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生きざま

作者: 小山正義

私は、焼酎の入ったコップを傾けながら、60年余りの道のりを辿ってきたことを、誰に聞かせるでもなく語り始めた 。

 私は若い頃から、好んでアルコール類を飲んでいました。

 哀しいとき、悔しいとき、嬉しいとき、楽しいとき、何かにつけて私の生活からアルコール類を欠かしたことがありませんでした。

 アルコール類が好きなのは、私だけではありません。脳性マヒ者の仲間で男女を問わず、大半が私と同じで、アルコール類が好きでした。

 脳性マヒの障害の特徴は、アテトーゼによる手足の硬直にあり、アルコールを飲んで酔っている間、アテトーゼによる手足の硬直が和らげ、その間、気持ちも体も非常にリラックスになり、何をするにも楽になります。

 確かに酔っている間は、身も心もリラックスし、障害が無くなったような錯覚を起こし、ルンルンな気持ちになっていきますが、酔いが醒めかかった頃になりますと、アテトーゼが戻ってきて手足の硬直が始まり、お酒を飲まなかった頃より、不自由さが増して行き、自分の障害が重く感じる錯覚に陥り、 又、酒を飲みます。

 その繰り返しで、対には本当に自分の障害を重くして行った、仲間を多く見てきた私は、三十五、六才の頃から(脳性マヒ者には、アルコールは出来る限り避けた方がよいと言うことだった)と気付いていたのですが・・

 冬の川崎、特に南部地区の夜は工業地帯とあいまって、ビルやマンションのラッシュによる、町の谷間から空っ風が吹き底冷えがして、やたらと寒いです。

 私の頭髪にはチラホラと白いものが見え、顎の辺りも白い物が混じって多少伸びてても目立たない薄い髭が伸びていました。

 それもで行動派だったころの面影を残す日焼けした顔。

 一昔前は油を塗りたぐったようにギラギラと輝いていましたが、今はその面影が無くなりつつありました。

 五十の半ばをとうに過ぎている私にとって、遠い遠い昔の記憶を辿ると言う事はなかなかの苦難の技です。

日本の戦前・戦後の動乱の中を潜り抜けてきた私の人生はけして平坦なものではありませんでした。

 しかも脳性マヒと言う重い障害を背負って半世紀以上をを生き抜いて来ただけでも驚異に等しい事でした。

私は、1939年8月(昭和14年8月4日)に父、菊正1908年産まれ(明治4年)と母、鈴子1912年産まれ(大正元年)のもとに、川崎は浜町の借家にて産声を上げました。

