time3.少女の目覚め
あれからお昼を過ぎ、夕方になったが少女が一向に目を覚ます気配はない。
望美は不安になった。やっぱり病院へ連れて行ったほうが良かったかもしれない。しかし、この子の親が虐待を働かせているのなら、場所を知らせてはまずいのではないのか。
どうすべきか分からないこの状況が腹ただしい。望美は眠っている少女の手を握りながらこう言った。
「もう、早く起きてなさいよ。親はどうしたのよ、親は。貴方の親がこんな酷い事をしたの?」
その瞬間、少女が目を開けた。
「ん……」
虚ろな目を泳がせて、ここが何処か認識しかねている。その目を見た瞬間、望美は少女を強く抱きしめた。
「よかった!……もう、心配かけてっ…………」
望美は涙を流した。このまま永遠に眠り続けるのではないかと思ったからだ。
そんな望美を尻目に、少女は不思議そうに宙を眺めていた。
「ここは……?」
「ここは私の部屋よ。路地裏で倒れていた貴方を、ここまで運んできたのよ」
「……路地裏?」
「そう、このマンションのすぐ裏にある道よ」
「……誰?」
少女に訊かれて、望美がああそうかと思い直した。
「私は小中望美。貴方は?」
「私?……私は……」一瞬にして少女の顔が歪んだ「……誰でしょうか」
「誰って、自分の名前、わからないの?」
少女は目を細めて懸命に思い出そうという素振りをしてみせる。しかし、頭を押さえて振り始めた。
「大丈夫、大丈夫だから。ゆっくり思い出しましょう」
一時的な記憶喪失なのかもしれない。
何かしらのショックでこうなってしまった人を、望美はドラマの中で見たことがあった。無理もない、この状況だ。そうとう酷い事でもされてきたのだろう。
「もう寒くない?大丈夫?」
望美は少女の頭を撫でながら聞く。少女は「はい」と頷いた後、自分が裸なことに不審を抱いた。
「望美さん、どうして私、服を着てないのですか?」
「ああ、ごめんね、恥ずかしいわよね」望美が少女の身体から目線をそらした。「貴方の服、濡れていたから勝手に脱がせてもらったのよ。風邪引いちゃうと思って」
流石に全裸だったとは言えない。言い終わると、望美は思いついたように立ち上がった。まだ愛美の服がある。この子なら余裕で着られるだろう。
隣の部屋の襖を開けると、手付かずに散らかっている物を避けながら洋服タンスを開けた。あの時と同じ、冬服のままだった。当たり前か。望美は皮肉にも感謝しながら愛美の服を少女に手渡した。
「これ着て頂戴、下着は新しいの無いからお古で申し訳ないけど」
「ありがとうございます」少女は毛布から手をもぞもぞと取り出して受け取った。「お手洗いはどちらですか?」
「ああ、私が出てくからいいわよ。寒いからそこで着替えて頂戴」
望美はリビングを出ながら、少女の敬語を不気味だと感じていた。他人行儀過ぎる。愛美と同い年くらいの女の子が、敬語で自分を尋ねるだろうか。見た目は女の子なのに、口調からは女の子らしさを感じられなかった。そういう風に話せと、親に仕付けられたのかもしれない。
終りましたと声が聞こえたので、望美はリビングに戻った。愛美の服が少女にぴったり収まっている。何だか不思議な気持ちだった。
自分は、この子に一体何をしようと言うのだ。この子は愛美ではない。それは分かっている筈だ。
「あの、これは付けていたみたいですけど……」少女が金属のタグを持つ。「何でしょう?」
『MARIA』と彫られたタグを見せる。
「それ、最初から貴方がしていたわよ。……もしかしてそれ、貴方の名前じゃない?」
「……これが?」
「マリアって彫ってあるわ。いい名前ね。ぴったりじゃない」
マリアが不思議そうに金属のタグを眺めた。そしてこの部屋全体を見回す。
「あの……私はどうすればいいのですか?」
マリアの質問に、望美が首を傾げる。
「どうするって、何を?」
「私、何かすべき事があったのです。ですけど……」マリアが涙ぐんだ。「すみません、思い出せそうにもなくて」
「そんなの、私に聞かれても困るわよ。貴方の名前だってマリアかどうか分からないのだし……そう言えば、貴方の親はどうしたの?」
親と聞かれて、マリアは更に顔を崩した。望美はしまったと口を押さえた。今、親の事を問いただすべきではない。
「すみません……私、何も思い出せなくて……でも、何かすべき事が……」
マリアが頭を押さえつける。望美が慌ててマリアを抱きすくめた。
「とりあえず、お腹空いてない?何処かで夕食でも食べましょう」
ね、とマリアに笑いかける。マリアも自分のお腹に手をあてて「はい」と頷いた。
マンションから徒歩五分の所に、二四時間営業のファミレスがあった。世の中は便利になったものだ。望美はマリアにそれなりの格好をさせてやると外に出た。結局自分は朝から何も口にしていない。
外に出て、この子の親にあったらどうしようかとも考えたが、外に出れば何か思い出すのではないかという期待もあった。すぐ側の路地裏で倒れていたのだ。先程拭いてやった足も、それ程汚れてはいなかった。きっと近所の子供なのだろう。
望美はマリアの手を引きながら路地裏に入ってみた。まだ、汚い布が落ちている。
「マリアが倒れていたのはあそこよ」
そう言って汚い布辺りに指を差した。マリアが不思議そうにその先を見つめる。
「……何か思い出せそう?」
激しく首を振って望美にしがみついた。……駄目か。
望美は「ごめんね」と頭を撫でると、急いでその場を後にした。
ちょうど夕食時もあって、店内は賑わっている。
店員に案内されて望美とマリアはツリーの側の席に案内された。そうだ、今日はまだクリスマスイブだった。
「何でも好きなもの頼んでいいわよ。今日がクリスマスの事すっかり忘れてたわ。ごめんね、こんな安いお店で」
望美がツリーを見ながら言った。マリアがそんな事ないと慌てて頭をふる。
「いえ、お食事までさせて頂きありがとうございます。望美さん」
やっぱり変だ。こんな子供に敬語で話されるのは気持ちが悪い。
「望美さんだなんてやめてよ。望美でいいわよ、望美で」
「でも、目上の人を呼び捨てには出来ません」マリアは少し考えて「何て呼べばいいですか」と尋ねた。
お母さん、とは呼ばせたくなかった。呼ばせてしまえば、マリアがたちまち愛美の代わりになってしまう。そういう関係にはなれない。
望美は悩んだ挙句「お姉ちゃん」かなぁと呟いた。
「お姉さ……お姉ちゃん」
英単語を覚えるかの様にマリアが何度も呟く。自分て言っときながら、随分と年の離れた妹だと笑った。
「マリアは何頼むか決めた?」
「えっと……このハンバーグセットがいいです」
「その敬語も禁止。私とマリアは記憶が戻るまで、今日から姉妹。いいわね」
望美はそう言いながらマリアの頭を撫でた。サラサラと真っ直ぐで、くせ毛の無い髪。自分とは正反対だった。
マリアが嬉しそうに白い歯を見せる。久しぶりに笑顔になれたクリスマスイブの事だった。




