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甘サド令嬢の婚活事情

作者: あうまる
掲載日:2026/07/12

「このたびの縁談はなかったことにしていただきたい」


 クロイス侯爵家の三男ジュリアンは青ざめた顔でそう告げた。


 アルヴェール伯爵家の応接室ではジュリアンと父親のクロイス侯爵がセレフィーナと父オルフェウス伯爵に向かい合って座っている。セレフィーナは動じることなく膝の上で両手を重ねた。


「まあ、理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「理由はあなたが一番よく分かっているはずだ」


「わたくしにはまるで心当たりがありませんわ」


 セレフィーナが小首を傾げる。腰まで伸びた淡い金髪が肩の上をさらりと流れた。その微笑みは穏やかで薄紫色の瞳にも敵意の欠片はない。


 けれどジュリアンは猛獣を前にしたように身を引いた。


「婚約者候補に領地の水害対策を考えろと言う令嬢がどこにいる!」


「領民の暮らしに関わる問題ですもの。将来わたくしの隣に立つ方ならよい案を出してくださると思いまして」


「案だけではないだろう!現地へ行き泥に膝まで浸かって堤防を調べろと言ったではないか!」


「現場を見ずに適切な対策を立てるのは難しいでしょう?」


「私は侯爵家の人間だぞ!」


「存じております」


「ならばなぜ土木作業員のような真似をさせる!」


 ジュリアンは立ち上がった。怒りに身体を震わせるたび銀髪を飾る宝石の留め具も揺れた。


「あなたは美しい。家柄も申し分ない。だが結婚した男を笑顔で酷使する女だという噂は本当だった!」


「まだ婚約もしておりませんのに酷使などしておりませんわ」


「もうたくさんだ!」


 ジュリアンは足音を響かせ応接室を出ていった。残された侯爵は気まずそうに頭を下げると甥の後を追った。


 扉が閉まる。しばしの静寂の後、向かいの長椅子に座っていたオルフェウス・アルヴェール伯爵が深く息を吐いた。


「これで何人目だ」


 金色に近い灰色の髪をかき上げ伯爵は眉間を押さえた。


「今年に入ってからでしたら…三人目ですわ」


「去年から数えろ」


「数える必要がございますか?」


「あるから聞いている」


 セレフィーナは少し考えた。


「七人でしょうか」


「九人だ」


「まあそうでしたか」


「その顔はやめなさい」


「どの顔でしょう」


「本当に心当たりがないという顔だ」


 セレフィーナの背後では侍女のミレーヌが無言で立っていた。赤みのある茶髪をきっちりとまとめいつもどおり涼しげな表情をしている。ただし片方の眉がわずかに上がっていた。


