↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちのレール ― 初夏の客間 ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/9

第一章 風の通る座敷

 初夏の客間には、春の客間とも夏の客間とも違う、まだ決まりきらないひらき方がある。


 障子を閉め切るほどでもない。

 かといって、窓を大きくあけ放つには風がまだ少しやわらかい。

 畳の匂いも、冬の乾いた静けさを完全に失ったわけではないが、そこへ新しい湿りと光が少しずつ混じり始めている。

 人が座れば、その体温はすぐ部屋に残る。

 だが、その残り方にもまだ重さは少ない。

 春口の初夏は、物事をはっきり夏へ押し切らない。

 かわりに、部屋の中の空気が少しずつ“ひらいていく途中”を長く保つ。

 第十四作で湊が最初に受け取ったのは、まさにその途中の明るさだった。


 五月の終わり、春口へ向かう列車の窓の外では、海の色がもう春の手前ではなかった。


 白さを多く含んだ明るさではなく、水そのものに淡い青が戻っている。

 島影も冬より柔らかく、春よりはっきりして見える。

 光は高くなった。

 けれど真夏ほど強くはない。

 その中間の明るさが、車窓の外の景色をどこか“迎えられるもの”に見せていた。

 第十一作で遠くの明るさを見て、第十二作でそれが庭へ移り、第十三作で門を通ってまた町へ返されていった。

 第十四作の今、その明るさは今度、客間の中でどう人を受けるのかが問われるのだろうと、湊は思っていた。


 春口駅へ着くと、ホームの白線ももう冬や春先のそれではなかった。

 光が少し上から落ちるせいか、白線の存在が以前より平らに見える。

 霧の巻のころの白線は、人の遅れやためらいを強く浮かび上がらせる線だった。

 いまは違う。

 もちろん決断の場所であることは変わらない。

 だがその前後にある空気が、前より少しやわらかくほどけている。

 初夏の明るさは、人を急がせるようでいて、じつは“ここに少し座ってもよい時間”も同時に作るのかもしれなかった。

 それが客間の巻へつながっていくのだろう。


 改札の外には、汐里がいた。

 薄い藍色の上着。

 腕まくりをするにはまだ少し早いが、冬の巻のころのような重ね着はない。

 髪もどこか軽い。

 橋を渡り、坂を上り、待ち、岬の風を受け、庭をあずかり、門をひらいてきた人の、その先の季節の顔だった。


「おかえりなさい」

 彼女が言う。

「ただいま」

「今日は」

「ええ」

「部屋が少し夏寄りです」

 その言葉に、湊は小さく笑った。

「部屋が」

「はい。庭ほど外じゃないけど」

「ええ」

「春より、風の通り方がはっきりしてるんです」

「それが第十四作ですね」

「そうかもしれません」

 汐里も笑った。


 駅から宿へ向かう坂を下るあいだ、町はもう春の受け身ではなかった。

 門の巻で見えてきたように、宿は人をまた町へ返していく場所でもある。

 その往復のなかで、町のほうも少しずつ季節を抱え始めるのだろう。

 石垣の上の草。

 道端の鉢。

 市場へ向かう女たちの足どり。

 どれも春より一段前へ出ている。

 それでも夏の忙しさまではまだ来ていない。

 だから人は、外から戻っても、どこかで一度だけ座りなおす余白を持てる。

 初夏の客間とは、たぶんそうした余白の部屋なのだろうと感じ始めていた。


 宿へ着くと、門は三分の二ほどひらいていた。

 第十三作までを知っている目には、その幅にももう意味が見える。

 町を多めに通す日。

 だが庭の遅さもまだ切らない日。

 そうした加減の先に、客間があるのだろう。

 門をくぐり、庭を横目に見て、玄関へ向かう。

 その途中で、開いた障子の奥に一室、初夏の光を受けた客間が見えた。

 畳の青さは完全には落ち着かず、座布団の布も冬より薄い。