 これからの話は、私が十二、三才の頃まで、時折母親から聞かされた話を基にして、構成した私の幼児期の話であります。

 私にはすでに姉一人と三人兄が居ました。(三男正利は病死している。)私は小山家の四男にあたりました。

 当時の女性達は、赤ん坊を産むのにほとんどがお産婆さんの手を借りて、自宅にて行われていました。

 ご多分に漏れず、母、鈴子も例外ではありませんでした。

 この日は朝早くから小山家では出産の準備で忙しい思いをしていました。

 真夏の真っ直中だといいますのに、朝から台所ではお釜のお湯がグラグラと音を発てて沸いていました。

 先ほどから、奥の四畳半の長火鉢の前で、額の汗を拭いながら煙管の煙草を噴かしていた、鈴子の母タネが

「おかしいね。あの子は既に四人も孫を産んでい間がかかる訳がないのにね。」

と、ひとり言のように咳いていました。

 その側でなんだか申し分けなさそうな格好で、畏まって座っている取り上げ婆さんこと、お産婆さんのおナミさん。

 時折、縁側の方から涼しい風がスーと入ってきますが、この日は一段とまた暑い日でした。

 午後の12時はとうにまわっていて、もうすぐ1時になろうとしていました。

 鈴子は縁側に沿った六畳の部屋で先ほどから、お腹をさすりながら赤ん坊が早く出てくるのを待っていました。

 額には脂汗がにじんでいて見るからに苦しそうであした。

「早くーゥ。いい子だからーァ。出て来てちょうだァーィ。」

 鈴子は苦し紛れにお腹の赤子に呼びかけていました。

 真夏の庭に午後の日差しを浴びて向日葵やダリアが満開に咲き、樹齢200年余りの欅では蝉が

「ジーイ、ジーイ、ツク、ツク、ジーイ、ジーイ、ツク、ツク、」

と鳴ていて暑苦しさを増していました。

暫らくしますと

「ウーン、お母さぁーん。早く、来てぇー。今度は、産まれそーゥー」

 鈴子は悲痛な叫びをあげて母を呼びました。

 これを聞いたウメは台所へ立ち上がる、産婆のおナミさんは鈴子の部屋に入り苦しんでいる様子を伺います。

「今度は、本当に産まれそうだね。良く、頑張ったね。後、もう少しの辛抱だから、頑張りなさいよーッ。」

 おナミさんは聴診器をお腹に当て、

「お母さん。お湯を持って来て下さい。」

と、ウメを呼びました。

「ハイ、ハイ、お湯をそこへ置いて、お母さんは娘さんの頭の方へ座って、 両方の手を持っていて下さいね。」

と、言いながら鈴子の足の方に座り直すと、布団をあてがって膝を立たせ、踏ん張るように促しました。

それから約、二十分ほど経った、

「オギャァー。」

ドスの利いた声が鈴子の寝ている部屋から上がりました。

幹夫誕生の第一声であった。

 丸々と太った賢そうな顔をした赤ん坊でした。

 体重が四千グラムを超えるほどでした。

 それはそれは大きな大きな赤ん坊でした。

 その後、何事も無く、すくすく育ち、四ヶ月程過ぎて行きました。

 あと、数日で正月を迎えると言うのに小山家は静まり返っていました。

 どうやら、その原因は産まれて間がない私にあったです。

 鈴子は一週間ほど前にちょっとした油断から、私に風邪をひかせてしまって、一週間経つと言うのに未だに、四十度近くある熱が一向に下がってはくれませんでした。

赤ん坊の熱としては少し高すぎるし長く続きすぎますと。

 私が病気と言う事もあって、姉のいずみは埼玉の祖父母の所に預けられていました。

 父親は職業軍人で職務の関係上各地を転々と回わされていて、家に居る事がめったにありませんでした。

小学校二年生の長男、正明とやがて五才になろうとしている次男の正仁に赤ん坊の私と母、鈴子。

 まるで小山家は母子家庭みたいでした。

 幹夫は身動き一つせず、ただただスヤスヤと眠っている状態でした。 既に鈴子は私を連れて近所の小児科を二・三軒訪ねていました。

 だが、どこの医者も私の高熱の原因を解ってくれませんでした。

 さっき鈴子は近所の知人から、

「正義ちゃん。熱が下がらないんですってね。それはお困りでしょう。私の子供も、つれて行った事が有るんだけれど、お大師さまの近くにある小安病院の小児科へ行ったら、きっと、良くなると思うのよ」

と、言われていましたので、明朝、連れて行く事にしていました。

「チュンチュン。チュンチュン。」

 早朝、冬の日溜まりの屋根で雀のさえずりに、夜通し私の看病でにんまりしない目をこすりながら、

「ファー、さァーてと、」

 と伸びをし、布団から上半身を起こし、そっと私の顔を覗きました。

 相変わらず「スヤスヤ」と、眠っていました。

 夜中に熱を測った時には少し下がっていました。

 おでこのタオルを変えてやり、子供たちの朝食の支度に取り掛かり、早めに食べさせると正明を学校へと送り出し、自分も身支度を整えて、私を背負い正仁の手を引いて、一路、川崎大師の小安病院へと向かいました。

 病院では、歳の暮れと言う事もあってちょっと待たされましたが、以外と早く診察を受ける事が出来ました。

「ウーン。これはひどいなあぁ。マァー。入院させてみないと。何とも言えないがァー。若しかするとオー。この子はァー。脳性小児マヒかもオー。知れませんねェー。」

 白髪の老医者が咳く様に言って、

「脳性小児マヒと言うゥー。病気はァー。不治の病と言ってェー。今のオー。医学ではどうしようも無いものなんだねェー。こういう子はァー。寿命が短いからァー。もし、そうであったらァー。大事に育てて上げなさいよオー。」

