プロローグ
「痛やぁ……! 痛やぁ……!」
のっぺりと濃い灰色の夜空に、赤い月を頂いている……不可思議な空間で、苦痛を叫ぶ者がいる。
その者は、あまりに不可思議な様子だった。
人型には違いない。
四肢はある。
頭部もある。
しかし、人間ではなかった。
四肢は、皮膚がないのか、真っ赤な筋肉が露出していた。
しかも、なまなかな筋肉ではない。
人一人くらい、三秒で撲殺できそうな、太く逞しい筋肉だ。
頭部もまた、普通ではなかった。
額からは二本の角が伸びており、口からは牙が飛び出していた。
顔は、これまた皮膚がないのか……真っ赤な筋肉を露出していて、髪は櫛を通した様子もなく、ボサボサの体を要していた。
――赤鬼。
二本の角。
膨れ上がった筋肉。
鋭い牙に真っ赤な全身。
その者は、赤鬼と呼ぶにふさわしい姿だった。
「痛やぁ……! 痛やぁ……!」
赤鬼は、苦痛を漏らしながら、赤い月を背負い、流れる血をそのままに、歩を進める。
周りはコンクリートジャングル。
しかして人の気配はなく、街灯もついておらず、車も走っていない。
静寂の空間に、赤い月だけが、全てを見下ろしている。
見れば赤鬼の体には、釘が刺さっていた。
それも一本ではない。
少なく見積もっても、十本以上の釘が刺さっていた。
ほとんど鉄壁にも見える赤鬼の肉体に、易々と刺さっている釘は不気味だ。
その釘の一本を引き抜く赤鬼。
――チリン。
音をたてて抜かれた釘が、アスファルトに転がる。
その釘は十寸……三十センチはありそうな、太く長い釘だった。
仮想聖釘。
それは、そう呼ばれる破魔の釘だ。
それを十本以上、体に刺したまま……その釘の刺さった場所から血を垂れ流しながら、赤鬼は、ずるずると、体勢も弱く一歩一歩と恐怖から逃げる。
そう。
逃げる。
逃げている。
人を食らい、撲殺できそうな赤鬼は、逃げていた。
「なんであんな奴がここにいるんだよぅ……」
そんな不条理を口にしながら赤鬼は逃げる。
血だらけの体を引きずって。
と、
「我は神威の代行……」
――ポツリ。
そんな声が聞こえた。
少女らしい高い声だ。
その声に、ビクリと震える赤鬼。
「我は神罰の代行……」
声は言葉を紡ぐ。
「我は神権の代行……」
そして赤い月と濃い灰色の夜空が支配する異空間に、一人のシスターが現れる。
金髪のショートに、碧眼を持つ、外人のシスター。
着ている服は黒に限りなく近いオックスフォードグレーの修道服。
しかし頭部に、ベールはない。
「我はクリスティナ……クリスティナ=アン=カイザーガットマン。主の代行にして敬虔なる使徒である。我が責務は迷える子羊を主の威光にひれ伏させることにあり。即ち正教を肯定し、異教を否定する者なり」
そして唐突に現れたシスター……クリスティナは、これまた唐突に両手の指の間に、八本の仮想聖釘を具現化する。
神の奇跡。
そを具現化する威力使徒。
それがクリスティナの正体だった。
「ふっ!」
呼気一つ。
クリスティナの右手が霞むとともに、右手に握られていた四本の仮想聖釘が、音速を超えて、赤鬼へと襲い掛かる。
そして仮想聖釘は、逃げる赤鬼の背中に、四本とも突き刺さった。
「ぎああああああっ!」
赤鬼が、苦痛にあえいだ。
さらにクリスティナが、左手の四本の仮想聖釘を、赤鬼に向かって投げようとして、
「っ!」
ピタリ、と止まった。
クリスティナの視線の先、赤鬼の逃げる前方に、人影を見たからだ。
その人間は、おかしな雰囲気を持つ浮浪者だった。
年は高校生くらいか。
髪は黒のショートだが、赤鬼と同じく櫛を通していないのか……毬栗のようにボサボサだ。
目に生気はなく、日本人としては色白の皮膚を持っている。
口元には羅宇煙管。
キセルの先の火皿には刻みタバコが詰めてあり、火がついているのだろう……煙がゆらゆらと立ち上っていた。
着ている服は、これまた妙だった。
白のワイシャツに黒いスーツのボトムス、黒いネクタイという西洋の喪服の上に……真っ赤な羽織を着ている。
曼珠沙華の意匠をあしらった紅の羽織だ。
一目見たその印象は「世捨て人にして遊び人」といった風情だ。
そして異形である赤鬼が見えていないのか……カランコロンと下駄を鳴らして赤鬼の方へと近づいてくる。
「はっはあっ!」
鬼は、喜悦の声をあげて、喪服に紅の羽織をきた少年を捕まえ、その手の鋭い爪を少年の首に当てる。
そしてクリスティナに叫んだ。
「神威装置の威力使徒っ! こいつを殺されたくなかったら大人しくしろ!」
少年はというと、
「……おや?」
