30 困惑と
「あうぅ…」
「はいはい」
私が呻くと背中が叩かれる。
この力加減がなんとも絶妙で、大変心地よい。
いや、今はそういう事ではなくて…。
「おぶぅ…」
あやすようにぽん、ぽん、と背中が叩かれる。
何とも居た堪れない…。
私は激しく後悔していた。
いや、あれだけ人がいた中で、初めての立っち。歩く事を強要しときながら、放置ってないと思うんだ!
今まで飴を与えられて育って、いきなり前触れもなく鞭とか……。
そんな事をされて、目の前に飴が差し出されたら、誰だって飛びつくよ。
鞭には拒否反応示すよ。
それでも、だ。
「おうぃ…」
「何ですか?お嬢様」
ごめん、呼んでないよ。
背中の手は相変わらず心地よいリズムを私に送る。
私が一番、赤子を舐めてたわ…。
ちょっと他の子に皆が注意を注いだってだけで泣き出すとか、どこの赤子だよ!いや、赤子なんだけどね…。
客観的に見れば、大人があれだけいたにも関わらず、立ったばかりの赤子から目を離すなんて事はしちゃいけない。
私が同じ大人で、赤子が放置されてたら間違いなくその場にいた人間に説教たれてる自信はある。
「まだしばらくはご機嫌が優れなくてもいいんですよ」
そして私を庭の四阿で上機嫌であやすこの少年、クロフォード君も、その台詞の内容から、かなりメイドさん達の職務怠慢に対してお怒りのご様子。
怠慢ってほどでもないけどね、とは今回ばかりはとても言えない。
なんせ、赤子という生き物は、ちょっと目を離すだけで命を落としかねないからだ。
そう、悪いのは向こうなんだよ!
でもね…。
『リズ…』
兄が父と姿を消した後、私を見つけて延ばしてきた母の手を私は反射的に払った。
あの時は本当に嫌だったんだよ。
あの状況で、赤子が自分の感情を抑えられるワケもない。
悪いのは向こう。
でも母の傷ついた悲しそうな顔が頭からはなれないんだよこんちくしょう!!
私はクロフォード君の胸にぐりぐと顔を押し付ける。
「おぶぅ、だうあ…」
ホント、ゴメン…。
折角の仕立ての良いシャツも、私の涙と鼻水とよだれでぐしゃぐしゃだよ。
クロフォード君をそっと見上げる。
綺麗な紫水晶とかち合うと、紫が優しい色を放ち、形のいい唇が弧を描く。
つられてへラリ、と私も笑う。
鼻水ズルズルのヨダレべったべたの笑顔だ。しかもまだ瞼が熱く、目尻に涙が溜まる。
それをクロフォード君が丁寧に肌触りの良い柔らかい布で拭き取ってくれる。
さわり、
「彼ら」が心地よい風を運んでくれる。いつもの無遠慮なものではなく、まるで慰めてくれているような。
「あう!」
ありがとう!
過ぎ去った風の方向に目を向けて礼を言う。
「彼ら」に声はない。
くすり
小さな笑い声に、驚き目を向ければ、クロフォード君が私を見ていた。
途端に言い様のない羞恥に襲われ、再びクロフォード君のべったべたな胸にダイブする。
クスクス笑い続けるクロフォード君。
彼の目に映った赤子の奇行はどうやらツボだったらしい。
「ご機嫌は直りましたか、お嬢様?」
私は彼の胸にぐりぐり顔を押し付けた後、こくり、と頷く。
が、待てど暮らせど少年からの返事は一向に帰って来ない。
私からの返事を待っている気配だけがひしひしと感じる。
あれで伝わらなかったかな?
そっと目を上げれば、再び綺麗な紫水晶の瞳とぶつかった。
途端、
うわ…!
花が綻ぶように笑った顔は、行儀の良い綺麗な笑顔ではなく、本当に嬉しそうな本当の笑顔だった。
それに私はどう返せばいいか分からず、ポカンとただ口を開けた間抜け面を晒していた。
がさり
「はうっ」
どさり
「おぶ!?」
何ぞ!?
突然聞こえた物音に我に帰り、私は咄嗟にクロフォード君にしがみついた。
ぽん、と私の背中を叩いた手の様子が変わった事を不思議に思い、彼を見上げれば先程とは打って変わった冷たい目で物音のした方向を一瞥したあと、にっこりと私に笑いかける。
「そろそろ日が傾いて参りました。お部屋に戻りましょうか、お嬢様?」
「いぃ、あうっ、ば…」
いや、でも、さっきの…
「戻りましょうか、お嬢様?」
「あ、あい…」
最初から何もなかったかのように言うクロフォード君は私にお伺いを立てているものの、否を許さぬその綺麗すぎる笑顔に私は頷く事しかできなかった。
「じゃあ、行きましょうか、お嬢様?」
「あい?」
私は思わず首を傾げた。それは私に言っているように聞こえるが、あえて周囲に聞かせる為の、さり気ない態とらしさが含まれている。
私を抱き上げたクロフォード君は私の頭を胸に固定し歩き出す。途中、軽く階段を降りるような感覚と共に、「ふぐっ…!」「へぐっ…!」と何かを押し殺すような呻き声が聞こえた。
「おや、失礼」
しれっとしたクロフォード君の声に、そっと肩越しに覗いてみるが、茂み以外は何もなかった。
誰に声をかけたんだろう?と彼を見上げれば、にっこりと笑顔が返ってきた。
いや、笑って欲しくて見たワケじゃないんだよ。
私達が向かう屋敷の方からパタパタと慌ただしい足音が聞こえる。
目の端に捉えたのは時々遊び相手になってくれるメイドさんだ。
「アンナさん、でしたね」
そのメイドさんは声をかけられて気付いたとばかりにクロフォード君の声に急ブレーキをかける勢いで止まり、深く頭を下げた。
「は…っ、はい!!」
「四阿付近の掃除、念入りにお願いしますね?」
「かっっかかしこまりぃっました!!」
メイドさんに指示するクロフォード君は年上相手にも関わらず、大変様になっていた。
つまりはクロフォード君の方が立場的には上なのだという程度には私の拙いお頭でも理解できた。
が、アンナさんが恐縮する程四阿の手入れが行き届かなかったようには見えなかったんだが。
はて?と首を傾げている間にもクロフォード君は歩き出す。
アンナさんを見ると、彼の背をチラリ、と盗み見ると、弾かれたように走り出した。
きっと、使用人にしか気づかないような不手際があったんだろうな。
「だう」
クロフォード君
「何ですか、お嬢様?」
私に向けるのは相変わらず優しい笑顔だ。
よっぽど子供好きなんだね。
「うぅぶっ、あうあ」
あんまり怒らないであげてね
母やライラにするように、おねだりモードでクロフォード君を見る。
クロフォード君はにっこりと笑った。
「お嬢様はお優しいですね」
ぽん、ぽん、と歩きながら心地よいリズムを背中に送ってくる。
言いたい事が伝わったって事でいいのかな?
クロフォード君のご機嫌な顔を見ながら、自己完結する。
私のやれる事はやったのだ。
歩く振動もあいまって、部屋のベッドに寝かしつけられる頃には、私はすっかり夢の中にいた。