 と、まるで引導をわたされたように言われてしまい鈴子は、ただただオロオロとうろたえるばかりでしたが、取り敢えず入院することにしました。

 しばらくして老医者から、脳性マヒについて詳しい説明を受けました。

 その説明が下記の通りでありました。

『脳性マヒと言う障害は、脳性小児マヒとも、CP(CerebralPalsyの略)とも呼ばれています。脳の運動中枢の故障によって起こされる、手足の動作や発語が不随意になる病状で、現代医学では治すのが困難であります。この多くの原因は脳に故障が起こりますので、1・妊娠中 2・お産の時 3・乳幼児期の三つ。

1・の場合は母親の妊娠中毒病や流感、などの病気で。2・の場合は早産児、難産、錨子分娩などによる脳の内出血。3・の場合は脳炎、黄胆、チフス等の病気とか頭の大怪我等が主な原因でとくに、2・の場合が多くまた頭骨が軟らかいですので、脳が圧迫される為と言われています。

同じ小児麻痺と呼ばれてもヴィルスによって発病する脊髄性小児麻痺と違い、一つの原因一つの病気によるものでなくて、こうした種々な原因で生じた似た様な症状を一括して言う呼び名とも言えます。運動の麻痺はこれらの理由による脳の故障の為の後遺症(火事に例えれば焼け跡)なのですから、決して、伝染するものではありません。

原因が種々あるように、症状はひどく重いもの、比較的軽いものも有りますが、脳の冒される場所によって、硬直型(手足をつっぱる)アテトーゼ型(そうしようと思わないのに手足が勝手に動く不随意運動)失調型(酒に酔ったようにフラフラする)など幾つかのタイプに分けられます。

 麻痺の現れるのも四肢(両手足)両下肢、片側(左右半身)と種々で多くの場合、言語障害を伴います。又、首の不随意運動もよくあります。

脳性と言う呼び名や不明確な言語から、知能障害と見られがちですが、同一では有りません。又遺伝するものでもありません。』

入院をしてから、二・三日が経った頃から、私の熱がどんどん下がり始めていきました。

 それと同時に首の据わりがおかしいのに気が尽きました。

 私は、医者が診たとおりで、やはり脳性小児マヒにかかっているようで、抱っこをしても、おんぶをしても頭が後ろへだらんと下がってしまう状態でした。

 右手の方が硬直をしているらしく、ぎこちがなかったのです。

鈴子は、あきらめがつかず、何とか治らないものかと、その後も数件の病院の門を叩いた最後の病院、東京の慶応大学の付属病院の小児科では、

「良くなるか、悪くなるか、手術をやってみないと解らないが、ひとつだけ方法があるんだが。」

 と、担当の医者は母、鈴子に促しました。

 藁をもつかむ思いでいた、母、鈴子は、「はい」のふたつ返事で手術を受けることにしました。

手術は、頭の後部付け根に、大豆ぐらいの穴をふたつを開け、空気と同時に薬品を吸入すると言う、生死を賭けた大手術をやったのでした。

私は、よほど苦しかったのでしょうか、手術の間おしめを何回も取り替えたと聞きました。

 脳のレントゲンも何十枚も撮影したらしいです。

医者は、

「これだけのレントゲンを撮ると大変なんですよ。」

 自慢げに言っていましたが、今、思うと結局、研究材料にされたみたいな気がしたと、母、鈴子は言っていました。

 経済的に困難な時代だと言いますのに、治療費を殆どとらなかったのでした。

「今の医術で、できる限りの事はやりましたが、今後、長い月日が経ってみないと、何とも言えませんね。どっちにしても、こういう子は寿命が短いと思いますので、大事に育ててあげなさい。」

 鈴子は私が退院する日に主治医に言われ、川崎大師の老医師と同じ事を聞きましたので、悲しい思いで病院を後にしました。

 私は、自分自身がみんなとちょっと違うのに気付き始めたのは、十五才の頃でした。

 彼が本格的に歩けるようになったのも丁度その頃からで、十才の頃まで、ゴロゴロと転がって部屋中移動していました。

 ゴロゴロ転がって行き、障子や襖を破いたり、あてがわられた玩具など、その仕組みがどうなっているかが興味があったのと自分の体が自分の思うようにならない苛立ちも手伝い、直ぐ壊したりのかなりやんちゃな性格で、気が短くいたずらは人一倍でした。

