第七章 客間をあずかる娘
座布団を並べる。
障子の開け幅を決める。
畳の目を乱さず、埃を払う。
それらはもちろん大事だ。
宿の部屋は、誰が見てもきちんとしていなければならない。
けれど第十四作のここまで客間を見てきて、湊はようやく、その“きちんと”だけでは足りないのだと思い始めていた。
どのくらい風を通すか。
どのくらい声を落ち着かせるか。
どのくらい沈黙をそのままにしておくか。
その日の人に合わせて、部屋のほうの速度を少しずつ変えること。
それができて初めて、人は客間をただ整える人から、客間をあずかる人になるのだろう。
第十四作の終盤に来て、汐里はまさにそのところへ近づき始めているように見えた。
翌朝、空は明るかった。
まだ夏の直射ではないが、障子越しの光の白さに、もう少しだけ芯がある。
庭の葉も、春のころよりはっきりと影を落とすようになっていた。
初夏は、部屋の中へ入る光にも“選ぶ感じ”を持たせ始めるのかもしれない。
どこまで通すかで、畳の明るさも、人の声の置かれ方も変わる。
そういう季節なのだろう。
朝食の片づけを終えると、汐里は客間へ入って、しばらく何もせず部屋の中央に立っていた。
それから障子を一枚だけ少し狭め、座布団の一枚を半畳ぶんだけずらした。
篠原に見せるためでも、誰かに褒められるためでもない。
今日の客間の速度を、自分で決めている手つきだった。
「今日は」
湊が言う。
「ええ」
「少し締めるんですね」
「はい」
汐里は障子の明るさを見ながら答える。
「どうしてですか」
「光が少し強いので」
「ええ」
「このままだと、部屋が“すぐに話す部屋”になりすぎる気がして」
「……」
「今日はもう少し、座ってから落ち着くほうへ寄せたいんです」
「かなり大事ですね」
湊は静かに言った。
部屋が“すぐに話す部屋”になる。
その感覚は、とても鋭かった。
客間は、ただ明るければよいわけではない。
光が多すぎれば、人の声も早く上がってしまうのかもしれない。
初夏の部屋をあずかるとは、そういう細かな加減を知ることなのだろう。
その日の午前、近所の女が用事で上がった。
急ぎの話ではないが、短い相談事があるらしい。
汐里は自然に客間へ通し、湯を置く。
女は座ってから、すぐには話し出さなかった。
それでも気まずくない。
部屋の明るさが少し抑えられているせいか、沈黙が先に重くならず、ちゃんと“話す前の沈黙”として座っている。
やがて女は、小さめの声で話し始めた。
前日までの客間より、少し落ち着くのが早い。
それが、今日の調整の結果なのだろう。
「今の」
湊が言う。
「ええ」
汐里も頷く。
「少し早く、客間の声になりましたね」
「そうですね」
「今日は、そうしたかったんです」
「どういう意味で」
「昨日は」
「ええ」
「沈黙が部屋のほうに長く残る日だったので」
「はい」
「今日は、もう少し話しやすいほうへ寄せてもいいかなと」
「……」
「同じ客間でも、日によって違っていいんですね」
「それが」
湊は言った。
「“あずかる”ということなんでしょうね」
「はい」
汐里は静かに笑った。
その笑いには、もうかなり自分で部屋を扱えている人の落ち着きがあった。
昼前、篠原が来ると、客間を一目見てすぐ「今日は部屋の声が少し低いですね」と言った。
汐里は少し驚き、すぐに笑う。
ちゃんと伝わっているのだろう。
「分かりますか」
「ええ」
篠原が答える。
「障子の幅と、座布団の置き方で」
「……」
「人が最初に出す声の位置が変わります」
「そうですね」
湊も頷く。
「汐里さん、もう調整してます」
「かなり」
篠原は静かに言った。
「第十二作で庭をあずかり、第十三作で門をひらき」
「ええ」
「第十四作では、客間の声まで扱い始めている」
「そうですね」
その言葉を聞いたとき、シリーズ後半の流れがまた一段くっきり見えた。
