真実の愛を見つけたとおっしゃるので、王家の家訓を読み上げて差し上げました
「セシリア・ヴァレンティーヌ! 今この場をもって、君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業を祝う夜会。
楽団の演奏がぴたりと止む。
シャンデリアの下で、百を超える視線が一斉にこちらを向いた。
今年の卒業生は四十二名。
その家族と来賓を合わせて、大広間は人で埋め尽くされている。
誰もが今夜のために仕立てたドレスと礼服を身にまとい、つい先ほどまで、学院での思い出話に花を咲かせていた。
声の主は、この国の第一王子アルベルト殿下。
私の婚約者だ。いや、たった今「元」になったと宣言なさった方、と言うべきだろうか。
殿下の腕には、淡い桃色のドレスの令嬢がしがみついている。
男爵家のフローラ様だ。
「僕は見つけたんだ。真実の愛を!」
殿下は高らかに言い放ち、フローラ様の肩を抱き寄せた。
どこかで、扇の落ちる音がする。
「まあ……」
「本当におっしゃったわ」
「卒業の夜会で、よりにもよって……」
ささやきが、波のように広がっていく。
私は手にしていたグラスを給仕に預けた。
ドレスの裾を整え、殿下に向き直る。
「殿下。いくつか確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「確認? 今さら何をだ。泣いて縋っても無駄だぞ」
「縋るつもりはございません。聞き違いがあってはいけませんので」
にこりと微笑む。
十年の王子妃教育で、一番最初に身につけたのがこの笑顔だ。
「殿下は今、真実の愛を見つけた、とおっしゃいましたね?」
「そうだ」
「お相手は、こちらのフローラ・ベルネ男爵令嬢でお間違いありませんか?」
「くどいぞ。見れば分かるだろう」
「そして、そのことを皆様の前で宣言なさる。そういうことでよろしいですね?」
殿下の眉間に、苛立ちの皺が寄る。
「何度言わせる。僕、アルベルト・エル・グランディアは、ここにいる全員の前で宣言する。フローラこそが僕の真実の愛だ!」
フローラ様が「アルベルト様……」と頬を染めた。
三回。
確認は、それで十分だった。
「承知いたしました」
私は深く一礼する。
殿下は拍子抜けしたように目を瞬かせ、それから勝ち誇った顔になった。
「ずいぶん物分かりがいいじゃないか。どうせ最初から分かっていたんだろう」
「ええ。この春から存じておりました」
「そういうところだ!」
殿下が、びしりと私を指さす。
「君はいつもそうだ。笑っているのか怒っているのか分からない顔で、本ばかり読んで! 僕が何か言えば『典範ではこうなっております』だ。息が詰まるんだよ!」
「フローラは違う。フローラは僕の話を、目を輝かせて聞いてくれる」
「わ、わたし、難しいことはよく分からないので……」
フローラ様が、小さな声で言った。
殿下はそれを褒め言葉だと受け取ったらしい。満足げに頷いている。
殿下がフローラ様を連れ歩くようになったのは、この春のことだ。
はじめは学院の中庭で。
次は王宮の庭園で。
やがて、私が同席するはずだった隣国の大使との茶会にまで。
その茶会で殿下が披露した隣国の古い詩は、前の晩に私が書き起こしてお渡ししたものだった。
大使に「どなたに習われたのです」と尋ねられた殿下は、迷いもせずに答えた。
「フローラが教えてくれたんだ」
フローラ様がきょとんとしていたのを、私はよく覚えている。
それでも、私は何も言わなかった。
婚約は家と家の、そして王家と国との約束だから。
だから今夜、殿下のほうから投げ出してくださったのは。
正直に言えば、少しだけありがたい。
視界の端に、目当ての人物を見つける。
「典礼官殿」
壁際に控えていた白髪の典礼官が、びくりと肩を揺らした。
「恐れ入りますが、『王家典範』をお持ちいただけますか。控えの間の書見台にあるはずです」
「て、典範を……今、ここで、でございますか?」