 セレフィーナは侍女へ視線を向ける。


「ミレーヌ。お父様はわたくしが悪いとお考えのようです」


「旦那様のお考えは妥当かと存じます」


「あなたまで」


「婚約者候補に雪山で薬草を摘ませる方は多くありませんので」


「あの方はご自分が登山を得意としているとおっしゃったのよ」


「雪のない季節に、ともおっしゃっていました」


 セレフィーナは黙った。オルフェウス伯爵が机を指で叩く。


「いいかセレフィーナ、お前が夫となる男に最低限の能力を求めることは構わない。家を守る責任も領民を支える責任もある」


「では問題ないのでは?」


「限度というものがある」


「できないことを命じているわけではありませんわ」


「できるかどうかをなぜお前が楽しそうに試す必要がある」


「楽しそうになどしておりません」


 ミレーヌの眉がもう少し上がった。セレフィーナは咳払いをした。


「少々期待しているだけです」


「お前の少々は他人の胃に穴を開ける」


 伯爵は立ち上がった。


「来週、王都で婚姻相手を探すための集まりがある。お前も参加しなさい」


「またですか」


「今度は相手に課題を出すな」


「何も見極めずに選べと?」


「踊って交流し会話をしろ。普通の令嬢がするようにだ」


「努力いたします」


「その返事ほど信用できないものもない」


 伯爵が部屋を出た後セレフィーナはミレーヌを振り返った。


「わたくしはそれほど無理なことを申しているかしら」


「お嬢様は相手が困難に直面した時の顔をご覧になるのがお好きです」


「人聞きが悪いわ」


「事実です」


「困っている顔が好きなのではありません。諦めずに考える姿が好きなのよ」


「そして限界まで追い込んだ後で助けるのもお好きです」


「最後まで放置するほど冷たくはありませんもの」


「その性格を理解できる方を探すほかありません」


 セレフィーナは窓の外へ目を向けた。


「そのような方がいらっしゃると思う?」


「わたくしには判断いたしかねます」


 ミレーヌは淡々と答えた。




 翌週、セレフィーナは王都の公爵邸で開かれた婚姻相手探しの集まりに出席した。広い広間では未婚の令嬢や令息が会話と音楽を楽しんでいる。


 セレフィーナが姿を見せると周囲の視線が集まった。美貌の伯爵令嬢として名高い一方で婚約者候補に無理難題を課す悪名も知れ渡っていた。


 近づいてくる令息はいるものの挨拶を交わしてしばらくすると皆が何かを思い出したように離れていく。セレフィーナは微笑みを保ったまま壁際に立つミレーヌに向かって声を潜めた。