と、状況をわかっているのかいないのか判断のつかない声を出した。
赤鬼は鋭い爪を少年の首元に徐々にくいこませながら、
「この結界に紛れ込んだ不幸者を殺されたくないだろう? ここは手を引け」
そうクリスティナを脅した。
クリスティナはといえば、
「…………」
口をへの字にして呆れ顔を見せていた。
そして、
「ふっ……!」
呼気一つ。
赤鬼は、少年に、一本背負いを食らった。
「な……に……っ!」
地面に叩きつけられた赤鬼は、信じられないものを見る目で、曼珠沙華の羽織をひるがえす少年を見た。
と、少年の、その下駄をはいた足に、炎が発現した。
「ファイヤーキック」
と呟いた少年が、倒れ伏した赤鬼を宙へと蹴り上げた。
ポーンと、高く宙を舞う赤鬼の体。
そして重力に引かれて赤鬼は落下する。
その落下地点にいる少年は右の拳に炎を纏って、
「ファイヤーパンチ」
と赤鬼を殴り飛ばした。
「が……はぁっ!」
炎の蹴りに炎の拳を受けて、重度の火傷をした赤鬼が地面を転がる。
そこに、
「とどめでやんす。外道焼身霊波光線!」
と叫んだ少年が……現実にあるまじきか目から炎の奔流を生み出し、赤鬼の全身を灰に変えた。
そして少年は「外道焼身」と書かれた扇子をパンと小気味よい音とともに広げて、
「これにて一件落着」
と言いつつ見栄をきった。
すると不思議なことが起きた。
のっぺりとした灰色の夜空に亀裂が入ると、星の瞬く黒に近い藍色の夜の星空へと変わった。
赤く鈍く光っていた月も、白く黄色い太陽光を反射した正常な色へと戻る。
さきほどの赤鬼が創っていた異空間……《結界》が解けたのだ。
幻想生物の類は自らが結界を創りだし、目標をその結界に取り込むことができる。
此度の場合は赤鬼が結界を張り、その結界は赤鬼の消滅と共に崩壊した、という具合である。
こうして、四次元方向に少しだけずれた空間に住み着くことによって、幻想生物は一般人の目には止まらず、人を襲えるのだった。
結界が崩壊し、そして「それから気付いた」とばかりに少年が言った。
「おや、これはクリス嬢。こんなところで奇遇でやんすね……」
そうとぼける少年に、クリスティナ……クリスは恨みがましい碧の視線を少年へと送る。
「天常……照ノ……!」
天常照ノ……照ノと呼ばれた少年は扇子をひらひらと舞わせながら、さらにとぼける。
「おや、そんな目からビームでも出そうかという視線。熱愛的なそれでやんすでしょうが、いやはや……天下の威力使徒におわぁ!」
余計なことを言ってクリスの逆鱗に触れた照ノは、飛んできた仮想聖釘を危ういところで避ける。
「何をするでやんすか、クリス嬢……。危うく小生死ぬところだったでやんす」
「あなたは……あなたという人は……!」
クリスは、両手の指の間に、八本の仮想聖釘を生み出す。
「天常照ノぉ……!」
地獄の底から這い出るような声を出すと、クリスは全力で仮想聖釘を照ノ目掛けて投げた。
「ほっ……よっ……とっ……と」
投げられる仮想聖釘を、曼珠沙華の羽織をひるがえしながら、華麗に避ける照ノ。
そして言う。
「待った待ったでやんす。何をそんなに……!」
「何を? そんなに? こちらが鬼にとどめをさそうとすれば毎度毎度そこに現れて手柄を横取りしていくあなたを許せるとでも……!」
そう言って、新たに仮想聖釘を具現化するクリス。
「鬼狩りは魔術結社の奪い合いでやんす。横からトンビにさらわれたとて文句をつける筋合いはないでやんしょ?」
「どちらにせよ我々は異教殲滅を本義にしている集団です。魔女には死んでもらいます」
「ああ、話し合いの余地がない!」
そんなことを言いながらも、仮想聖釘をヒョイヒョイと避ける照ノ。
「くそ! この! 死になさい!」
「そんな汚い言葉を使うんじゃありませんことよ」
オホホホホと笑って、扇子で口元を隠しながら、照ノはヒョイヒョイと襲いくる仮想聖釘を躱す。
そして足元で小爆発を起こすと、その反動で、照ノは宙へと浮かんだ。
断続的に足元に小爆発を起こして、階段を上るように空中を駆ける。
「はっはっは。今回は私の勝ちだな、明智君……!」
そう言って、曼珠沙華の意匠をあしらった紅の羽織をたなびかせて、照ノは夜空を駆けていった。
「逃がしません!」
クリスもまた、足に膂力をためると、暴圧的なその威力を解放した。
コンクリートジャングルのビル群の側面を蹴って蹴って蹴り続け、空を駆ける照ノを追いかける。
夜空を駆ける照ノも十分不可思議だったが、ビル群の側面を蹴って縦横無尽にコンクリートジャングルを駆けるクリスもまた十二分に摩訶不思議だった。