その内に膝で立つようになって、そのまま立て膝で、外へ出るようになり、膝の怪我の絶え間がなく、膝が血だらけになっても、尚も外へ遊びに行っていた。

私で、暴れん坊で、終いには、近所の子供たちと持ってチャンバラをやって、相手の子供に怪我を負わせ、その親に怒鳴り込まれたり、どうしようもない子供でした。

 なにしろ小さい頃から負けん気の強い子供で、怪我の絶え間がありませんでした。

普通は、障害児はいじめられっ子ですのに、私はいじめっ子で餓鬼大将でした。

 母、鈴子は、

「正義は、障害児ですし、可哀想な星の下に産まれ、このまま一生、人様の手を借りて面倒を見てもらわなければ・・・・」

 と、悩んでいたそうだが、当の本人はそんな事、何処吹く風と暴れ回っていました。

 母、鈴子は、そんな私を見ていますと、ふっと、何んだか普通の子供と変わりない感じさえもしたと言っていました。

 世の中は、日中戦争から太平洋戦争が始まると言う、戦争一色に塗られて行った。

 小山家においても例外ではありませんでした。

父、菊正は、職業軍人でしたので、何度も戦場へ狩り出されていました。

 従って、私の幼少の頃は父は居ないのと同じでした。

二才になった頃には、妹のゆきみが産まれ、母は、保育園の保母さんのように子供たちに追われ大混乱でした。

 菊正は、ホワイトカラーのサラリーマンでもありました。

 戦闘機や軍艦などの燃料を製造していた「日本油化」と言う、戦争のために設立された国策会社の重役クラスにいました。

非常に人の面倒見が良く、部下達に愛されていました。

 そんな事で、戦争の最中と言う事もあって、自分が戦地に出かけている時、家族の事や若い部下達に何か有ってはいけないと言う事で、独身寮の管理人を買って出て、みんなと一緒に暮らしていた時期もありました。

 私を始め子供たちは、課長さんのご子息と言うことで、寮のみんなに大事にされていました。

 私は体が不自由な事もあってか、外の姉弟よりも特別に、大事にされたと聞いていました。

 空襲警報のサイレンが鳴りますと、寮の誰かが真っ先に私を抱いて、防空壕に連れて入ってくれたと言います。

 そんな大変な小山家の事を知ってか、妹のゆきみが生まれると直ぐに、子供を引き取って世話をしたいと申し出た夫婦がいました。

 かって、父、菊正の働く会社に部下として働いていましたが、いち早く先を見通して退社し、興行師兼テキ屋を始め、それが大当たりして、今では、若い衆を二、三十人を抱える大所帯を仕切っていた中村庄右衛門・タツの夫婦でした。

 ふたりにはなかなか子供には恵まれず、夫婦で寂しい思いをしていたのでした。

「小山課長。お宅には、お子さんが大勢居て、奥様が大変でしょう。私にお子さんのお世話をさせて頂けないでしょうか?大切に育てますから」

 菊正は、かっての部下に助けて貰うみたいで、あまり乗り気ではありませんでしたが、鈴子の大変さを見ていて断るわけにも行かず、中村の好意を甘んじて受けることにしました。

 この事を知った鈴子方は、ひとりでも預かって貰えれば子育てに助かると内心喜びました。

 子供を預かって育ててくれると聞いた、鈴子の母タネが相談にのってくれて、

「ゆきみは駄目だょ。生まれたばかりの子だから、先方で何が起こるか解らないし、それにゆきみが可哀想だょ。だけど、せっかく預かってくれると言って下さって居るんだから、もったいないね。ちょっと手が掛かるけど、正義なら良いと思うょ。あの子なら男の子だし、何も心配が要らないょ。」