「皆様お忙しいようね」


「お嬢様から離れることに忙しいのでしょう」


「失礼ね」


「先ほどの方は猟犬の扱いに詳しいとおっしゃった直後にお嬢様が質問しようとなさっただけで逃げました」


「まだ何も申しておりません」


「お顔に出ておりました」


 セレフィーナは扇で口元を隠した。ふと視線を移すと広間の隅にある料理の並んだ卓の前で一人の青年が真剣な顔をして肉料理を皿へ載せていた。


 濃い茶髪は少し乱れている。身につけた礼服も丁寧に手入れされてはいるものの古い。高価な酒には手を出さず保存の利きそうな焼き菓子を布に包もうとしている。


「ミレーヌ、あの方は?」


「レオンハルト・ベリオール様。ベリオール子爵家の次男です。御実家は数年前から領地経営に苦しみ借金を抱えていると聞いております」


「婚姻相手を探しにいらしたのではないの?」


「食事が目的に見えます」


 レオンハルトは周囲の視線を気にしている様子もなく今度は果実入りの焼き菓子を選んでいた。セレフィーナは彼の前まで歩いていった。


「そちら、お好きなのですか?」


 声をかけられたレオンハルトは焼き菓子をつかんだまま固まった。


「これは…」


「持ち帰るおつもり?」


「違います」


「では今お召し上がりになるのね」


「持ち帰るつもりでした」


 あっさり訂正した。セレフィーナは目を瞬く。


「正直でいらっしゃるのね」


「見つかった以上言い訳を重ねても仕方がありません」


「どなたへのお土産です?」


「父と兄です。二人ともこのような集まりに顔を出す余裕がありませんので」


「ご家族思いでいらっしゃるのね」


「菓子を持ち帰る程度で評価を上げようとは思っていません」


 レオンハルトは包みを懐へしまった。


「アルヴェール伯爵令嬢ですね」


「ご存じでしたの?」


「この場であなたを知らない男はいないでしょう」


「それは光栄ですわ」


「ただし近づきたがる男もいないようですが」


 セレフィーナの笑みがわずかに深くなった。ミレーヌが遠くで目を伏せる。


「失礼な方」


「申し訳ありません。婚姻相手を探すつもりはありませんので印象をよくする必要もありません」


「ではなぜここへ?」


「主催者からの招待を断れなかっただけです。食事をいただいたら帰ります」


「ご実家が苦しいのでしたら結婚によって支援を得ようとは思わないのですか?」


「家を救うために関係のない令嬢を巻き込むつもりはありません」


「ずいぶん立派なお考えですこと」


「褒められるような話ではありません。単に私の条件では支援してくれる家がないだけです」


 レオンハルトは空になった皿を置いた。


「それでは失礼します」


「お待ちになって」


 セレフィーナは彼を呼び止めた。


「わたくしと結婚を前提にお付き合いなさいませんか?」


 レオンハルトが振り返った。


「嫌です」


 迷いのない返事だった。セレフィーナの微笑みが止まる。


「理由を伺っても?」


「あなたと結婚した男は毎朝命懸けの課題を出されると聞いております」


「誰がそのようなことを」


「雪山へ薬草を摘みに行かされた方です」


「あの方は大げさです。必要な装備はすべて用意しました」


「行かせたこと自体は事実なのですね」


 レオンハルトは小さく息を吐いた。


「私は家の借金だけで手いっぱいです。これ以上問題を抱える余裕はありません」


「問題とはわたくしのこと?」


「ご自覚があるようで安心しました」


 そう言って立ち去ろうとする彼の背中にセレフィーナは告げた。


「一か月で赤字の葡萄園に黒字化の道筋をつけてください」


 レオンハルトの足が止まった。


「アルヴェール家が所有する葡萄園の一つです。ここ数年赤字が続いております。一か月後までに黒字化の見通しを立ててくだされば相応の報酬をお支払いします」


「婚約ではなく?」


「成功なさった時改めて考えていただければ結構です」


「失敗した場合は?」


「働いた分の日当はお支払いします」


 レオンハルトは振り向いた。灰青色の瞳が疑うように細められている。


「なぜ私なのです」


「逃げる前に話を最後まで聞いてくださったからですわ」


「菓子を持ち帰ろうとしていただけですが」


「それにわたくしに『嫌だ』とはっきりおっしゃいました」


「普通は怒るところでは?」


「とても新鮮でした」


 セレフィーナは微笑んだ。


「無理だと思われますか?」


 レオンハルトの眉間に皺が寄った。その表情を見てセレフィーナの胸がわずかに弾む。考えている。逃げずに条件と可能性を測っている。


「一か月で黒字化ではなく、黒字化の見通しを立てればよいのですね」


「ええ」


「経営に関する権限は?」


「必要な範囲で権限をお委ねします」


「失敗しても借金を背負わされることは?」


「ございません」


「報酬額を書面で確認しても?」


「もちろんです」


 レオンハルトはしばらく黙った後息を吐いた。


「分かりました。引き受けます」


「まあ」


「ただし婚約については別の話です」


「承知しておりますわ」


 セレフィーナは扇で口元を隠した。その目が楽しげに細くなっていることにレオンハルトはまだ気づいていなかった。




 アルヴェール家が所有するローデル葡萄園は王都から馬車で半日の場所にあった。初めてそこを訪れたレオンハルトは荒れた畑を前に立ち尽くす。


 葡萄の枝は好き勝手に伸び支柱の多くは傾いている。水路には泥が詰まり倉庫の屋根も一部が落ちていた。


「聞いていたよりひどい」


「帰るなら今のうちだぞ」


 管理人のガストンが言った。日に焼けた大柄な男でレオンハルトを見る目には露骨な不信が浮かんでいる。


「お嬢様が何を考えているか知らんが葡萄を育てたこともない若造に任せるような場所じゃない」


「私も同感です」


「なら帰れ」


「帰れば日当が出ません」


 レオンハルトは上着を脱いだ。


「まず帳簿を見せてください」


「見て何が分かる」


「何も分からないかもしれません。だから確認します」


 ガストンは鼻を鳴らしたが事務所へ案内した。葡萄園の帳簿は五年分が棚に積まれている。売り上げは年々落ちているのが見て明らかだ。収穫量の減少に加え取引先も減っていた。設備修繕に金を回せず品質も安定していない。


 レオンハルトは三日間帳簿と畑を往復した。


 四日目には作業着を借り使用人とともに水路の泥をさらった。


 五日目には手の皮がむけた。


 六日目セレフィーナが葡萄園を訪れた。


「ご機嫌ようレオンハルト様」


 薄桃色の外出着に身を包んだ彼女は泥だらけのレオンハルトを見て微笑んだ。


「よくお似合いですわ」


「何がです」


「泥が」


「喧嘩を売りに来たのですか?」


「進み具合を確認しに参りました」


 レオンハルトは汚れた手を布で拭いた。


「確認に来られてもすぐに利益が出るわけではありません」


「あと二十四日ですわね」


「数えなくても分かっています」


「逃げても構いませんのよ」


「日当は出るのでしょうね」


「もちろん」


「なら最後まで働きます」


 セレフィーナの笑みが深くなった。


「今日はお昼をご用意しましたの」


「必要ありません」


「料理人が朝から準備したのです」


「それを先に言ってください」


 木陰に並べられた籠には肉のパイや柔らかなパン、冷たい果実水が入っていた。葡萄園の使用人たちにも同じものが用意されている。レオンハルトは座り込み勢いよくパンを食べた。


