第三章‐1:境界線に立つ者
アトリエの存在を確認した翌日、私は支部に“未処理記録報告書”を提出した。
もちろん、それは正式な手続きではない。
通報も事件性も存在しない。
だが、私は記録官としての立場ではなく、“観測者”としてその存在を認識した。
だから、報告の体裁を保ちながらも、私の言葉で記した。
《GIA記録未対応領域にて、記録不能死の構図的連続性を確認。
該当区域に物理拠点と思しき建造物を認。構造物名称未定。
内部未確認。接近制限あり。記録官観測による個人判断にて記録。》
誰が読むわけでもない。
それでも、私はこうした。
“記録されない死”がこの都市で消されていく中で、
私だけは、消えない記録を残そうとしていた。
その日の午後、カリムが私の席にやってきた。
無言で、一枚の紙片を私の机に置く。
「都市整備局の古い地図だ。……建造物リストには載っていないが、
ある時期だけ、“使用申請”が記録されていた」
私は紙片に目を通す。
申請者名:不明
使用目的:創作研鑽・静養
備考欄:外部接触制限あり/信仰関係者による推薦あり
「“推薦”?」
カリムはわずかに頷いた。
「おそらく、街の宗教階層の誰かが、使用を許可していた。
だが、内部の構造については誰も知らない。……表ではな」
「あなたは、知っているんですね」
しばしの沈黙ののち、彼は言った。
「私は、見たことがある。数年前だ。
記録に残せなかった“絵”を、あの建物の外壁に貼り出していた奴がいた」
「貼り出していた?」
「一枚きりだ。朝には消えていた。
誰が剥がしたのか、あるいは自然に消えたのか、それすらわからない。
だが――その構図は、お前の記録にある第三の絵と、まったく同じだった」
私は深く息を吐いた。
「やはり、“描いている者”がここにいる……」
その夜、私は夢を見なかった。
だが、朝起きたとき、胸の奥に奇妙な確信だけが残っていた。
もう一度、あの場所へ行くべきだ。
今回は、扉を開ける。
構図が完成する前に、
記録官としてではなく、人として――
この都市の“記憶”に手を触れておかなくてはならない。
午前7時、私は支部を出発した。
巡路を通らず、徒歩で丘を登った。
ステルギアでは、その空間に“近づけない”気がしたからだ。
白い建物は、昨日と変わらずそこにあった。
静かで、呼吸をしていないような無音の空間。
私は正面に立ち、扉に手をかけた。
重さはなかった。
だが、その軽さがかえって不気味だった。
ほんの少し、扉が開く。
暗闇が、細く、向こうから覗き込んでくる。
そのとき、何かの気配が、内側からこちらへ伸びてきた。
“誰か”がいる。
その感覚だけが、確かにあった。
私は手を止めた。
今、扉を開けば、何かが変わってしまう。
私の記録は、ここから先には届かないかもしれない。
それでも――
私は、そっと扉を押した。
だが、その瞬間。
中から、誰かの声が聞こえた。
それは、私に向けた言葉ではなかった。
祈りだった。
低く、ゆっくりと、絵筆のように静かに刻まれる、
“死者の名も知らぬ者が捧げる祈り”。
私は手を引いた。
扉は、そのまま、静かに閉じた。
まだそのときではない。
けれど私は、理解した。
この都市の“最後の死”が、まさにいま、描かれようとしていることを。
そして、その絵の中には、
“私自身の影”が、すでに滲み始めていることを。
私はその夜、記録にこう書いた。
《観測限界に到達。次の死は、構図の中心に置かれる。
記録官として、ここから先の観測は非公式記録へ移行。
私個人の意思として、この絵を“追う”。》
私はページを閉じた。
その瞬間から、
記録官ではなく、“語る者”としての私が始まったのかもしれない。