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☆☆☆☆――4
八月五日を終えた俺はまた時を一日逆行し、五日の時点で昨日だったはずの八月四日が、今日となっていた。
今日は俺と莉奈が付き合い始めて四日目。俺たちが恋人同士として初めてデートをする日である。いや、『デートをした日』と言う方が正しいか。
場所は都内にある水族館。だから、待ち合わせ場所も今回は水族館の最寄りの駅前だ。
「……あ、綾人くん」
待ち合わせ時間の十分前。先に着いていた俺のところに、自分の名前を呼ぶショートボブの小さな女の子がこちらへやってきた。
「ごめん、待った? 待ち合わせ時間より早く着くつもりだったんだけど」
「ううん、莉奈はちゃんと早く着いてるよ。俺がそれよりもっと早かっただけ」
ざっと、一時間くらい前にな。
「そうなの? なんだ、私が遅刻したわけじゃないんだ」
「そういうこと。まあここで立ち話もなんだし、早速行こっか」
言って、俺は歩き出そうとした……のだが――自分の失態にすぐに気が付いた。
それは、莉奈の服装だ。よく見ると、いつも大学では着てこないような割と派手目のコーディネートで、明らかに俺との初デートを意識してくれていた。それなのに、俺はそのことに一切触れずデート場所に行こうとしてしまったのだ。
ま、まずい。八月六日の時は怒った『ふり』だったからよかったが、莉奈は一度本気で機嫌をそこねると、それが小さなことでもなかなか根に持つところがある。つまりこの後のデートへの影響大ということだ。
「あ、あのさ、今日の服、似合ってるね」
一応褒めては見たものの、しかしタイミングとしてはかなり遅かった。あー、終わったか……。
と、思われたのだが。
「えっ!? あ、うんありがとう。今日のために全身買い揃えたんだ」
俺の言葉に、莉奈はへそを曲げるどころか、逆に少し嬉しそうにも見えた。というか、反応自体どこかよそよそしくて……っ!
そうか、そうだった。
俺と莉奈は、この初デートをきっかけに関係が親密になったんだ。
本来ならこの日は――『一回目の八月四日』は、俺もどこか莉奈との距離を測りかねてお互いにそわそわした感じだった。だから、むしろこの場でおかしいのは莉奈ではなく俺自身の方で……。
今莉奈の目の前にいる俺は、『二回目の八月四日』の俺なんだ。恋人との接し方がいまいち分からなくて不安でいっぱいで、だけど楽しみで仕方がなかった『一回目の八月四日』の俺は。
――『彼』はもう、この日莉奈とデートをすることは、ない。
その場に起きている未来と過去の小さな、けれどもズシンと重たい差異を静かに受け止めた俺は、ふうと息を一つ吐いてから莉奈の足元を見て、
「莉奈、今日も高いヒールの靴履いてきたんだな?」
そう言うと、莉奈はとたんにかあっとトマトのように顔を真っ赤にさせた。
「も、もう! 身長に関連する話題は今度から避けてよ!」
「はいはい了解。まったく、可愛いな本当」
「か、可愛い……っ!」
すると、今度は両手を頬につけてトマトを継続。もっとも、今回のトマトは甘みたっぷりという感じのものであったが。
俺は莉奈の行動に愛らしさを覚えながら、その後俺たちは水族館に向かって歩き始めた。
「あはは! 楽しいね、綾人くん」
「そうだな!」
笑顔でそう話しながら、俺と莉奈はお互いの腕を組ませ合って屋外を歩く。真夏の炎天下でのカップル腕組みは、正直肘の関節部分が蒸れて若干の暑苦しさもあったが……あ、愛に障害はつきものさ。俺と莉奈は汗だくになりながらも、お互いの腕を離そうとはしなかった。
水族館を一通りぐるっと回ったことで、恋人としての距離感を確立した俺たちは、今度は併設されている遊園地エリアに来ていた。
まあ、水族館がメインのテーマパークだから、所々にならではの工夫が施されているものの、やはりどこかの『ネズミの国』ほどアトラクションにスケールはなかった。しかしそれでも莉奈と一緒にいると、そこにある全てが夢の国の産物のようにキラキラと光って見えて、抜群に楽しくて。
そうして俺たちは、莉奈にとっては輝かしい『今』を、俺にとっては『過去』を過ごし。
「あー、でももう五時か。そろそろ帰らなきゃ」
莉奈は腕時計の時刻を確認すると、心底残念そうに言った。
八月ということで、この時間帯でも太陽は未だ元気な様子で俺たちを上から照らしていたが、ここから莉奈のアパートまでは約二時間ほどかかる。ここらでの帰宅が頃合いだろう。
「じゃあ、最後にあれに乗らないか?」
俺が指を差したその先には、一つ一つのゴンドラがそれぞれ違った海の生物の形を模しているカラフルな観覧車の姿。
見たところそこまでお客も並んでないようだし、すぐに乗って帰れるだろう。
「うん! 乗ろう!」
一転してぱあっと表情を明るくした莉奈からの了承ももらったところで、早速俺たちは観覧車の列に並んだ。
「わー、すごい!」
やがて俺たちはタコ型の真ん丸なゴンドラに乗り込み三分少々、莉奈の視線は外の景色に釘付けとなっていた。
「意外と早くこんなに高いところまで行くんだね。久しぶりだったから忘れてたよこの感覚」
「本当だよな。俺も久々だったからびっくりした」
少し興奮気味に話す莉奈に、実際はそこまでの感動はなかったものの、莉奈の言葉に合わせて俺は返答した。