 風が一度だけ通り、部屋の奥で少しほどける。

 それだけで、今回の主題がすでにそこにある気がした。


 居間には篠原が先に来ていた。

 今日は古い宿の間取り図のほかに、客間のしつらえに関する記録、夏前の座敷の使い方を書いた控えなどが広げられている。

 門や庭の巻のあとにしては、ずいぶん穏やかな題材にも見える。

 だが、春口のシリーズでは、穏やかに見える場所ほど深いものを抱えていることを、もう知っていた。


「おかえりなさい」

 篠原が言う。

「ありがとうございます」

「今回は、客間です」

「ええ」

「ただし、泊まる部屋としてだけではありません」

「初夏の」

 汐里が言う。

「人を少し座りなおさせる部屋」

「そういうことだと思います」

 篠原は頷いた。


 彼が見せた最初の紙には、古い女中の覚え書きらしい短文があった。


 ――初夏の客間は、すぐ泊まる顔にも、すぐ帰る顔にもならない人がよく似合う。

 ――風があるので、人の気持ちも少しほどける。

 ――庭より内だが、まだ町を切りすぎない。


「これですね」

 湊が言う。

「ええ」

 篠原が答える。

「第十二作と第十三作の次に来るのが自然でしょう」

「庭より内だが、まだ町を切りすぎない」

 汐里が読み上げる。

「すごく分かります」

「どういう意味で」

「庭ほど外に開いてはいない」

「はい」

「でも客間って、部屋の中なのに外の気配がまだ残るんです」

「そうですね」

「門を通ってきた町の時間も」

「庭の遅さも」

「両方少しずつある」

「かなり」

 湊は頷いた。


 その整理で、第十四作の位置がはっきりした。

 庭は、気持ちを置く場所。

 門は、町へ返す場所。

 そして客間は、そのあいだで人が少し座りなおし、自分の顔や声や気持ちを次の時間へ移す場所なのだろう。

 泊まる人だけの部屋ではない。

 滞在の最初と最後、あるいはまだどちらにもなりきらない時間を引き受ける部屋。

 初夏のやわらかな風は、きっとそのためにあるのだ。


「母も」

 汐里が言った。

「ええ」

「客間のこと、すごく見ていたんでしょうね」

「かなり」

 篠原が答えた。

「灯りや門の時間だけでなく」

「人がどの部屋で、どのくらいほどけるかも」

「そうですね」

 その言葉に、湊は第四作の迎えの部屋や、離れの静けさを思い出していた。

 宿は人を一気に解釈しない。

 まず迎え、少し遅くし、時に返し、また別の部屋へ通す。

 その中で客間は、もっとも“まだ決まりきらない人”に近い場所なのかもしれない。

 初夏という季節がそれをさらにやわらかくしているのだろう。


 午後、湊は一人でその客間へ入ってみた。

 障子は半分ほど開き、庭の光が畳へ薄く落ちている。

 風は強くない。

 だが、座るとたしかに一度だけ襟元がゆるむ感じがある。

 門の外の町は切れていない。

 庭の遅さもまだ少し残っている。

 けれど、それらがもう直接の風景ではなく、部屋の空気へ移っている。

 客間とは、そういう変換の場所なのだろうと思った。

 外をそのまま持ち込むのではない。

 内へ閉じ切るのでもない。

 そのあいだで、人が少しだけ自分の次の時間へ座りなおすための場所。


 畳の上に手を置くと、まだ昼のぬくもりがあった。

 庭の火の遅さとは違う。

 もっと自然光に近く、しかし外ほど散らないぬくもり。

 初夏の客間には、そういう“座るための明るさ”があるのかもしれなかった。

 湊はそこで、父のことや澄江のことをまた少し違う角度から思った。

 遅れた人。

 待ちが長い人。

 門を出て町へ戻る人。

 そういう父もまた、どこかでこういう部屋に座り、少しだけ次の時間へ自分を整えたことがあったのかもしれない。

 澄江もまた、人を見送るだけではなく、その前に客間でほどける時間を見ていたのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。