第一話
夕焼けに染まる空に教会の鐘の柔らかい音が響き、男は顔を上げた。
「ヨシコ、おおいヨシコ。」
「はあい、ここよ。」
ウマゴヤシの積み上げられた山の陰から女が顔を出した。
「クラウディオさんがリンゴのジュースを下さったわよ。今年の初物ですって。」
ガロンボトルを抱えたヨシコを見て、男が少々困った顔をする。
「トラクターまで貸してくれた上におすそ分けまでくれたか。さすがボッティ家、親父さんの顔が浮かぶようだぜ。」
「そうね…あのお父さんも地球で療養せずに、この星に骨を埋めるつもりでいてたらもう少し長生きできたかもね。」
ヨシコは昼食の入っていたランチボックスからマグカップを取り出し、男に渡した。
「でも、奥さんがどうしてもって言い張ったんだろ。故郷はこの星じゃなくて地球だっていう気持ちは、なぁ…こればっかりは、ひと様の人生だからな。」
リンゴジュースを口に含み、味を確かめる夫の顔は真剣だったが、飲み終わると満足げに頷いた。クラウディオ、やるじゃないか、と独り言をつぶやく夫に妻が、もう一杯どう、と聞こうとしたときだった。
「あれ…ねえビル、あの畦にいる人、この町の住人かしら。」
ビルが振り向いて手を額にかざし、ヨシコが指さす先を見やる。ビルの畑を区切る畦の上に座り込んでいるのはどうやら女のようだった。跪き、両手を広げて夕陽を仰ぎ見ては手を胸の前で組む仕草を何度か繰り返していたが、やがて力なく地面に突っ伏し、しばらく動かなくなった。顔は見えなかったが背中が小さく震えているのを見て、あの人、泣いてるのかしらね、とヨシコが低い声でビルにささやいた。
「お前は先に帰っていなさい。ランチボックスは重いかもしれないが、持って帰れるよね?」
「え、ええ…ねえ、もしかしてあなた、あの人を」
「エレクトラまで送り届けてくるよ。いくらミッドナイト・サンの季節といっても夜は冷えるし、それに、あそこの保安官はお人好しだから」
「もう、あなたも人のことは言えませんよ。隣町まで往復したら帰りは真夜中になっちゃうじゃないの。」
ヨシコは困り顔でビルに言ったが、既に彼は女のもとへと歩きだしていた。
女は顔を上げたが、まだぼんやりと座り込んでいた。ビルが遠くから手を大きく振るとそれに気付き、地面に投げ出していた荷物を拾って立ち上り、ビルに軽く会釈してその場を離れようとした。おおい、お困りかね、とビルが呼びかけても振り向きもせず農道へと歩みを進めていったが、ひどく疲れているのが遠目でも分かるぐらい頼りない足どりだった。数歩も行かないうちに道のくぼみに足をとられてよろめき、力なく倒れ込んだ女の姿が眼に入り、思わずヨシコはマグカップとジュースのボトルを持ってビルに向かって走り出した。
トラックの荷台に積まれた乾草の上にヨシコの上着を広げて女を寝かせ、昼食の残りのバゲットを与えると女の眼に少しずつ光が戻った。
「この辺りじゃ商店も無いし、近所は冬に備えて引っ越してるからねぇ、仕方ないですよ。」
ヨシコは女にリンゴジュースをすすめながら言った。女の外套は風がふくと破れ目から埃がたち、古めかしいブーツには踝に空いた穴を粗末な樹脂で埋めた跡があった。齢は四五歳ぐらいだろうか、この季節の陽に相当あぶられているのが衣服の傷み具合から察せられたが、生粋の地球人にしては年齢の割に肌がつややかで白かった。
「今年の春は良かったんだけどなぁ、それでも蓄えが足りなければ他の星に出稼ぎに行くしかないよ。我が家がずっとここにいられるのもひとえに幸運に救われてきたようなもんだし。」
他の星、という言葉を聞いて女は顔を上げた。
「あの、この星の空港はここからどれくらいのところにありますか。」
「空港はねえ、えっと…あ、もちろんギャロポート(宇宙港)だよね?うん、ネレッドソンならこのトラックで走って十日、かな。」
女の眼に落胆の色が浮かび、それを見たヨシコが慌てて女に話しかける。
「あなた、この人が農場用の軽飛行機に乗るわけないじゃないの。それにギャロポートはネレッドソンよりTEXのほうが近いはずよ。」
ヨシコがわざとらしい笑顔で女に言う。
「今日が木曜日でしょ、明後日にはブラックハウンドのバスがグレンキースの町に来るから、それに乗ればテックスまで行けますよ。今は出国ラッシュの時期だからチケットは取りにくいけど、ギャロポートの周辺にはホテルも多いし、」
ヨシコの言葉に、女は血の気の失せた顔で曖昧にうなずくだけだった。外套が覆っていない首筋は汗と砂塵で茶色く染まっていた。
ポケットからビーフジャーキーを取り出して齧っていたビルが女の前に立った。
「どうだろう、よかったら家に泊まりにくるかね。」
女が顔を上げる。陽に灼けて傷んだ亜麻色の髪が揺れた。
「…あの、でも、ご迷惑ではありませんか。」
か細い声でおずおずと言いながら肩から提げたバッグの口を開ける女を見たヨシコが大声で笑った。
「そんな、お代なんて結構ですよ。ええ、ホテルのようなおもてなしは出来ませんし、犬や馬と一緒に寝起きしてもらわなきゃだめですけど、それでよければ…ふふ、精のつくものなら色々ご用意しますから、ゆっくり体を休めてくださいな。」
その言葉にようやく女の表情が緩んだ。眼元には依然として疲労の濃い影が浮かんでいたが、不思議と貧相な印象がしない顔立ちだった。
「じゃあ、すまんがこのまま荷台におって下さいな。ヨシコ、お前もな。」
「ええ、いいわよ…そうだ、お名前を聞いてなかったわね。どうお呼びすればいいのかしら。」
「私…デメイル。デメイルとお呼び下さい。」
「デメイルさんか。改めまして、ヴィルヘルム・ホジキンソンです。こっちは妻のヨシコ。ご覧のとおり、農場をやってます。」
「夫も私も都会暮らしとは無縁の田舎もんだから、気の利いたおもてなしは出来ないけど」
「いいえ、そんな…都会の人間だって農場で出来た物をいただいて生きているのですし、わがままなんて言えるわけはありませんから」
慌ててかぶりをふるデメイルにヨシコは微笑み、タオルをそっと差し出した。