正直、俺は今景色に対して嫉妬のような感情を抱いている。せっかく向かい合って座ってるのに、莉奈ったら全然こっちを見てくれないんだもんさ。話題も景色に関してのことしか話してくれないし。
俺としては、もっと二人の仲のことを話したいのに。二人の……。
…………。
「なあ、莉奈」
「うん? 何?」
すこしトーンが下がった俺の声に何かを感じたのか、莉奈は体ごと景色から俺の方に向きを変えてくれた。
その行為に微量の嬉しさを感じつつ、俺は一度小さく呼吸を入れてから、その話を切り出した。
「莉奈はさ、もし……もし俺と離ればなれになっちゃう事情があっても、ずっと一緒にいたいと思う?」
「――えっ!」
俺の言葉を聞いた瞬間、莉奈の表情は驚愕一色に染まりきった。まだ話していないアメリカへの留学のことを知られたのかと思って、ある種の恐怖を感じたのだろうか。
だが、俺は構わずに話を続ける。
「俺はさ、莉奈と離れるの、嫌だよ。せっかくこうやって恋人同士になれたのに、すぐに彼女が自分のところから遠くに行っちゃうってことが、考えられないんだ」
「……そ、そう」
明らかに反応に困った様子の莉奈。
ゴンドラ内の空気は、一分前とは比べものにならない程圧迫感のあるものに姿を変えていた。
「……ごめん、変なこと言って。『重い』って思った?」
「ううん、全然そんなことないよ。偶然……なんだけど、私も最近同じようなこと考えてたの。もちろん、私だってそう思うんだよ、本当に」
しかし、ここから莉奈は「だけどね」と続けると、
「今日こうして綾人くんとデートしたりした思い出とかは、離れていてもずっと残って私たちを繋いでるって思うし、『想い』っていうのは距離なんて関係ないんじゃないのかな……とも、思うんだよね。綾人くんを好きになって、そう思うようにもなったんだ、うん」
「……そっか」
それを最後に、俺たちはそれから一度も観覧車の中で会話をすることはなかった。
……そっか、莉奈はそうなのか――でも俺は、それだけじゃ。
莉奈と違って、その考えだけじゃ耐えられないんだよ、俺は。
観覧車を降りてからすぐ、俺たちは遊園地エリアを出て水族館を後にした。お互いに今日という日をここで終えるのが名残惜しく、行きの時よりも大幅に速度を遅めて歩いていたが、それでも数分しか違いはなく、あっという間に駅の前へとたどり着いてしまった。
「ありがとう、今日は楽しかったよ!」
改札を入ってホームの分岐点まで来ると、莉奈はこちらに満面の笑顔を見せてそう言った。
「家まで送ろうか?」
「ううん、大丈夫。まだそんなに遅くもないし」
莉奈のアパートと俺の家はそれぞれ路線の両端の駅にあるため、莉奈を安全にアパートまで送り届けるという行為がなければ、ここで今日はお別れとなる。
「分かった、気を付けてな」
「うん。バイバイ、綾人くん」
莉奈が笑みを崩すことなく、俺に手を振りながらホームへと階段を上っていく。そんな彼女を下で見守りながら、次第に考えが『今日』から次の『昨日』のことへと移行し始めていた――その時だった。
カンカンカンカンカンカンカンカン――
駅の近くにある踏切が、警報音を鳴らし始めたのだ。そう、それだけ。
それだけの――はずなのに。
「……えっ?」
あと一段でホームに上がろうとしていた莉奈が、右手首に感じた違和感に振り向き、小さく驚きの声を発した。
当然だ。先ほどまで階段下にいたはずの俺が、猛烈な勢いで階段を上昇し、莉奈の手首を掴んでいたのだから。
「ど、どうしたの綾人くん?」
「……思い……出した」
「え?」
話したところで理解してもらえないことを分かっていながら、俺は訴えるように言った。
「思い出したんだよ、今日から三日後――俺のタイムワープが始まった八月七日に、何があったかを!」
「ちょ、ちょっと……急にどうしちゃったの? 綾人くん、何だか恐いよ」
「いいから、とりあえず俺から離れないでくれ。できれば今日から三日間は――」
「い、痛い。痛いって」
「――っ!」
莉奈の苦悶の声を聞いて僅かながらに我を取り戻した俺は、いつのまにか全力で握ってしまっていた左手をゆっくりと離した。
「ご、ごめん」
俯く俺に対し、莉奈が左手で右手首を何度かさすった後に心配そうな眼差しを向けたのを、俺は視界の端でとらえた。
「別に今のはいいんだけど、ただ……大丈夫? 顔色も真っ青だけど……一体何があったの?」
「ごめん……本当に、ごめんっ!」
それを告げてすぐ、俺は登り同様の勢いで階段を駆け下り、駅員に「やっぱり乗りません」と切符を叩きつけて改札を出た。
「ちょっと、お客様?」「綾人くん!」という二つの声が後方からほぼ同時に聞こえたが、俺は一切振り返ることなく、どこへ向かうとも分からない公道をただ一直線に走り続けた。
何も見ず、何も感じず、ただ一心不乱に。
「ぐ……あ……あああ!」
にもかかわらず、思い出した『記憶』は何度も何度も疾走する俺の頭をかすめてきた。
莉奈に怒鳴り散らす俺、アパートを飛び出す俺、そして――テレビの前に、ただ呆然と立ち尽くす、俺。
「アアアアアアアアア! 思い出したッ! 全部、全部全部全部ッ!」
今抱いている感情の全てを声に出さなければ、胸が破裂してしまいそうなくらいに。
それ程に、保っていられない悲劇が、そこにあった。
「俺は――莉奈と出会っちゃいけなかったんだっ!」