「はい。殿下のご宣言は、典範に照らして扱われるべきものですので」
典礼官の顔から、すうっと血の気が引いていく。
彼は私と殿下を見比べ、足早に控えの間へ向かった。
「典範? 何を大げさな」
殿下が鼻で笑う。
「あんな古臭い家訓集、読んでいる王族なんかいないさ。父上だって、僕に一度も読めとはおっしゃらなかった」
それは違う。
陛下は殿下が十歳のときから、毎年の誕生日に典範の写本を贈っていらした。
そして殿下は毎年、それを開きもせずに書庫へしまわせていた。
私は知っている。
その十冊の埃を払っていたのは、私だから。
「アルベルト様、てんぱんって、なんですか?」
「気にしなくていいよ、フローラ。セシリアの負け惜しみさ」
やがて典礼官が、両腕に抱えるほどの分厚い本を運んできた。
金の留め金に、王家の紋章。
建国王の時代から書き継がれてきた、グランディア王家の家訓。
『王家典範』だ。
ずしりと重い。
私の両腕にも余るその本を、典礼官は震える手で差し出した。
私は本を受け取り、留め金を外す。
古い羊皮紙の匂いが、ふわりと立った。
十年間、ほとんど毎日嗅いできた匂いだ。
不思議と、それだけで指先の冷たさが引いていく。
「では、殿下。ご宣言に関わる条文を、読み上げて差し上げますね」
◇
「まず、第十二条」
頁を繰り、背筋を伸ばす。
「『王族の婚約は、国王の裁可をもって成り、国王の裁可をもってのみ解かれる』」
大広間が静まり返った。
「つまり、殿下おひとりのお言葉では、婚約は破棄できません」
「な……そ、そんなもの、父上にお願いすれば済む話だ!」
「ええ、おっしゃる通りです。ですから、次に参りましょう」
殿下が何か言い返す前に、次の頁を開く。
「第四十条。『公の場において婚約者を辱めた王族は、その者に正式に謝罪しなければならない』」
「だ、誰が謝るものか!」
「謝罪は結構です。私が読み上げたかったのは、この先ですので」
指で行をたどる。
「第九十九条」
その番号を口にした瞬間、壁際の年配の貴族たちが、はっと顔を上げた。
知っている方は、知っているのだ。
この国の王家が、一度割れかけた夜のことを。
「『王族が真実の愛を宣言したときは、その相手とともに北のグレイ砦に赴き、三年のあいだ民と同じ暮らしをすること。三年を経てなお愛が変わらぬときに限り、国王はその婚姻を許す。その間、宣言した者の王位継承権は停止する』」
しん、と。
音という音が、大広間から消えた。
「……は?」
殿下の口から、間の抜けた声がこぼれる。
フローラ様を抱き寄せていた腕が、少しずつ緩んでいく。
年配の貴族の中には、目を閉じて小さく首を振る方もいた。
あの戦を覚えている世代にとって、第九十九条は冗談で口にしていい番号ではないのだ。
「三代前の国王陛下が、真実の愛を理由に、隣国の王女殿下との婚約を破棄なさいました。そのせいで同盟が崩れ、北の国境では三年も戦が続いたのです」
私は本から顔を上げる。
「以来、王家は『真実の愛』という言葉を、とても重く扱うことにいたしました。本当に真実の愛なら、三年くらいどうということはないでしょう? というのが、典範の考え方ですわ」
「北の……グレイ砦……」
「冬は雪で道が閉ざされるという、あの……」
「継承権の停止ですって……」
ささやきが、今度ははっきりとした言葉になって広がっていく。
「う、嘘だ! そんな条文、聞いたこともない!」
「お読みになっていないからですわ。殿下の書庫の写本にも、九十九頁に同じことが書いてございます。十冊とも」
殿下の顔が、赤から青へと色を変える。
殿下は助けを求めるように人垣を見回した。
そこに宰相閣下の姿を見つけて、すがるように声を上げる。
「宰相! お前なら知っているだろう、こんなものはでたらめだと!」
宰相閣下は、ゆっくりと首を横に振った。
「殿下。私が殿下の御年のころ、父から最初に暗唱させられたのが、その第九十九条でございました。三年の戦で、私の祖父は北の国境から戻りませんでしたので」