「食事で懐柔されるつもりはありません」


「もう二つ目を召し上がりながら言われても説得力がありませんわ」


「働いているので腹が減るのです」


「三つ目もどうぞ」


「いただきます」


 セレフィーナは向かいに腰を下ろした。


「問題は見つかりまして?」


「多すぎてどれから手をつけるか迷っています」


「まあ、困っていらっしゃるのね」


「なぜうれしそうなのです」


「気のせいですわ」


 レオンハルトは疑わしげに彼女を見た。


「一つ聞いても?」


「どうぞ」


「この葡萄園には古木が多い。樹齢が長いぶん収穫量は少ないようですが、なぜすべて植え替えなかったのです」


「管理人が反対したからです」


「伯爵家なら命じれば済むでしょう」


「葡萄を最も理解している方の意見を無視する必要はありませんもの」


「ではあなたはこの葡萄園を潰すつもりではない」


「潰すつもりなら課題にはいたしません」


 セレフィーナは立ち上がった。


「期待しておりますわレオンハルト様」


「何を期待しているのです」


「あなたがどのようなお顔で答えを見つけるのかを」


 そう言って去っていく彼女の背を見送りながらレオンハルトは眉間を押さえた。


「やはり性格が悪い」


 少し離れた場所でミレーヌが静かにうなずいていた。




 十日目、レオンハルトは事務所の棚から一冊の古い記録を見つけた。過去にこの葡萄園で造られていた酒の評価を書き留めたものだった。


 現在の葡萄酒は安価な食卓酒として売られている。だが二十年前、この土地の古木から造られた酒は香りが深く、王都の愛好家に高く評価されていたらしい。


 なぜこの記録が帳簿棚の一番取り出しやすい場所に置かれていたのか。レオンハルトは疑問に思ったが答えは出なかった。


 十一日目にはエドガー・フェルナンと名乗る醸造職人が現れた。


「近くを通った」


 黒髪を後ろで束ねた痩せた男はそれだけ言った。


「近くに町はありませんが」


「道を間違えた」


「醸造器具を持って?」


「習慣だ」


 明らかに怪しい。だがエドガーは古い酒樽を一目見ただけで状態を言い当て、畑の土を指でつまむと排水の悪さを指摘した。


「古木を捨てるな」


「しかし収穫量が少なすぎます」


「量を売るから足りなくなる」


「高く売れと?」


「高く売れるものを造れ」


 それ以上は何も教えなかった。レオンハルトは古い記録を読み直しガストンと話し合った。


 すべての畑を救うのは不可能。ならば状態の悪い区画を切り捨て古木が残る斜面に人手と資金を集中させる。安価な酒を大量に出荷する契約は縮小し、今年の収穫分は少量の上質な酒として売り出す。


