第三章‐5:もうひとつの終点
アトリエの扉は、わずかに開いていた。
それは“入るな”という警告ではなく、“見届けよ”という誘いのように思えた。
私は軽く息を吸い、手袋越しに取っ手へ触れた。
冷たい金属の感触が指先を貫く。
軋んだ音を立てて扉が開いた瞬間、私は一歩、別の領域に足を踏み入れた。
アトリエは広かった。
天井が高く、壁は黒布で覆われていた。
光源は中央に吊られた小さな照明のみ――
室内は“完成されるべきもの”のために、最小限に抑えられた光と影だけで構成されていた。
壁際にはキャンバスがずらりと並んでいた。
どれも同じサイズ、同じ縁取り。
だが、そのどれもが“終わっていなかった”。
未完成。
描きかけの顔、塗りかけの風景。
だがどれも、ある一点だけは極めて鮮明だった。
死者の“目”。
光の届かぬ場所で描かれたとは思えないほど、異様なリアリズムを宿していた。
私は吸い寄せられるように、その中の一枚に近づいた。
それは、あの第六祈祷所裏で発見された青年だった。
彼の顔は途中まで丁寧に塗られていたが、口元から下が空白のままになっている。
――未完成のまま、死は終わらない。
私は、部屋の中央へ目を向けた。
そこには、一枚だけ覆い布をかけられた大型のキャンバスが立てかけられていた。
空間の焦点。
私が“構図の中心”として重ねていた地点と一致していた。
私は手を伸ばしかけて――ふと止まった。
布の奥から、何かが“こちらを見ている”ような感覚があった。
死体ではない。
絵ではない。
もっと抽象的な、“意思”のようなものが、布の向こうに潜んでいる。
私はその場から後ずさった。
決して怯えていたわけではない。
だが、本能が訴えていた――
「ここでこれを開いてはいけない」と。
そのとき、部屋の奥の机にあるメモ帳が目に入った。
手書きの文字。
ページの端に、こう記されていた。
「最後の視線が揃ったとき、私は神になる。」
「記憶に触れ、魂を写し、絵の中に永遠を刻む。」
「その瞬間、世界は“ひとつの記録”になる。」
私は手が震えるのを抑えきれなかった。
この犯人は、ただの殺人者ではない。
彼は、死を素材とし、都市をキャンバスとし、神に至ろうとしていた。
その目的が、どれほど妄信的で、破綻した論理に支えられていようとも――
このアトリエに満ちる“圧倒的な意志”は、否応なくそれを現実に近づけていた。
私は最後にもう一度、覆い布のかかったキャンバスを見た。
その構図の中心に、私は見覚えがあった。
それは、私自身だった。
頬の輪郭。肩の線。後ろ姿の影。
これは“私”を描くために用意された構図だった。
このままここにいれば、私は“作品の一部”にされる。
観測者としてではなく、観測対象として。
私は即座にアトリエを離れ、支部へと連絡を取った。
だが、通信はまたしても“調整中”のままだった。
この都市が、この異常を世界に伝えまいとするように。
私は一度だけ振り返った。
アトリエの扉は、何もなかったかのように、そっと閉まっていた。
そして、静かに鍵がかかる音がした。