time19.迎えに来た男
「望美さーん、シャワー借りてもいい?」
アイが隣の部屋からひょっこり顔を覗かせる。ようやく気がついた寝癖を手で押さえてあわあわしている。
「いいわよ、綺麗に使ってよね」
アイが今日着て行く服を床に並べてから、ありがとうございまーすと一言詫びてお風呂場に向かう。もし愛美が生きていて年頃の娘になったら、きっとアイと同じような事をしているに違いない。望美はアイの行動に笑った。
「今日は、何処か出かけるのか?」
コーヒーを飲み終えたケイがゆっくりと尋ねた。
「いいえ、今日は掃除しようと思うの。もう三十日ですもの。今年の汚れは、今年中に落としておかないと」そう言って望美は、ケイの服装を見る。「ケイも手伝ってくれるの?」
「世話になってるしな、手伝うよ。男手もあった方がいいだろう」
「ありがとう。でもその格好じゃまずいわね。ジャージとか、買ってないの?」
「ジャージ?」
「運動しやすい服装よ。まさかそれで昨日寝たわけじゃないでしょ」
望美はケイにも着られる服があるかどうか探した。黒のジャージを見つけたが、体格のいいケイには窮屈だろう。望美は一応ジャージがどのような物か見せた所で、インターホンが鳴った。
「客か?」
「郵便物かしら」
時刻を見ると九時過ぎ。荷物なんて頼んでいただろうか。サンダルを引っ掛け、試しに覗き穴から覗くと、そこにはカメラを携えた永市が立っている。
『おはようございます。アイちゃんを迎えに来ましたー』
向こうから声が聞こえる。どうして自分の居場所が分かったのだろうか。望美は舌打ちして、一度チェーンをかけてからドアを開けた。
「あ、望美おはよう」
あからさまな笑みを浮かべているのは元旦那。望美は怪訝な顔をした。
「家まで押しかけて来るとは、どういう神経よ。アイちゃんは今お風呂」
永市はああ、と納得したような顔を見せたが、すぐに望美と向き合った。
「望美も今日、来てくれるんだよね」
「行かないわよ。今日は掃除するから」
「お願い!どうしても今の君を撮りたいんだ」永市は頭を下げた。「僕を嫌がるのもわかるが、今日一日だけ、我慢して付き合って欲しい!」
今更何を我慢しろと言うのか。望美は永市と取り合うのが馬鹿らしくなった。
「嫌よ。アイちゃんだけ撮ればいいじゃない。若い娘、あんた好きでしょ」
「僕はアイちゃんより、望美を撮りたいんだ」
永市の真剣な表情に、望美も戸惑う。
「どうして私なんか撮りたいのよ。前にも撮ってたでしょ、いいから出て行って」
ドアを閉めようとしたが、永市が素早く足を挟む。
「今の望美じゃなきゃ駄目なんだ、お願いだからっ」
「嫌って言ってるでしょ、警察呼ぶわよ!」
望美もむきになってドアを閉めようとする。そこにケイが来てくれた。
「何してるんだ、客じゃないのか」
ケイと永市の目が合った。
「望美……お前男がいたのか」
永市がびっくりしてケイの顔を見た。知らない男に突然驚かれて、ケイは困った顔をする。
「おい、誰だこの人は」
そうだ。ここで自分に男がいる事を見せ付ければ、永市は出て行くかもしれない。望美は振り向くと、自分と合わせろと目で合図した。
「そうよ。私は今この人といて幸せなの。邪魔しないでよ」望美がケイの背中を押す。「ケイ助けて、こいつアイちゃんの追っかけなのよ」
「違う、カメラマンだ。アイちゃんを迎えに来ただけなんだ」
永市が慌てて修正した。ケイが訝しげに永市の顔を見る。
「……アイは今風呂だ。後で下の公園に行かせるから、そこで先に待っていてくれないか」
「あんたは誰だよ」
永市も負けじとケイを睨む。面倒な事になった。望美は二人の間に割って入る。
「誰だっていいでしょ、とにかくここにはもう来ないで。出て行って!」
永市に切なる気持ちが届いたのか、ドアに挟んだ足を引っ込めた。
「……わかったよ。でも僕は望美を撮りたいんだ。撮らせてくれないのなら、勝手に撮るまでだ」
そう言い捨ててエレベーターへと向かっていった。とりあえずは助かったようだ。望美はドアを閉めるとその場についしゃがみ込んだ。
「大丈夫か」ケイが優しく肩に手を置いた。「それにしても何だったんだ、あいつ」
「…………」
自分の元旦那、とはケイに知ってほしくなかった。もう終わった過去の事なのだ。望美はしつこい男なのよと言って、立ち上がった。
「二人とも玄関で何してるの?」
髪を濡らしたアイが不思議そうにこちらを見ている。望美はアイを睨んだ。
「今、あいつがアイちゃんを迎えに来たのよ。ここの家、教えたの?」
えっ、とアイがびっくりして玄関先を見る。
「ううん、昨日は駅前ですぐ別れたけど」
「そう……」望美は嫌な顔をする。「じゃあ、ここまでつけられたのね」
「えーーっ!……全然気付かなかった」
アイがタオルを握りしめて呆然としている。
「こっちへ来て気が緩みすぎだ、アイ。変な輩はどの時代にも必ずいる。自分で後始末してくるんだな」
ケイは冷たく言い放って、リビングへと戻っていった。面倒事は嫌いだと言いたいのだろう。
「ねぇ、どうして迎えに来たの?昨日駅前でって約束したのに」
「さあ、気が変わったんじゃないの。私の事も異常に撮りたがっていたし」望美は永市の捨て台詞を思い出した。「……そういう男なのよ」
「ごめんなさい、望美さん……あたし、何だか迷惑ばっかりで……昨日もそんなつもりじゃなかったんです」
許しがほしいのか、アイは目を濁らせて幼い子供の様につったっている。起きてしまった事はしょうがない。向こうの神経がおかしいのだ。望美は滴るアイの髪にタオルをかけてやった。
「もういいわよ、私も家までつけてくるような男だとは思わなかったし。それより早く着替えないと風邪ひくわよ」
望美はマリアの部屋の窓から、下の公園を見てやろうと静かに入る。マリアが吐息をたてて寝ていた。さっきの騒ぎを聞かれてなくて良かった。望美はマリアの寝顔に微笑むと、カーテンをずらして公園を見下ろした。
永市もこちらを見ていた。しかし、僅かな隙間から覗いている望美には気付いて無いようだ。何故、アイをつけてまで自分の居場所が知りたかったのか。何があいつの芸術感性に自分が触れてしまったのか。理由は分からないが、居場所を知られたのは厄介だ。またこりずに来るに違いない。
一度気に入ったモデルは徹底的に追い回す。それがあいつのやり方だった。望美は永市に愛想をつかせていた。別れた決定的な原因は永市の浮気だったが、要はストーカーじみてくる撮影魂が嫌になったのだ。自分という妻や子供がいながらも、他の女を追いかけ回す。いくら仕事だからとはいえ、望美も我慢しきれなかった。そして話し合いで喧嘩の末、離婚。永市とは昨日が五年ぶりの再会となった訳だが、望美は不快な気持ちにしかなれなかった。
マリアにまとめさせた荷物が入っている押入れを見つめる。早くここから一時的にでも逃げた方がいい。永市からも、この二人からも。望美はチャンスを伺うかのようにもう一度だけ、公園を見た。