殿下は何かを言いかけて、やめた。
言い返す言葉を、殿下はひとつもお持ちではない。
典範の講義の時間、殿下はいつも窓の外を眺めていらしたから。
私はそっと、頁を撫でる。
八歳で王子妃教育が始まったとき、最初に渡されたのがこの典範の写本だった。
古い字体が読めなくて、辞書を何冊も広げて、一行ずつ書き写した。
十歳で、百八条をすべて暗唱した。
いつか殿下の隣で、この国の決まりを守る側に立つのだと思っていた。
まさか、殿下ご自身に向けて読み上げる日が来るとは。
「嘘ではない」
低く、よく通る声が、大広間の奥から響いた。
人垣が割れる。
立っていらしたのは、今夜は執務で遅れるはずだった国王陛下だった。
「ち、父上……!」
「アルベルト。お前が誕生日のたびに書庫へ放り込んでいた本に、何が書いてあったか。ようやく分かったようだな」
陛下は私の前で足を止め、開かれた頁を見下ろした。
「セシリア。読み違いはない。第九十九条、一字一句そのとおりだ」
「恐れ入ります、陛下」
◇
「ま、待ってください父上!」
殿下が、転がるように陛下の足元へ進み出る。
「撤回します! 今のは言葉の綾です! 真実の愛というのは大げさで、フローラとはただ、少し気が合うというだけで!」
「アルベルト様?」
フローラ様が、目を丸くして殿下を見た。
殿下は、そちらを見ようともしない。
「セシリア、君からも父上に言ってくれ! 婚約破棄は取り消す。僕たちは元通りだ。な? 君だって、十年も僕のために勉強してきたんだろう?」
伸ばされた手を、一歩下がってよける。
「殿下。撤回についても、典範に定めがございます」
私は、百の数字が振られた頁を開いた。
「第百条。『一度宣言した言葉を、己の都合で翻した王族は、言葉の重みを知らぬ者とみなす。その者の言は、以後、王命として扱わない』」
殿下の手が、宙で止まる。
視界の端で、陛下がほんの一瞬、何かを思い出すように目を細めたのが見えた。
「宣言を守れば、三年の砦暮らし。撤回すれば、殿下のお言葉はもう誰にも届きません。どちらをお選びになっても、ご自分のお言葉の結果ですわ」
「そんな……そんな馬鹿な話があるか……!」
「あるのだよ、アルベルト」
陛下の声は静かだった。
静かで、だからこそ、どんな怒鳴り声よりも冷たい。
「国を背負う者の言葉は、それだけ重い。私はそれを、十年かけてお前に教えるつもりだった」
「……教えを受けたのは、セシリアのほうだったようだがな」
殿下は、膝から崩れ落ちた。
「王子妃教育を十年、一日も休まれなかったそうよ」
「殿下は典範の講義を、一度も最後までお聞きにならなかったとか」
「これでは、どちらが王族か分かりませんわね」
貴族たちのささやきが、壁のように殿下を取り囲む。
そのとき、細い声が割って入った。
「あのう」
フローラ様だった。
ここまでずっと、殿下の陰で縮こまっていた方だ。
桃色のドレスの裾を両手でたくし上げると、彼女は床にへたり込んだ殿下の横に、ためらいもなくしゃがみ込んだ。
そして、困ったように首をかしげる。
「北の砦って、寒いんですか?」
「え……」
「わたし、平気です。実家は北の端の男爵領なので、雪かきは得意なんです。三年くらいなら、全然」
大広間が、別の意味で静まり返った。
「アルベルト様、一緒に行きましょう? 真実の愛なんですよね?」
フローラ様の目は、驚くほど真っ直ぐだった。
殿下は口を開けたまま、フローラ様と陛下と私の顔を、何度も見比べる。
「い、いや、僕は、その……雪かきは……」
「決まりだな」
陛下が短く言った。
「第一王子アルベルトは、典範第九十九条に従い、フローラ・ベルネ男爵令嬢とともにグレイ砦にて三年を過ごすこと。その間、王位継承権を停止する。典礼官、記録せよ」
「は、ははっ!」
近衛騎士が二人、殿下の両脇に立つ。
「嫌だ! 寒いのは嫌だ! セシリア!」