 問題はまだ出来上がっていない酒を誰が買うかだった。


「試飲会を開きます」


 レオンハルトが言うとガストンは顔をしかめた。


「今年の酒はまだない」


「倉庫に残っている樽があります」


「あれは売り物にならん。量も足りん」


「売るのではなく過去の味を知ってもらうために使います。今後の酒が同じ品質になる保証はありませんが、畑と製法を見せて予約を取ります」


「貴族は泥だらけの畑になど来んぞ」


「来る理由を作ります」


「どうやって」


 レオンハルトはそこで黙り込んだ。王都に人脈などない。実家の名前を使っても借金を抱えた子爵家の次男の招待に応じる者はいないだろう。


 その日の夕方、事務所に一通の封書が届いた。差出人はセレフィーナ。中には王都で食料品や酒を扱う商人たちの一覧が入っていた。手紙にはこう書かれていた。


『名簿は差し上げますが交渉まではいたしません。わたくしに頼らずご自分で説得してくださいませ』


 レオンハルトは手紙を握りしめた。


「最初から見ているではないか」


 翌日から彼は王都と葡萄園を何度も往復した。商人の多くは会ってすらくれなかった。


 会えた者も実績のない葡萄園の商品を予約するつもりはないと断った。それでもレオンハルトは古い記録と畑の再建計画を持って通い続ける。


 十七日目、ようやく一人の商人が試飲会への参加を約束した。


 十九日目には料理店を経営する商人が興味を示した。


 二十一日目、セレフィーナが再び葡萄園を訪れた。


 レオンハルトは畑で支柱を直していた。頬は日焼けし手には包帯が巻かれている。


「ずいぶん逞しくなられましたわね」


「誰のせいだと思っているのです」


「ご自分で引き受けたのでしょう?」


「あなたが挑発したからです」


「挑発された程度でこれほど働かれるとは思いませんでした」


「嘘をつかないでください」


 レオンハルトは金槌を置いた。


「古い記録を棚に置いたのはあなたでしょう」


「何のことでしょう」


「エドガー殿を呼んだのも」


「偶然道に迷われたのでは?」


「醸造器具を持って道に迷う職人がどこにいます?」


 セレフィーナは扇を開いた。


「証拠はございますか?」


「ありません。ですが確信しています」


「ではどうなさいます?」


「礼を言います」


 扇の向こうでセレフィーナが目を瞬いた。


「私を試して楽しんでいるのでしょうが成功への道まで塞ぐつもりはない。それは分かりました」


「買いかぶりですわ。古い記録を見つけたのはあなたに課題を出す少し前です。古木に価値があるらしいとは分かっても再建の道筋までは見つけられませんでしたもの」


「あなたは性格が悪い」


「否定いたしません」


「ですが冷酷ではない」


 セレフィーナの扇がゆっくりと下がった。いつもの余裕ある微笑みがほんの少しだけ薄れる。


「そのように言われたのは初めてですわ」


「みんな逃げるのが早すぎるのでしょう」


「あなたも最初は逃げようとなさったではありませんか」


「菓子を持って帰る予定でしたから」


「まだ覚えていらしたのね」


「帰りの馬車で包みを潰してしまい父と兄には渡せませんでしたが」


「それはお気の毒に」


「代わりに今度葡萄酒を送ります」


「成功すればですわね」


「成功させます」


 レオンハルトは再び金槌を手に取った。


「あなたが困った顔をするところを見るために」


 セレフィーナはしばし黙りそれから微笑んだ。


「楽しみにしておりますわ」




 二十五日目の夜、激しい雨が降った。


 水路を直した区画は持ちこたえたが古木が集まる斜面の一部で土が崩れた。知らせを受けたレオンハルトは夜明け前から畑へ出た。このまま雨が続けば斜面全体が崩れる可能性がある。


「全部は守れん!」


 ガストンが怒鳴った。


「上の区画を諦めろ!下の倉庫と苗木を守るんだ!」


「古木を失えば計画が成り立ちません!」


「人が死んだら計画どころじゃない!」


 レオンハルトは雨の中で斜面を見上げた。ここまで手をかけてきた。ようやく商人との話も進み試飲会の準備も整い始めた。古木を失えば高級酒として売り出す計画は大きく後退する。けれどすべてを救おうとすれば人手が分散する。


