第一章‐2:記録されない通報
通報記録を確認した私は、即座に応答履歴と内部処理状況を照会した。
だが、奇妙なことに、その通報に対応した形跡は一切なかった。
まるでその記録は、受信されたまま誰の目にも触れず、保留されたように置かれていた。
気づかずに通り過ぎるようなレベルではない。
この支部で通報窓口に関わる者なら、必ず処理ログを残すことになっている。
処理担当者欄は空白。確認者も不在。
私は一瞬、機械的な不具合を疑った。
「……気づかなかった、というわけじゃなさそうだな」
声に出しても、自分の耳に冷たく響くだけだった。
私は端末を閉じ、周囲を見渡した。
他の記録官の姿は見えない。職員スペースには照明が落ち、仄暗い空気がただよっている。
仕方なく、私は支部管理担当――この支部において私の直接の指導係にあたる人物を訪ねることにした。
案内されたのは、地下1階の記録処理室。
壁一面がアーカイブの棚で埋め尽くされ、空調のわずかな唸りだけが響いていた。
「ようこそ、研修官ヘイズ。着いたばかりで騒がしいのは悪いが、何か問題でも?」
応対に現れたのは、カリム・イシュヴァルという名の中年の記録官だった。
肩書きこそ私と変わらないが、ヴェザリア支部では十年以上勤めており、事実上の現場責任者ともいえる存在だった。
私は通報記録の端末ログを差し出しながら言った。
「未対応の通報記録がありました。処理ログも担当者の署名もなく、発信元の記録も存在しない。――通常では考えられない形式です」
カリムは一瞥し、目を細めた。
「……南壁、か。第七信仰区のあたりだな」
「何かご存じですか?」
彼は答えず、代わりに小さく息を吐いてから言った。
「お前さん、記録官だな」
「はい」
「記録官ってのは、事実をそのまま残すのが役目だ。だがこの街ではな、“そのまま”ってのが通用しないことがある」
「どういう意味でしょうか」
「記録しようとしても、記録できないことがある。記憶しようとしても、思い出せなくなることがある。それが、この街の“風”だ」
私には、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
だがカリムの目は冗談ではなく、長いあいだそれを見てきた者の静けさを宿していた。
「この通報、現地確認しても問題ありませんか」
「やめろとは言わん。ただ、注意しろ。“残らない”ことに腹を立てていると、この街では身を削られるぞ」
私はその言葉を、迷信かあるいは旧世代的な警告だと受け取った。
けれど同時に、胸のどこかが冷たくなる感覚も否定できなかった。
支部から出る前、私はもう一度だけ通報記録を確認した。
発信元不明、時間は午前2時03分。
対象は「死亡者らしき人物」。
そして、最後に添えられていた一文に気づいた。
記録補足:画像ファイル添付なし。自動消去済み。
私の背中に、かすかに冷たい風が吹いたような気がした。