北の大地三.
それは、突然だった。青島孝の鋭敏な嗅覚が、獣の存在を捉えたのは、ほんの一瞬前。
「…!」
察知したのとほぼ同時に、彼は反射的に腰を落とした。次の瞬間、「ブンッ!」という風を切る音が耳元を掠め、何かが彼の頭上を通過した。
振り向くと、そこに立ちはだかっていたのは、巨大なヒグマだった。体長はゆうに2メートルを超え、逆立つ毛並みと剥き出しの牙は、見る者を震え上がらせるほどの迫力を持つ。間髪入れず、ヒグマの巨大な右前足が、青島孝を襲った。
「くっ…!」
彼は、咄嗟に左腕を盾にしたが、まるで巨岩がぶつかってきたかのような衝撃に、体が弾き飛ばされた。常人であれば、骨が砕け、激痛に悶絶するほどのパワー。しかし、青島孝は、辛うじて体勢を立て直し、ヒグマを睨みつけた。
(まずい…! 奴の動きは、まるで予測できない…!冬眠している時期なのになぜ…?食料が豊富あるようには見えないが…)
さまざまな思考が彼の脳裏に浮かび、更に焦燥感がよぎる。しかし、ここで目を逸らしたら、確実に仕留められる。彼は、意識を研ぎ澄ませ、ヒグマの動きを捉えようと集中力を高めた。以前、人間に対しては金縛りのような状態にすることができたが、動物にも通用するのだろうか? 一縷の望みをかけ、彼はさらに精神を集中させた。
雪深い森の中で、青島孝とヒグマの睨み合いが続いた。一分、いや、それ以上の時間が、まるで止まったかのように感じられた。そして、次の瞬間、青島孝はゆっくりとヒグマに背を向け、歩き出した。
(…何をしているんだ、あいつは…? 熊に背を向けるなんて、襲ってくれと言わんばかりじゃないか…!)
木立ちの陰から、その異様な光景を見つめていた女は、思わず声を漏らした。彼女の名は、林田未結。小柄な体に、人間を遥かに凌駕する能力を秘めた、強化人間。彼女ならば、この程度のヒグマ、一撃とはいかないかもしれないが、苦も無く倒せるだろう。しかし、彼女は、青島孝の行動に、強い違和感を覚えていた。
(…動かない…? なぜだ、あの熊は…?)
彼女の疑問に応えるように、ヒグマは微動だにしない。まるで、何かに縛り付けられたかのように、その場に立ち尽くしている。その間に、青島孝はゆっくりと、しかし確実に、ヒグマから遠ざかっていく。
(金縛り…? まさか、あいつに、こんなことができるというのか…?)
林田未結は、信じられない思いで呟いた。
(もし、そうだとすれば… 迂闊に近づくのは、危険すぎる…)
彼女は、警戒心を最大限に高め、慎重に、青島孝の背中を追い始めた。