 試飲会の準備のためセレフィーナは前日から近隣の別邸に滞在していた。知らせを受けたセレフィーナを乗せた馬車が葡萄園へ到着し、外套をまとった彼女が降りてきた。


「状況は?」


「見れば分かるでしょう」


 レオンハルトは苛立ちを隠せなかった。


「助けに来たのですか。それとも私が困っている顔を見に?」


「両方ですわ」


「帰ってください」


「嫌です」


 初めて会った時の自分と同じ返事をされレオンハルトは言葉を失った。セレフィーナの後ろには伯爵家から連れてきた十数人の作業員がいた。


「人手をお貸しします。どこを守るかはあなたがお決めになって」


「判断まで私に押しつけるのですか」


「あなたが任されている葡萄園ですもの」


 雨が二人の間を流れていく。セレフィーナは笑っていなかった。


「全部を守ることはできません」


 レオンハルトが言う。


「ええ」


「上の古木は一部を失います」


「ええ」


「下の苗木と倉庫、それから働く者たちの安全を優先します」


「承知しました」


「それでよいのですか」


「決めるのはあなたです」


 レオンハルトは拳を握り作業員たちを振り返った。


「下の水路を広げる!倉庫へ流れ込む水を外へ逃がせ!上の区画には近づくな!」


 作業員が一斉に動き出す。セレフィーナも外套の裾を持ち上げ土嚢を運ぼうとした。


「何をしているのです」


「見れば分かるでしょう」


「あなたは伯爵令嬢でしょう」


「存じております」


「泥に入る必要はありません」


「現場を見ずに適切な対策を立てるのは難しいのでしょう?」


 それはかつてジュリアンにも告げた言葉だった。レオンハルトは額を押さえた。


「本当に性格が悪い」


「今さらですわ」


 二人は朝まで働いたが古木の三割を失った。それでも苗木と倉庫は守られ作業員にも怪我人は出なかった。


 雨が上がる頃セレフィーナは泥まみれの姿で切り株に腰を下ろしていた。淡い金髪は濡れ頬にも泥がついている。レオンハルトは隣に座った。


「せっかくのドレスが台無しですね」


「あなたに請求いたします」


「日当から引くのはやめてください」


「冗談ですわ」


 セレフィーナは崩れた斜面を見つめた。


「後悔していらっしゃる?」


「しています」


「古木を守れなかったことを?」


「もっと早く斜面を補強できなかったことを」


「すべて分かっていたなら最初から赤字にはなっておりません」


「慰めているのですか」


「まさか」


「ではなんです?」


「次に同じことが起きた時、今度は失わずに済みますわ」


 レオンハルトは横目で彼女を見た。


「やはりあなたは人が苦労する姿が好きなのでしょう」


「少しだけ」


「認めるのですね」


「苦労そのものが好きなのではありません」


 セレフィーナは濡れた手袋を外した。


「困難を前にして考え、迷い、それでも立ち上がる姿が好きなのです。何もせずに与えられたものを受け取るだけの方を隣に置きたいとは思いません」


「だから試すと?」


「ええ」


「嫌われても?」


「慣れておりますわ」


 微笑んだ顔はいつもより少しだけ寂しそうだった。レオンハルトは立ち上がった。


「それでは戻ります」


「少し休まれては?」


「試飲会まで四日しかありません」


「古木を失ったのですよ」


「全部ではありません」


「無理をなさらないで」


 レオンハルトは振り返る。


「あなたがそれを言うのですか?」


「わたくしにも限度はございます」


「初耳です」


「失礼な方」


「ですが今のは覚えておきます」


 彼はセレフィーナへ手を差し出した。


「立てますか?」


「一人で立てますわ」


「では手を引きます」


「聞いていらした?」


 そう言いながらもセレフィーナは差し出された手を取った。




 三十日目、ローデル葡萄園では小さな試飲会が開かれた。訪れたのは王都の商人、料理店の経営者、数人の貴族、それからアルヴェール伯爵だった。


 用意された酒は倉庫に残っていた古い葡萄酒の樽からエドガーが状態のよいものを選び、澱を取り除いて試飲用に整えたものだった。今年の酒ではない。それでも古木から造られる酒の可能性を示すには十分だった。


