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time32.残された二人

駅で無理矢理預けていったスーツケースを取りに戻った後、望美はケイと二人で自宅に帰った。流石に施錠まではされていなかったが、部屋は朝出てきた時のままだ。

 

ケイと二人で薄気味悪いリビングに立つ。お互い何も言わないまま、しばらく静止していた。流石に手はもう繋いでいないが、やはり気まずい。望美は耐え切れなくなって、言葉を切り出した。


「何か飲む?……それとも、食べる?」


「そうだな……正直お腹も空いているな」

 

ケイがコートを脱いでテレビを付けた。既に紅白歌合戦が始まっているようだ。年明けを沖繩で過ごす予定だったのに、結局去年と同様、自宅で過ごすことになりそうだった。望美は苦笑して台所に立ったが、冷蔵庫を開けて碌な食材が入っていない事に気づくと止めた。


「ねぇ、先にお風呂に入らない?」

 

散々走らされたので、下着は充分に汗を吸っているはずだった。恐らくケイも同じだ。


「何だ、誘っているのか?」

 

そんなつもりで言った訳じゃないが、先程からのケイの行動に、何処かで期待してしまっている自分がいるのも確かだった。ケイは笑って答えてくれたが、目はそのまま望美の方に寄越していた。その目に野生のオスがいないかと望美は探る。今、この家には二人しかいない。二人しかいないが、自分は何を考えているのだ。

 

愚かな期待を揶揄するかのように、電話が鳴った。自分の携帯からだ。望美はダウンジャケットから携帯を取り出すと、知らない番号が表示されていた。


『もしもし、お姉ちゃん?』

 

何とマリアからだった。望美は確認の為にマリアの部屋に入ってみたが、勿論誰もいない。


「マリア、無事だったのね。今何処にいるの?」

『永市さんの部屋。お姉ちゃんの方こそ大丈夫?怪我してない?』

 

してない、大丈夫と何度も頷きながら答えた。良かった、マリアが生きていて。マリアの声が聞けて。


「どこから電話しているの?今、一人?」

『ううん、永市さんと一緒。アイさんは何処かに行っちゃったみたい。だからアイさんに内緒で永市さんの携帯電話を借りて、電話しているの。お姉ちゃんの番号覚えてたから』

 

あの男も一緒なのか。望美は露骨に顔を歪めたが、とにかく無事らしいので安心した。


『ねえ、お姉ちゃん。一つ聞いてもいい?』

「何?」

『私、人間じゃないんだよね?』

 

言葉は鮮明に聞き取れたが、望美は携帯を握り締めながら動けなくなった。口の中が急速に乾く。何言っているの、マリアは人間じゃないと、口から出任せが言えそうにもない。躊躇うのは、肯定しているのと同じではないか。


『お姉ちゃん、私はもう知ってるし、大丈夫だから。不思議な事だけど、何故かそれを受け入れているの』

 

淡々とした口調。マリアが急に大人びてしまった。マリアだって気が付いているのだ、もう隠す必要は無いのだろう。


「……そうらしいわね。確かに、マリアは人間ではないかもしれない」心を落ち着かせるように胸に手を当てた。「でも、私はマリアのお姉ちゃんでいたい」

 

偽りではあるが、ようやく取り戻せた家族の繋がりを、こんな形で断ち切りたくはない。そうよ、妹を助けなければ。望美は腫れた瞳を持ち上げた。


「今から迎えに行くわ。永市の家はどの辺りなの?」

『分からない。目が覚めたらここに居たから』受話器の向こうでドアの開く音が聞こえた。『迎えは少し待って。とにかくお姉ちゃんが無事で良かった』

「待って、マリア。どういう事なの」

 

ここで通話は終了させられてしまった。マリアは助けを求めることなく、自分が無事だと告げただけだった。望美が気配を感じて振り返ると、いつからそこに居たのかケイが立っていた。


「マリアからか?」

「ええ、今永市の部屋にいるそうよ。アイちゃんに内緒でかけてくれたみたい」

「そうか。アイとは未だ連絡がつかない……全く、困った部下だ」

「何よ、困らせた原因は貴方にあるんでしょ?」望美が意地悪く突いた。「アイちゃんは、貴方の真意を知りたがっていたわ」


ケイが眉間に皺をよせて難しい顔をした。


「確かにマリアが連れ去られたのは俺の責任でもある。一先車を取りに戻るから、望美はここにいろ」

「ちょっと、今からマリアの所に行くつもりなの?」

 

ケイを止めようと反射的に動いた手を慌てて引っ込めた。また握り返されてはたまらない。その代わりに望美はケイの顔をじっと見た。ケイには、マリアを取り戻す気はあるのだろうか。


「いや、それはアイと連絡が付いてからだ。今動いても、アイは永市を人質に取るだろう」

「その方が都合いいんじゃないの?どうせ殺すつもりなら」

 

嫌味を言ったつもりだったが、ケイは露骨に悲しい顔をした。


「随分と冷たい女だな。あれでもお前の元旦那だろう?」

「もう関係ないわ。あいつが死のうが生きようが、私にはどうでもいい事なのよ」

 

本当にどうでも良かった。一度でも愛した男を、こうも見殺しにするとは自分でも意外だった。五年という歳月が、ここまで自分を冷酷に仕立て上げたのかもしれない。ケイに冷たい女だと言われても仕方ないか。


「関係ない、か。一応励ましの言葉として受け取ろう」ケイがコートを着直す。「俺が永市を殺しても、望美は何とも思わないのか」

「……おそらく」

 

二人は互いに見つめ合った。二つの瞳から真意を読み取ろうとする。その黒々とした瞳から、しばらく目を逸らすことが出来なかった。


「本当に車を取りに戻るだけだ、待っていてくれないか」

「そう、わかった。お風呂にでも浸かって待っているわ」

 

ケイの横をすり抜けてリビングに戻ろうとしたが、不意に腕を掴まれ、後ろから強く抱きしめられた。突然の抱擁に再び身体が疼き、鼓動が一気に早くなる。


「マリアは必ず取り返す。だから望美は安心して待っていてくれ」

 

自分がまた逃げ出すとでも思ったのか。ケイの大胆な行動に望美は嬉しくてたまらなかったが、いかにも平然とした態度で対応する。


「その言葉、信用出来るの?」

「信用してもらうしかない……帰ったら、事情を説明する」

 

支えを失った望美は、しばらくその場で立ち尽くしていた。この状況に酔いしれてしまいそうだ。汗臭くなかったかしら、と望美は自分の服の匂いを嗅いだ。やっぱり汗臭い。今日は念入りに身体を洗っておこうと、急いでお風呂場に向かった。


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