 所帯を持たせとは言いますものの、まだまだ若い娘、鈴子のことを心配してタネは色々と意見を言っては、鈴子の代わりに菊正に促すのでした。

 義母、タネの意見に納得した菊正は、何もかも、タネに任せて自分はさっさとこの問題から逃げてしまっていました。

 中村夫婦の最初の予定では、生まれたばかりの妹、ゆきみの方を預かって育てるつもりで居ましたが、私の祖母、タネの方から

「それは、それは、有り難いことです。生まれたばかりの赤ん坊では、いろいろと大変だから、せっかく預かってくれるのなら、正義の事を預かって貰えないか」

 と、言われましたので、どの子を預かって育てるのも同じだと思った、夫婦は、私の祖母、タネの申し出を気良く承諾し、私の事を預かることにしたのでした。

 そんなわけで、私は二才の時から五才の後半まで、中村家で宝物のように育てられました。

 タツは何処へ行くにも、私を背負って出かけるのでした。

 夫の実家がある千葉県や自分の実家のある栃木県など、若い衆達が食べる食料の調達などにも良く出掛けたと言います。

 庄右衛門はというと、

「さぁー。セー坊、ジャブ、ジャブに入ろう。出たら、体操だ。」

 体の不自由な私のことを思い、何とか良くしてあげたいと考え、毎日のように風呂に入れて、ラジオ体操に合わせて手足のマッサージなど、施すのが日課であったと言います。

 動かない手足を無理遣りに動かされるので嫌がる私でしたが、口の中に肝油と言う栄養剤の黄色いドロップを口に含められては、足を動かされたり、マッサージをされたのを今でも鮮明に記憶として、私の脳裏にキックリと残っていました。

 また、当時の思い出として、庄右衛門に背負われ良く映画を見に連れてって貰った事で有ります。

 色々と見た映画の中で、何故か、板東妻三郎主演の「丹下左膳」や「国定忠治・荒神山」と言う映画が脳裏の奥に記憶としてありました。

 妻三郎、演じる忠治が大勢の役人に追われ、荒神山へ逃れ、追いつめられる忠治、胸肌露わな格好で役人相手に、脇差しを振り回す忠治の強張った怖い顔。

 その顔がスクリーンいっぱいに映し出され、それを観て怖がって、おやじさんの背中で震えた事をなど、驚くほど良く憶えていました。

 自分の両親や兄姉の側にいたときよりも、美味しいものを食べたり、いろんな所へ連れていって貰ったり、雇っていた若い衆の中から、私のお守り役まで付けられ、まるで若様扱いされ、子供ながらも良い気持ちをしました。

 私が始めて字の存在を知って、書き始めたのもちょうどその頃で、

「セー坊も、そろそろ学校に行くようになるんだから、自分の名前ぐらい、書けなければいけないね。」

 おばさんから、鉛筆と帳面をあてがわれ、

「さぁ、書いてみな。カタカナで、ナカラムセイギと、書くんだよ。こうして、鉛筆を指に挟んで、おばさんが書いた通りに書いてみな。」

 私は赤ん坊のころから、好奇心の強い子であったらしく、あてがわれた玩具など、特にゼンマイ仕掛けなどの玩具を二、三日掛けて、きれいに壊してしまうほどでした。

 字が書けると言うことに興味を示したのでしょうか、なかなか言うことをきいてくれない手を使って、おばさんの言うとおりに一生懸命になって、字を書く練習をやったことが鮮明によみがえって来るのでした。