 レオンハルトは畑の再建計画、収穫量、製法、販売価格を説明した。


「大量には造れません」


 集まった者たちを前に彼は言った。


「安価な食卓酒として売るならローデル葡萄園に勝ち目はありません。ですがこの土地に残る古木にはここでしか造れない味があります」


 商人の一人が尋ねる。


「今年の葡萄で同じ品質になる保証は?」


「ありません」


 会場がざわついた。


「保証できないものを予約しろと?」


「事前に定めた品質基準に届かなければ予約金はすべて返します。ただ基準を満たした場合は契約どおり買い取っていただきたい」


「葡萄園側には不利な条件だ」


「信用がない以上こちらが危険を負うしかありません」


 レオンハルトは頭を下げた。


「もし満足いただける酒ができた時には次の年以降も取引を続けていただきたい」


 しばしの沈黙の後、最初に葡萄園へ来ると約束した商人が笑った。


「面白い。二十樽分を予約しよう」


 料理店の経営者も続いた。


「うちは五樽だ。料理に合わせて出したい」


 その後も予約が入り用意していた契約書が次々と埋まっていった。現時点ではまだ利益は出ていない。だが設備修繕費を差し引いても翌年には黒字化できる見通しが立った。


 試飲会が終わる頃、オルフェウス伯爵はレオンハルトの前へ歩み寄った。


「一か月でよくここまで黒字化への道筋をつけた」


「一人では不可能でした。管理人と職人、それから伯爵家の支援があったからです」


「支援を使える形にするのも任された者の仕事だ」


 伯爵は娘へ視線を向けた。


「セレフィーナ、お前の評価は?」


「合格ですわ」


「ずいぶん上からですね」


 レオンハルトが言う。


「課題を出したのはわたくしですもの」


「では報酬をいただきます」


「契約どおりお支払いいたします」


「それだけではありません」


 レオンハルトはセレフィーナの前へ立った。葡萄園の者たちが何事かと二人を見守っている。


「婚約について改めて考えるという話でした」


「ええ」


「考えました」


 セレフィーナは扇を開いた。


「結論は?」


「あなたに婚約を申し込みます」


 周囲からなどよめきが起きた。セレフィーナは扇の向こうからレオンハルトを見つめる。


「後悔なさいますわよ」


「すでに何度かしています」


「わたくしは結婚後もあなたを試すかもしれません」


「知っています」


「難題を出すかもしれません」


「断ることもあります」


「わたくしを困らせるおつもり?」


「そのために申し込むのです」


 セレフィーナの目がわずかに見開かれた。


「では最初の課題ですわ」


「もう始まるのですか」


「結婚までにベリオール子爵家の借金を半分にしてくださいませ」


 周囲が静まり返った。レオンハルトは真顔で考え込み、それから深く息を吐いた。


「やはり結婚は考え直します」


 セレフィーナの笑みが固まった。


「そう…ですか…」


「はい」


「無理にとは申しませんわ」


「それでは失礼します」


 レオンハルトが背を向ける。セレフィーナの指が扇を強く握った。


「お待ちになって」


 彼女の声にわずかな焦りが混じる。レオンハルトは数歩進んだところで振り返った。


「何でしょう」


「今のは…課題というより目標です。期限については相談の余地がございますし、必要であれば資金計画も――」


 そこでレオンハルトが笑った。いつも眉間に皺を寄せていた青年が初めて心から楽しそうに笑っていた。


「嘘です」


「…はい?」


「あなたが困った顔をするところを一度見てみたかった」


 セレフィーナは言葉を失った。薄紫色の瞳が揺れ白い頬が赤く染まっていく。ミレーヌがそっと目を伏せた。オルフェウス伯爵は口元を押さえ笑いをこらえている。


「レオンハルト様」


「はい」


「性格が悪くていらっしゃるのね」


「あなたほどではありません」


「婚約の件、取り消してもよろしいのですよ」


「困ります」


「即答なさるのね」


「逃げると少しだけ失望されるのでしょう?」


 セレフィーナは扇で顔を隠した。


「嫌いですわ、あなたなど」


「それも嘘ですね」


「なぜ分かるのです」


「あなたは嘘をつく時、声が少しだけ硬くなる」


 扇を少し下げセレフィーナが彼を睨む。けれどその目には怒りよりも羞恥が勝っていた。


「借金は半分にします」


 レオンハルトは言った。


「日当だけに頼るつもりはありません。父と兄とも相談し領地の支出を見直します」


「できなければ?」


「あなたが助けてくれるのでしょう」


「どうしてそう思われますの」


「あなたは無理難題を出す時には必ず成功する道をどこかに用意している」


 セレフィーナは静かになった。


「それでも歩くのはあなたですわ」


「ええ、ですが転びそうになった時には手を差し出してください」


「気が向けば」


「私もあなたが困った時だけ助けます」


「わたくしは困りません」


「先ほど困っていました」


「忘れなさい」


「一生覚えておきます」


 レオンハルトは彼女の前で片膝をついた。


「セレフィーナ・アルヴェール伯爵令嬢、私と結婚してください」


 セレフィーナはしばらく彼を見下ろしていた。いつものように相手を試す言葉はいくつも思い浮かんだ。


 家を支えられるのか、領民を守れるのか、自分の隣に立ち続けられるのか、けれどそのどれも口にはしなかった。


「はい」


 ただ一言そう答えた。レオンハルトが立ち上がる。


「ずいぶん素直ですね」


「撤回いたしましょうか」


「困ります」


「では次の課題を──」


「今日はもう終わりです」


「わたくしの話を遮るなんて」


「今後は慣れていただきます」


 セレフィーナは唇を尖らせた。それを見たレオンハルトがまた笑う。


 彼女はようやく気づいた。自分が探していたのはどんな難題にも従う男ではない。難題を前に逃げず必要なら反論し、時には自分を困らせ言い返す男だったのだ。


 こうして婚約者候補を九人逃がした伯爵令嬢の婚活は終わった。ただし彼女が結婚後も夫へ難題を出し続けたためアルヴェール伯爵家の使用人たちは二人の婚姻生活についてこう語った。


 甘いのか厳しいのかは誰にも判断できない。


 ただ本人たちだけはひどく楽しそうだ、と。

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