叫びながら連れ出されていく殿下。
その後ろを、フローラ様が小走りについていく。
「アルベルト様、毛糸の靴下を編んであげますね!」
大広間の扉が、重たい音を立てて閉じた。
陛下はしばらく扉を見つめ、それから深いため息をつく。
「騒がせたな。皆、今宵は卒業を祝う席だ。楽団、続けてくれ」
ためらいがちに、音楽が戻ってきた。
「セシリア。愚かな息子が、すまなかった」
「もったいないお言葉です、陛下」
「十年分の詫びは、改めてさせてもらう。今夜はもう休みなさい。その本を抱えたままでは、踊れまい」
言われて初めて、私は典範を胸に抱きしめたままだったことに気がついた。
人垣の中から、父が足早に近づいてくる。
いつも厳しい顔しか見せない父が、今夜は珍しく、どうしていいか分からないという顔をしていた。
「お父様。騒ぎを起こしてしまい、申し訳ありません」
「騒ぎを起こしたのは、お前ではない」
父は短く言って、私の肩に手を置いた。
大きくて、少し重たい手。
「十年、よく務めた。……もう、いいのだぞ」
胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどける。
泣きはしなかった。
泣くほど悲しくはなかったし、泣くには少し、ほっとしすぎていたから。
◇
夜風の通るテラスに出ると、ようやく息ができた気がした。
背後の窓から、ワルツの調べが漏れてくる。
眼下の庭園では、噴水が月の光を砕いていた。
ついさっきまで大広間で起きていたことが、まるで誰かの書いた物語のように遠い。
手すりに典範を置いて、その上に両手をつく。
指先が、今になって少し震えている。
「お見事でした」
背後からの声に、振り返った。
黒い外套に、銀縁の眼鏡。
王立図書館の副館長、レオン・グラーツ様だ。
公爵家の次男でありながら、夜会よりも書庫を好む変わり者として知られている。
「レオン様。いらしていたのですか」
「典範が持ち出されたと聞いて、飛んできました。あれは図書館の管理物ですから」
レオン様は真面目な顔で眼鏡を押し上げる。
それから、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「というのは口実で。第百条を、あなたがどんな顔で読むのか見たかったんです」
心臓が、どきりと跳ねる。
「……気づいていらしたのですか」
「気づくも何も。あの改正案の古語を一緒に直したのは、私ですよ」
第百条は、建国王の時代の条文ではない。
六年前。
十二歳の私が書いて、陛下に献上した改正案だ。
あの年の誕生日、殿下は「必ず行く」と約束してくださった。
私は一日中、窓の外を見て待っていた。
殿下はいらっしゃらなかった。
翌日、理由を尋ねた私に、殿下は笑っておっしゃった。
「あんなの、言葉の綾だよ」
誕生日の約束だけではなかった。
剣術大会を見に来てほしいと言われて、雨の中で三時間待ったこともある。
手紙の返事を書くと言われて、一年待ったこともある。
そのたびに殿下は、同じ言葉で笑った。
その夜、私は図書館の閲覧室で泣きながら、一つの条文を書いた。
王族の言葉は、軽くあってはならない。
読めない古語を一文字ずつ直してくれたのは、隣の机で写本の修繕をしていた、年上の少年だった。
陛下は、十二歳の子どもが書いたその条文を、何も言わずに典範へ加えてくださった。
殿下は、それさえ一度も読まなかったけれど。
「八歳のあなたは、典範の字が読めずに閲覧室の隅で泣いていました。十二歳のあなたは、泣きながら条文を書いていた」
レオン様は、手すりの上の典範にそっと手を置いた。
「あなたが殿下のためにどれだけのものを積み上げてきたか、ずっと見ていました。だから、ずっと黙っていました」
「でも、もう黙っている理由がなくなりましたので」
レオン様は私の前に立ち、胸に手を当てる。
