第三章‐4:扉の向こうの光景
記憶祈祷所の裏路地で発見された“異常検体”――
通知を受けた私は、即座に現地へと向かった。
午前9時過ぎ、空は白く霞み、乾いた砂を含んだ風が路地に吹き込んでいた。
第六祈祷所は、ヴェザリアの中でも特に古い建物だった。
装飾の少ない石灰岩の壁と、刻まれた記憶神の古語。
人々の祈りが染み込んだその空間のすぐ裏で、死は静かに横たわっていた。
倒れていたのは、青年だった。
推定年齢は20代後半、異国の服装を身にまとい、腕には交易ギルドの識別環がついていた。
外傷はほとんどなく、安らかに眠るような顔。
だが、周囲の空気が不穏だった。まるでその死が“場”を支配しているかのような、異様な沈黙があった。
第一発見者は祈祷所の清掃係で、検体には誰も触れていないという。
その証言さえ、私はどこか信用しきれなかった。
この都市では、“記憶”の正確さ自体が信用に足るものではないのだから。
私は慎重に現場を記録し、死体の周囲にあった小石や破片、香の残り香などを採取した。
そして、いつものように撮影を開始しようとしたそのとき――
画面が、一瞬だけ乱れた。
ノイズでも、光量の問題でもない。
死体の輪郭が、一瞬だけ“別の形”に見えた。
私はすぐに目をこすり、画像を再確認した。
だがそこに映っているのは、間違いなく青年の遺体だった。
異常は……なかった。
記録として残るものに。
それでも私は、確かに感じていた。
この死は、“誰かの手によるもの”だということを。
私は死体の手の角度に注目した。
軽く開かれた指先が、地面の一角を指しているように見えた。
私はその方向へ、手持ちのスキャナを向けた。
反応は――あった。
そこには、肉眼では見えない“何か”が、微弱なエネルギーを放っていた。
記録用レンズを切り替えると、そこに浮かび上がったのは、極めて精緻な“下絵”のような線だった。
地面に描かれた、不可視の“線描”。
それは、死体の角度と合わせると、先日見た構図とぴたりと重なった。
私は震えを押さえながら、すべてのラインをなぞり、仮想重ね合わせを行った。
すると、やはり中心が空いていた。
死体のない空間。構図の核となるはずの、何もない“焦点”。
私は思い出していた。
アトリエの扉の前に立ち尽くしたあの夜を。
扉の向こうには、確かに“これと同じ構図”が存在していた。
都市に散らばる死体と、その全体像。
描こうとしている者の意図――それは、死をもって完成する一枚の“絵”。
だが、その完成には、まだ一手足りない。
誰を描くのか。
何を描くのか。
そして、いつ描かれるのか。
私は支部に戻った後、その構図の一部をカリムに見せた。
彼は長く、黙ったまま画面を見つめ、やがてこう言った。
「これは、もう“儀式”の域だな」
「儀式……?」
「死体を配置し、記憶を抜き取り、都市に沈める。
それを一枚の“意志ある絵”として完成させようとしている。
まるで、描いた瞬間に何かが“成る”ことを祈るように」
私は思わず訊いた。
「誰が――こんなことを?」
カリムはわずかに肩をすくめた。
「絵を描く者だ。あるいは、“神を信じる絵描き”かもしれんな。
この都市では、神とは“記録されなかったもの”そのものだからな」
その言葉の意味はすぐには理解できなかった。
だが確かに、私の中には恐ろしい予感が根付き始めていた。
扉の向こうにあるのは、ただのアトリエではない。
それは、完成すればこの都市そのものの“記憶”を書き換えるような、異常な意図の場なのかもしれない。
私は、いよいよ“その中”へと足を踏み入れる覚悟を決めねばならない地点に来ていた。