えた。ミッドナイト・サンの青白い光が床を照らしていたが、デメイルがいなくなった部屋は先ほどより闇が濃く見えた。
ジェフを寝かしつけたヨシコがリビングに現れ、水の入ったマグカップをビルから受け取った。
「さっきメディカルベッドで簡易検査してみたけど、もう病気ではありません、って言われたわ。」
狐につままれたような顔でヨシコがつぶやく。ビルは先ほどからタブレットの画面を睨みつづけていたが、やがて首を横に振り、天井を見上げた。
「なぜだ、全く分からん…」
「どうしたの、故障?」
「いや、違うんだ。ヘリオンズの解析データプログラムが、あり得ないぐらいに高精度になっているんだよ。」
タブレットの画面を見せられたヨシコだったが、しばらくして息を飲んだ。
「これ、どういうこと…今までまともに合わなかった太陽齢が解析てるじゃないの。ちゃんと他の惑星の暦とも合ってるなんて」
ビルが額に手を当てる。
「さっそくこの修正バージョンをみんなに知らせよう…でも、信じてくれるかな。データ解析なんて全くの門外漢な農家のタブレットから突然こんな代物が飛び出してくるなんて。」
頭を振るビルにヨシコがもたれかかる。
「ねえ、あのデメイルさんって、女神だったのかしら。」
ビルがヨシコの顔を覗きこむ。
「俺よりもドライな君の口からそんな言葉が出てくるなんてな…そうか、もしかしたら」
何か思いついたように口をあんぐりと開けるビルの横にヨシコは座りなおした。
「もしかして、FIの出くわしたエレウシアンって…」
ヨシコが感電したように小さく体を震わせた。
「…でも、そうかも知れないわね。もしかしたら」
「エレウシアンの中には惑星そのものと意識体をシンクロさせることが出来る『人』もいたらしいって聞いたことがあるよ。その時は冗談としか思えなかったけど…それじゃ地縛霊みたいだ、って言い返したっけ」
ヨシコがしみじみと呟く。
「そう…もしその『人』が惑星なら、私達を気に入ってくれた、ってことなのかしらね。」
「そうだな、もしそうだったら嬉しい限りだ。」ビルはヨシコの肩を抱き寄せた。
「私達も何か出来ないかしら…デメイルさん、娘さんを探しているって」
「ペルシー、だったな。」ビルはマグカップをテーブルに置いた。
「今度、惑星中央資料センターに行ったときに調べてみようか。親父が来るのは来月の一三日だったよな、ギャロポートまで足を延ばすんだったらちょうどいいじゃないか。」
「そうね、ジェフを病院に預けなくてもよくなったんだし、あの子たちにテックスの街はまだ早いわよね。教会か、それかボッティさん家に預かってもらいましょうか。」
「そりゃいいな。」ビルはうなずいたが、すぐに苦笑いして首を振った。
「でもなぁ、クラウディオにうちの子を全員預けたら、返してもらう時に犬の一匹ぐらい付けてきそうだぜ。」
ヨシコが笑った。ミッドナイト・サンがリビングの窓から差し込み、テーブルの上のグラスを照らした。
(了)