time33.甘い期待
自分の身体を綺麗に磨き上げ、鏡とにらめっこしながら化粧水を叩く。すっぴんだと自分がいかに老け込んでいるのか安易に知れた。おまけに涙で腫れた瞼が重くのしかかっている。こんなおばさんが何を期待しているのだ。
鏡の向こう側の自分に言い聞かせると、望美は顔を叩いて立ち上がった。情に流されてはいけない。かっこいいからと、許してはならない。マリアが居なくなった事を喜んでは、ならない。
自分に強く暗示をかけると、望美は冷蔵庫の中をもう一度見た。やっぱり何もない。でも、お腹は空いている。ケイもお腹を空かせていたはずだ。望美は面倒だと思ったが、コンビニで何か買ってこようとダウンジャケットを着て出かける支度をした。そこにちょうど、ケイが帰ってきた。手には何かを買って来てくれたらしく、ビニール袋をぶら下げている。
「何だ、何処かへ出かけるのか?」
そして望美の格好にケチを付けた。
「何も食べるものが無いから、買ってこようと思ったのよ」先程来たダウンジャケットを脱ぐ。「何か買って来てくれたの?」
「ああ、寿司は平気か?」
むしろ大好物よと望美は笑った。ケイの好意に甘え、二人でそれを頂く事にする。出来合いの寿司で悪かったなとケイが詫びたが、一日碌に食べてない望美には大層美味しく感じた。
「マリアは、ちゃんとご飯食べているかしら」
隣にマリアがいないのを、寂しい気持ちで見守る。ケイもマリアがいつも座る指定の席を確認した。
「流石に監禁まではしていないだろう。車でも確認したが、マリアは永市の家にいる。アイがどう出るつもりなのかは知らんが、京都から出ることはないだろう」
「どうして?」
「転移出来るのは明後日だ。恐らくアイは俺から車を奪おうと考えているはず。その時を見計らって、俺も行動に移す」
「あの男を殺すのね」口の中をお茶で流し込む。「未来を変えたら、ケイが消えるって、どういう事よ」
その問いにケイは黙って箸を置いた。望美も改まって箸を置く。テレビから溢れ出す蛍光色が、激しく移り変わりするのを横目で確認した。一瞬テレビを消そうかとも考えたが、音源が無くなるのは耐えられそうもない。望美はそのまま続けた。
「まだ何か隠しているんでしょ。そうやって肝心な事を言わないから、アイちゃんにも愛想つかされたんじゃない!」
いつもお茶を濁すような発言、行動に望美も不満を抱いていた。気がつけばケイやアイ、永市という第三者に振り回されてばかりではないか。今だってケイと二人っきりの状況に心が乱されている。この状態が良くない事も充分把握していた。
「確かにそうだな……しかし、俺は私情でここまで来た。アイに余計な迷惑をかけさせたくなかったんだ」ケイがお茶を一気に飲み干した。「一つ、本当の事を教えてやろう」
「何よ」
「マリアを逃がしたのは、この俺だ」薄ら笑みを浮かべ、こたつに肘をつく。「表面上ではマリアの捕獲として過去に来ているが、実際は永市の暗殺が目的。俺が手を回してマリアをこちらに転送させた」
望美は愕然として、次の言葉が出てくるまでに時間がかかった。
「……そこまでして、ケイは永市を暗殺しなければならないわけ?」
マリアに対するケイの態度を思い出してみる。あれは慈悲だったという訳か。
「そうだ。もう未来はどうしようもない所にまで来ている。だから俺の手で一度リセットするんだ。言っただろ、未来を変えに来たと」
「だったら、何で今この時代に来たのよ。そんな事考えているなら、人類の歴史からリセットさせれば?自分の私欲の為だけにマリアや私達を巻き込んだって言うの?」
「未来の技術でも、この時代まで転移させるので精一杯だった。だったら、この時代から歴史を塗り変えてやればいい」ケイが望美に向かって笑った。「多少の犠牲は付き物だ」
「犠牲って……それじゃ、未来を生き抜いている人はどうなるのよ。その人達を見殺すのも、多少の犠牲なの?」
「未来の人がどうなるかなんて分からない。なんせ、誰も未来を変えたことが無いからな。だから俺はやってみたいんだ。それが自分の身を犠牲にする事だとしても、だ」
望美は急に目の前の男が恐ろしく思えた。本気でケイは未来を変えようとしている。それが永市の暗殺。アイが未来の独裁者、宮本を危険人物扱いしていたが、今目の前にいるこの男の思想だって充分に危険だった。
「何が……ケイをそこまで変えさせたいのかが分からないわ。自分の身を犠牲って、ケイは永市を殺して自分も死ぬつもりなの?」
「…………」
「私にマリアやアイを任せるって、そういう事でしょ?……どうなのよ」
ケイは何も言わない。だが、その目が全てを語っていた。
「正確には、自分がどうなるのか分からない。俺は死ぬかもしれないし、生きているのかもしれない。それでも、自分の運命を断ち切りに来た」ケイが望美の手をそっと握った。「過去に来て、一ついい事があったな」
ケイの手が震えている。それが何故なのか、望美は知る余地もなかった。
「それで口説いているつもり?結局怖いんでしょ、未来を変える事が」
手を離そうとしたが、ケイの方が力に部があるので動けない。二人はこたつの上で手を握り合うという、おかしな体勢になった。
「そうだ。予測できない未来ほど怖いものはない……現に今だって、望美に惚れるとは思ってもみなかった」
真っ直ぐ自分に注がれる熱い視線。ケイの軽弾みな発言ではないと望美は分かっていたが、それでも冗談だと言って欲しかった。逃げたかった。でなければこのまま甘い誘惑に眩暈を起こしてしまいそうだ。
「冗談……言わないでよ……」
顔をケイから背け、そう言い返すのがやっとだった。恥ずかしさで涙が込み上げてくるのを必死で耐える。
「冗談だと思いたいのなら聞き流せばいい。自分でも不思議でたまらない。自分の身がどうなるのかさえ分からない状況なのに、望美を愛してしまった自分がいる……俺は本当にどうかしているな。出会って数日しか経っていない女を好きになるなんて」
動揺を見せまいと、望美は冷静さを保つよう努力した。しかし、いくら念じても心臓はうるさくてかなわないし、顔の赤みも引きそうにもない。自分もケイの事が好きだった。好きになった自分を認めたくなかった。
「本当、私もどうかしているわ」
それを承諾の言葉と解釈したのか、ケイが身を乗り出し、優しく唇を落とした。避けようと思えば避けられたはずなのに、身体が言う事を効かない。久しぶりの感触に身体が疼き、望美は身を委ねるしかなかった。
あんなにケイから逃げたがっていたのは、こうなってしまうのを恐れていたからだ。頭の片隅で、そう思った。