 そんな楽しい日々を三年ぐらい過ごす間に、私にとって一大事が起こるのでした。

 私が中村家に預けられ育てられて、二年ぐらい経った頃、十年近く結婚生活を過ごしてきた、中村夫婦に待望の子供が授かりました。

 丸々太った、女の子でした。

 おじさん、おばさん達は、大喜びに喜んでいましたが、私にとっては、ただ事では無かった。

 しかし、おじさん、おばさん達、ふたりは相談の上、

「ひとり育てるのもふたり育てるのも同じだろう。それに美智子にとって上が居ると言うことで、何かと便利が良いだろう」

 と言うことで、私と美智子を一緒に育てていくことにしたのでした。

 やがて、一年が過ぎた頃、子供が子供を呼ぶというのか、またまた、秀子という女の子が産まれたのでした。

 暫くの間、私は美智子と秀子の兄として、何とか楽しく暮らすことが出来ていました。

 ところが私が五才の半ば頃、中村夫婦に三人目の赤ん坊が生まれると言う事になり、こうなってきますと、私の親たちが黙ってみているわけには行かなくなって来ます。

 父、菊正はかっての部下に、そこまで世話を掛けるわけにも行きませんし、中村夫婦に大変な思いをさせるわけには行かないと言うわけで、私を戻して貰うことにしたのでした。

 私は実家へ戻されるのでしたが、戻ってきたその日から原因不明の高熱を発し、ろくに食べ物も食べずにグッタリと寝込んでしまいました。

 困ったしまった母、鈴子は中村のおばさんを呼んで、色々と相談したの結果、暫くの間、自宅の小山家と中村家を行ったり来たりさせて、様子を見ようと言うことになりました。

 若い衆のお守り役に背負われて、暫く通っていましたが、私達一家は、川崎や東京が戦火が日を増すごとにひどくなって来ましたので、埼玉の祖父母の所へと疎開をしてしまいましたので、中村家とは音信が途絶えたまま、五、六年が経っていきました。

 夢みたいな生活が終わり、戦後の動乱期に疎開と言う、過酷な生活を強いられ、ただ、ただ、食べることに追われていた小山家の生活も私が、十五、六歳の頃から、漸く少しずつではありましたが、生活や精神的に余裕が見られるようになってきました。

 私の下には、五人の弟や妹が亡くなっていたが、妹のゆきみ、弟の正雅のふたりがいて、それなりの賑やかな毎日を暮らしていました。

 川崎の元の桜本に住む頃は、二人の姉弟が学校へ通っていた事もあり、家の近所には二校の学校があったせいか、毎年、春先になると家の窓の前を真新しい学生服に、新しいランドセルを背負った児童たちが通ります。 その度に私は、母親に疑問を投げかけて、母親を困らせていました。

「ねぇー。母ちゃん。何故、僕だけ学校へ行けないの?僕は何時になったら、学校へ行けるの?僕もみんなと一緒に学校へ行きたいよ。」

「うん。そうだね。お前は手足が不自由だから、学校へ行かなくともいいことになっているんだよ。行けるようになったら。行こうね」

 何回と無く、こんな話を交わし、有耶無耶にされてしまい、大分後になってから分かったことでしたが、私は、川崎市の教育委員会の修学猶予免除の対象にされていて、小学校でしょうか、中学校ですか、定かではありませんが、卒業していることになっているのでした。

 私は、もし、自分が学校生活を経験をしていたら、今の生活と違った生活を送っているのではと、思うと残念で、残念で悔しい思いをしたことを今更のように思い出すことがありました。

 悔しく、残念に思う、想い出がもう一つ、私には、自分の持っているもので、一番嫌いなものがありました。それは自分の名前です。

 父親から、兄貴たちから、揚げ句の果てには妹や弟からまで、何かにつけて、正義!正義!と、呼び捨てにされていました。

「正義。だめじゃ。ないか。ちゃんとして、座らなければ。」

 父親や兄貴たちから呼ばれるなら、差ほど抵抗はありませんでしたが、弟や妹までにもが、頭越しに正義、正義、呼ばわりされたのでは、たまったものではありませんでした。

「妹や弟に、兄である、僕のことを名前で、呼びつけさせるのを止めさせた方が、良いと思うのだが、本人たちのためにも、小山の家のためにも、良いと思うよ。第一、僕が、良い気持ちがしないんだよ。友達やみんなの前で、弟や妹に、正義、正義、なんて呼ばれるの、恥かしくって、嫌だよ」

 母親や妹たちに、何度となく、注意をしたが一向に改めることはありませんでした。

 小山の家族には、脳性マヒ者の私を差別することで、一家の和が保てていたのかもしれませんでしたが、私にとって、頭越しに名前を呼ばれる度に、何とも言えない、嫌な気持ちになったものでした。

 言うことを聞かないということで、父親や兄貴たちに名前を呼ばれて、意見や叱られるのなら仕方がないと思うのですが、妹や弟までにも名前を呼ばれたと言うことは、家中から何となく馬鹿にされ、差別されていたような気がして、悔しく悲しい思いをしたものでした。

 だから今でも、自分の名前が嫌いです。

 反射的にびくつきますし、悔しく悲しい思い出が蘇ってきて、親からもらった名前なのに残念で仕方がない事のひとつでした。

  

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