第四章 父の声
父の声を、湊はこれまであまり思い出してこなかった。
顔は思い出せる。
背中も思い出せる。
ホームに立つ姿、港の灯りの前にいる姿、門を出ていく後ろ姿。
だが声となると、ひどく曖昧になる。
大きかったのか、小さかったのか。
早口だったのか、ゆっくりだったのか。
何を言ったのかではなく、どんな高さで言ったのかが思い出せない。
それは不思議なことでもあり、ある意味では自然なことでもあるのかもしれなかった。
人の声は、場所によって変わる。
待合の声、門の声、庭の声、客間の声。
父にもきっと、それぞれ別の高さがあったのだろう。
第十四作で客間を見ているうちに、湊はようやく“父の声にも、部屋に置かれたときの高さがあったのではないか”と思い始めていた。
翌朝、宿には雨の手前の湿りがあった。
まだ降ってはいない。
だが雲は低く、障子越しの明るさも白い。
こういう日の客間は、風の通りでほどけるというより、空気の柔らかさそのもので人を少し落ち着かせるのだろう。
畳の匂いも前日より濃い。
声を張るには向かない日だ。
そのことが、今日の章にはよく似合う気がした。
声の高さを思うには、こういう朝のほうがいいのかもしれなかった。
朝食のあと、篠原が一枚の紙片を持ってきた。
宿帳の裏へ走り書きされたものらしい。
字は澄江のものではない。
だが、澄江が聞いたことを控えたのではないかと思われる短い覚え書きだという。
そこには、たった二行だけ、こうあった。
――あの人は客間へ通すと、外にいるときより少し低い声で話した。
――たぶん、部屋のせいでもある。
「これ」
湊が言う。
「ええ」
篠原が静かに頷く。
「“あの人”が誰かは断定できません」
「でも」
「でも、この時期の記録と重ねると、可能性はある」
「父親かもしれない」
「そうです」
その二行は、あまりにも短かった。
だが短いからこそ、逆に胸へ残る。
外にいるときより少し低い声。
部屋のせいでもある。
それだけで、父が一気に“話す人”としてこちらへ近づく気がした。
遅れた人、待つ人、出ていく人としてではなく、客間で少し声の高さを変えながら話した人として。
「母」
汐里が低く言う。
「ええ」
「これを覚えてたんですね」
「そうでしょうね」
「何を言ったかじゃなくて」
「どんな声だったかを」
「はい」
「それって」
彼女は少し息をついた。
「すごく母らしいですね」
「かなり」
湊は答えた。
澄江はずっと、人の言葉の結論より前のものを見てきた。
手。
足。
息。
順番。
そして、声。
客間ではとくに、それが大事だったのだろう。
何を話すかではなく、その人がどの高さまで自分の声を下ろせるか。
そこを見ていたのかもしれなかった。
「相沢さん」
汐里が言う。
「はい」
「父親って、外では少し高い声だったのかもしれませんね」
「どうして」
「港とか、駅とか、門とか」
「ええ」
「そういう場所では、自分の気持ちに声がまだ追いついてなくて」
「……」
「客間に入ると、少し下りてくる」
「それ、すごくありそうです」
湊は静かに答えた。
たしかにそうかもしれない。
外の場所では、人は少し無理をした声になることがある。
急いでいるようで急いでいない背中と同じように、声もまた半拍だけ前へ出すぎたり、逆に遅れたりするのだろう。
客間では、それが少し落ち着く。
父にも、そういう時間があったのかもしれなかった。
昼前、湊は一人で客間に座った。
障子は半分だけひらき、白い明るさが畳の目に沿って入っている。
声を出さずにいると、部屋の静けさは深い。
だが黙り込みを求める静けさではない。
むしろ、ここでなら少し低い声になれる、と思わせる静けさだった。
その感覚を確かめたくて、湊は小さく自分の名前を口に出してみた。
それだけで、思ったより声が丸く畳へ落ちる感じがあった。
客間とは、こういう部屋なのだろう。
人の声を吸い込むのではなく、少し下ろしてくれる部屋。
そこで、父がこの部屋にいたらと想像した。
姿勢は少しまだ固い。
だが、庭や門より一歩内側のこの場所で、ようやく外の高い声を脱ぎ始める。
「すみません」と言うかもしれない。
「少しだけ」と言うかもしれない。
あるいは具体のことは何も言えず、ただ座ってから息を一つして、ようやく低く「……そうか」と漏らすだけかもしれない。
それでも、その声はきっと外にいるときより本当の高さに近いのだろう。
そう思えるだけで、父はまた少し別の近さを持った。
午後、寺の若い副住職が相談事で訪れた。
帳場では話しづらい内容らしく、汐里は自然に客間へ通す。
最初の声はやや高く、速い。
だが二言三言のうちに、はっきりと半音ほど下がる。
その変化が、まるで客間そのものの働きのように見えた。
「今の」
湊が相談が終わったあとで言う。
「ええ」
汐里もすぐ分かったように答える。
「声、下りましたね」
「はい」
「最初は、門の外の声に近かった」
「でも途中から」
「客間の声になった」
「そうですね」
彼女は少し考えてから続けた。
「部屋って、やっぱり人に声を決めさせるんですね」
「かなり」
湊は頷く。
「母はそれを知っていた」
「そうですね」
「だから、話の内容じゃなくて、どこで話してもらうかを大事にしていたのかもしれません」
「はい」
その理解で、客間の役割はさらに明確になった。
単に落ち着いて話すための部屋ではない。
その人が自分の本当の声へ近づける場所として、客間が選ばれていたのだろう。
夕方近く、汐里は客間の座布団の位置をほんの少し変えた。
障子の開きも、一枚ぶん狭める。
今日は湿りがあるから、風より音の響きを少し抑えたいのかもしれない。
「変えたんですね」
湊が言う。
「はい」
「どうして」
「今日は、風でほどける日というより」
「ええ」
「声が落ちやすいほうがいい日かなと思って」
「なるほど」
「開けすぎると、少し外の音が多い気がして」
「……」
「客間の声まで下りる前に、町の声に引っぱられそうなので」
「かなり細かいですね」
湊が笑うと、汐里も少しだけ笑った。
「でも、母もたぶんこういうことをしてたんですよね」
「そうだと思います」
彼女はもう、母の仕事を“意味”としてだけではなく、“その日の調整”として引き受け始めているのだろう。
橋や坂や門と同じように、客間もまた日ごとに違う。
その違いを自分で決めていくことが、宿の主の仕事なのかもしれなかった。
夜、湊はノートにこう書いた。
――父の声は思い出せない。
――けれど客間に座る父は、外にいるときより少し低い声をしていたのかもしれない。
――客間は、人に何を話させるかではなく、その人の声がどの高さへ落ち着くかを待つ部屋なのだろう。
――澄江は、言葉の中身より前に、その人がどんな声になれるかを見ていたのかもしれない。
――汐里もまた、客間の風や障子の開き方を通して、その日の“声の高さ”を調える人になり始めている。
書き終えたころ、外にはまだ雨は来ていなかった。
だが夜の湿りは昼より濃い。
こういう夜の前の客間には、きっとまた別の声の高さがあるのだろう。
第十四作はここからさらに、人の言葉そのものではなく、話したあとに部屋へ残る“声の余韻”のほうへ入っていくのかもしれないと、湊は静かに思った。




