醤油の帰還
貧乏学生……私と友人は、M2の院生だ。
この度、結構でっかい学会での研究発表を許され、学会出張とあいなった。
「なぁなぁクソ高いホテルに泊まって豪遊しようぜ」
出来るだけ金を節約する為に素泊まりの宿に2人で泊まった。
「なぁー!ここって肉有名なんだろ?めっちゃ高い肉食いに行こうぜ!」
外食をしないで良いように米と食材を持ち寄った。
私は米と炊飯器を持ってきた。
友人の担当は、米に合うご飯の友を準備することだった。
しかし、何故か持ってきたものはチーズとオリーブオイル、卵。
「美味いじゃんだって」
……ふー。
外国に行っていた人々は帰って来た時に醤油に感動する、と話を聞いた。
私はその片鱗をこの旅で感じることになる。
ちょうどいい塩気と、深みのある出汁、舌に弾けるような、炭酸めいた旨味。
さっぱりとした後味。
何故か醤油が見当たらない国内の学会出張で、卵かけご飯を三日醤油無しで食べないといけない苦行を強いられた私であるからこそ、あの醤油に出会えたのだろう。
知っているか、塩気のあるものをしばらく食べていないと、塩が脳に染みるんだ。
私は風邪をひいた。怠きすぎて、動けない。
「ウヒョー、お前ヤバいって風邪とか、誰が研究発表するんだよ……俺か!アハハハー」
友人の声が脳を殴るレベルの重傷。
いや、この天性のウザさは元からだ。
この素泊まり宿にあるのは、持ち込んだ炊飯器と米、卵そしてチーズとオリーブオイル。
なんか足りない気もするけど、まぁ大丈夫だろう、と思っていた。
私がどんな目に遭うのかも知らずに。
初日、卵かけご飯をチーズと食べようと試みたが、何故か身体が拒絶した。
卵の臭みとチーズの臭みが合わさった。
鉄のような、石鹸のような生理的に無理な味がした。
「え?そうか?普通に食えるくね、グラタンみたいな」
……卵かけご飯を食べようと思うのではなく、リゾットのようなものだと思い込んで食べていれば、少しは違う結果になったのかも知れない。
しかし、卵かけご飯をチーズで食べようと思ったからあのような惨劇が生まれた。
前チーズと食べたときはとても美味かった。
なんだ、あの時と何が違う……醤油か!
卵かけご飯と醤油は、卵のまろやかさが醤油の塩気を包み込み、卵の生臭さを消すという、神がかった配合だったのだ。
次の日はオリーブオイルで食べようと思った。
これは酷い。
吐き気がする。
果物の腐った味だ。
油が悪い方に働き、舌を包む無味の薄い膜に変わった。
最悪だ、解析もできない。
フルーティな臭気と、油臭さが鼻を支配し、舌を殴る。
米じゃなくて、ピザだったら良かったのだろう。
何故かピザの香りが光の速さで鼻先を通り過ぎた。
オリーブオイルは生卵を救わない。
……せめて、何か料理ができる道具があれば良かったのに、オリーブオイルを敷いて卵を落として、ほくほくの目玉焼きを作れたのに。
「まぁちょっとコレは……逆に食えるな」
アホ舌が、舌だけでも地獄に落ちろ。
「え、俺分離?」
最後の日、私は卵かけご飯に恐怖を覚え始めた。
プライドを捨て、醤油を買ってきてくれと友人に頼んだ。
「先生たちと焼肉食ってきた」
と帰って来やがった。
醤油は?
「なかったかも知れない」
本当か?現地調達を怠ったんじゃないのか。
しかも焼肉屋で見かけた焼肉のタレは買って来てないと来た。
というわけで最後は何も無しだ。
味がしない。
時々少しの生臭さだけがある。
味がしない。
泣きそうだ。
脳が醤油のことしか考えられない。
「お前そんな醤油欲しかったの?」
当たり前だ、舌と分離しろ。
これで少しは、私の醤油を口に入れたい渇望が分かるだろう。
帰宅時間だ。
一刻も早く帰らなくては。
「看病してやるよ!」
散れ。
家に帰って、残り少ない卵とパックご飯でチャーハンでも作ろうと思ったが、疲れていたので卵かけご飯をまた食べた。
醤油を見た瞬間、手がふらつき、多めに出してしまった。
いつもの私なら顔を顰めるだろうが、そんな無礼なことはしない。
醤油が墨汁ぐらい濃く輝いていた。
私は半ば縋るように口へ運んだ。
飛ぶ、という表現が正しいだろう。
眠気が消えた。
「え、覚醒してるじゃんお前」
黙れ今から地球を救いに行くんだ。
いやまずおかわりだ。
涙か汗か分からない。
醤油が持つ「塩気」「旨味」「消臭力」という全パラメータの凄まじさ。
全ての食材に感謝を。
12パックの卵を旅行先に持って来た友人にハンマーを。
「えー!ハンマーはガチで分離案件!」
コイツは結局看病といって私の隣でずっとゲームをしていた。
「お前治った?なぁ治った?卵まだあるじゃん。すき焼きパーティしようぜ」
散れ。