「セシリア・ヴァレンティーヌ嬢。あなたが読み上げる声を、これからは私のそばで聞かせてもらえませんか」
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
私は典範に目を落とし、わざと澄ました顔を作った。
「……典範によれば、婚約を解かれた令嬢への求婚は、陛下の裁可を得てからでなければなりません」
「第六十一条ですね。存じています」
レオン様は、即答した。
「ですから明日の朝一番に、陛下のところへ参ります。今夜はお返事だけ、先にいただけませんか」
十年ぶりに、王子妃教育の笑顔ではない顔で、私は笑った。
「はい。喜んで」
◇
一年後。
私は王立図書館の奥にある典範編纂室で、新しい写本の校正をしている。
陛下のお計らいで、典範を管理する編纂官の職をいただいたのだ。
女性が就くのは、建国以来初めてだという。
南向きの小さな部屋には、古い写本と辞書がぎっしり並んでいる。
窓際の机は、閲覧室の南の窓際、三番目の机と同じ角度で置いてもらった。
そこに座ると、十年分の午後の光を思い出す。
隣の机では、今日もレオン様が写本の修繕をしている。
分からない字があって頁を差し出すと、黙って余白に読み方を書いてくれる。
あの頃と、何も変わらない。
あの夜会のあと、王宮ではちょっとした変化が起きた。
若い王族や貴族の子弟が、こぞって典範を読み始めたのだ。
「第九十九条を知らずに恥をかくのはごめんだ」というのが、もっぱらの理由らしい。
閲覧室は連日満席で、レオン様は「写本の修繕が追いつかない」と嬉しそうに嘆いている。
第二王子のユリウス殿下も、そのお一人だ。
十四歳の殿下は毎週欠かさず編纂室に通ってきて、条文の由来を一つずつ尋ねていく。
先日などは、第九十九条の頁を開いて、真剣な顔でこうおっしゃった。
「セシリア先生。僕は、真実の愛を見つけても、三年は黙っていることにします」
その話をお伝えしたら、陛下は声を上げてお笑いになった。
「セシリア。北から手紙が届いていますよ」
夫になったレオン様が、封筒を二通持って入ってくる。
グレイ砦からの便りは、雪解けを待たなければ届かない。
半年ぶりの手紙だった。
一通目は、フローラ様からだった。
『セシリア様、お元気ですか。グレイ砦はとてもいいところです。村の子どもたちに文字を教えていたら、先生と呼ばれるようになりました。アルベルト様は毎朝、薪を割っています。最初は三本で倒れていましたが、今は三十本割れます。すごいです』
思わず、笑ってしまう。
フローラ様はきっと本当に、殿下のことが好きなのだ。
二通目は、殿下からだった。
便箋いっぱいに、震える字が並んでいる。
『セシリア、頼む。父上に口添えしてくれ。ここは寒い。薪割りで手が割れた。フローラは毎日楽しそうだが、僕はもう限界だ。婚約破棄は間違いだった。あの宣言は、言葉の綾だったんだ』
言葉の綾。
六年前と、同じ言葉。
私は便箋を丁寧に畳み、机の上の典範を開いた。
返事の便箋に、二つの条文を書き写す。
『第九十九条。三年を経てなお愛が変わらぬときに限り、国王はその婚姻を許す』
『第百条。一度宣言した言葉を、己の都合で翻した王族は、言葉の重みを知らぬ者とみなす』
その下に、一行だけ添えた。
『あと二年です。フローラ様を、どうか大切に』
「それだけでいいのですか?」
手元を覗き込んだレオン様が、面白そうに言う。
「ええ。殿下は最後まで、ご自分では典範をお読みにならないでしょうから」
私はペンを置き、封筒に蝋を垂らした。
「真実の愛を見つけたとおっしゃったのですもの。何度でも、読み上げて差し上げますわ」
↓番外編「閲覧室の南の窓際、三番目の机」(レオン視点。六年間黙っていた想いと、夜会の翌朝)
https://note.com/wise_turtle184/n/n7f28887e4d38
↓続編連載版なろうリンク
https://ncode.syosetu.com/n9443mu/




