第一章‐1:霧に沈む都市
私がその都市を初めて訪れたのは、アイオス暦1476年の晩秋だった。
朝晩の気温が極端に下がりはじめ、空気に乾いた冷たさが混じる頃だったと思う。
交換研修という名目で、私は本部からヴェザリア支部に三か月間の派遣を命じられた。
当時の私は、記録官としてまだ若く、世界を冷静に見ているつもりで、けれどどこかで“事実”を信じていた。
記録とは、すべてを明るみに出す力だと。
見えないものを言葉にし、曖昧なものに輪郭を与える行為こそ、正義だと。
ヴェザリア。
その都市の名を初めて聞いたとき、私は一瞬、地理資料を確認しなければならなかった。
大陸の中央砂漠帯、古くから宗教都市として繁栄し、今なお地下水と交易によって潤う場所。
空撮記録では白い尖塔が何本も並び、整った街並みが広がっていた。建築様式には神聖と異国の両方が混じり合っており、空気はどこか非現実的な静けさをまとっていた。
だが、それはあくまで外部向けに記録された“姿”でしかない。
GIA内部では、ヴェザリアは別名で呼ばれていた。
「記録の曖昧な都市」。
あるいは、**「記憶の霧に沈む都市」**と。
この街では、事件が正確に記録されない。
あるはずの証言が失われ、明らかだったはずの情報が消え、関係者の記憶までもがすり減っていく。
報告書の提出が遅れた案件では、数日後には“通報そのものが存在しなかった”とされる例もあった。
そうした報告は、過去の研修員や支部スタッフの口から、断片的に聞かされていた。
だが、私は懐疑的だった。
信仰の厚い街であることが、集団心理に影響を与えているだけなのではないか。
極端な自己解釈と宗教観が、外部からの介入を拒み、曖昧さを正当化しているだけではないか。
記録が歪むなど、そんなことがあるはずがない――
当時の私は、そう思っていた。
支部に着いたのは、午前9時過ぎだった。
GIAの標準制服に身を包み、支部門の警備を通過すると、白く無機質な廊下に足音が吸い込まれていった。
本部よりもやや狭いが、情報機器やファイリングの整備状況は問題なかった。
ただ、気になることがひとつだけあった。
人が少ない。
勤務者リストには20名近くの記録官と分析補助官が所属しているはずだったが、すれ違った職員は3人ほど。
「今日は皆出張中だろうか」と一瞬思ったが、それなら共有デバイスにスケジュールが掲示されているはずだ。
だが、予定表のホログラムには何の記載もなかった。
それでも、私は特に不安を覚えず、配属初日の手続きを淡々とこなしていった。
研修中の立場であることを思えば、深入りすべきではない。
そう自分に言い聞かせながら、私は自席に用意された記録端末の電源を入れた。
そのときだった。
端末の画面に、未処理報告としてひとつの通報記録が表示された。
・発生場所:第七信仰区/南壁付近
・通報時刻:1476年11月18日 午前2時03分
・発信者:記録なし
・内容:路地裏にて死亡者らしき人物を発見
私は眉をひそめた。
通報者の記録が“ない”。
送信源も不明。音声ログも残っていない。だが、通報そのものは確かに届いている。
なぜ誰も対応していないのか。なぜ、いままで放置されていたのか。
ヴェザリア初日の違和感は、思ったよりも早く、そして静かに始まった。