橋。
坂。
待合。
岬。
庭。
門。
そして客間。
汐里は、場所ごとの時間を少しずつ自分のものとして扱えるようになってきているのだろう。
それは宿を継ぐということの、もっとも深いかたちの一つなのかもしれなかった。
「相沢さん」
汐里が言った。
「はい」
「前は、母みたいにできるかどうかばかり考えていました」
「そうでしたね」
「でも今は」
「今は?」
「母と同じ部屋にすることより」
「ええ」
「今日のこの部屋を、ちゃんと“今日の人に合う客間”にできるかのほうが大事な気がします」
「……」
「それが、母のやり方に近いのかもしれないって」
「かなりそうだと思います」
湊ははっきり答えた。
それは大きな変化だった。
母の形を保存するのではない。
母がしていたように、その日の人とその日の部屋を結び直していく。
汐里はもう、そこへ来ているのだろう。
午後、湊は一人で客間に入り、座布団のずれを自分の身体で確かめてみた。
少しだけ前と違う。
たったそれだけなのに、座ったときの背筋の落ち着き方が変わる。
きちんとしすぎず、だらけもしない。
話す前に、ひと呼吸置ける位置。
客間というのは、こういうごく小さな違いの集まりなのだろう。
だからこそ、あずかる人が要る。
ただ整えるだけなら、誰にでもある程度できる。
だが、その日の沈黙や声の高さを見て、部屋を少しだけずらすのは、やはりこの宿の時間を知った人にしかできないのかもしれなかった。
そこでふと、父がこの部屋に座った日のことをまた思った。
外にいるときより少し低い声。
そのあとの静けさ。
もしその日の客間が、いまのように誰かの手で少し整えられていたのなら、父はどのくらい話しやすかったのだろう。
それはもう確かめようのないことだ。
けれど、部屋は人の話しやすさや黙りやすさにたしかに関わる。
そのことを知ったあとでは、父の声もまた、ただ本人のものだっただけではなく、宿の客間に少し支えられていたのかもしれないと思える。
その見え方は、父をまた一段、生活の中へ戻すものだった。
夕方、近所の老婦が寄ったとき、汐里は客間へ通したあと、すぐには湯を持っていかなかった。
代わりに、先に少しだけ障子を開け直してから入る。
部屋の中の声の高さを見て、湯の湯気の量まで変えようとしているのかもしれない。
そう思うと、その小さな手つきにも、もう宿の主の細やかさが宿っているように見えた。
「いまのも」
湊が言う。
「ええ」
汐里は少し照れたように笑う。
「どうして分かったんですか」
「湯を先に持っていかなかった」
「はい」
「部屋の空気を一度見たかったんですね」
「そうなんです」
「どうして」
「その人、今日は少し声が高かったので」
「ええ」
「先に湯の湯気を入れると、余計に早く話し始めてしまいそうで」
「……」
「だから、まず部屋だけ少し整えたくて」
「かなり細やかですね」
「でも」
汐里は客間のほうを見ながら言った。
「こういうの、母もやってたんでしょうね」
「かなり」
湊は答えた。
「もう十分、そういう人になり始めています」
その言葉に、汐里はすぐには返さなかった。
けれど、客間の障子へ向ける視線に、前よりはっきりした自覚のようなものがあった。
彼女はもう、客間を使う人ではなく、客間の時間を引き受ける人へ移っているのだろう。
夜、ノートにはこう書いた。
――部屋を整えることと、部屋をあずかることは違う。
――客間をあずかるとは、その日の光、風、沈黙、声の高さに応じて、障子や座布団や湯気の量まで少しずつ変えることなのだろう。
――澄江はそれを知っていた。
――汐里はいま、母の客間を守るだけでなく、“今日の客間”を自分の手で決められる人になり始めている。
――第十四作で、彼女はまた一段、宿そのものの奥へ入っているのだろう。




