第二章‐4:日没と第三の死
支部の時計が、日没の一時間前を告げたとき、私はすでに準備を終えていた。
カリムには何も言っていない。
報告しても、おそらく意味はない。
今回の出来事も、通報ログは存在しない。
通信の痕跡も消えている。
信じる者だけが、動ける。
私は支部の裏手に停めていた小型ステルギアに乗り、第三巡礼街区へ向かった。
道は空いていた。
祈りの時間が近づくにつれ、人々は屋内へと引いていく。
まるで、街そのものが何かを待っているかのように。
旧祈祷所に着いたのは、空が金色から紫へと沈む直前だった。
巡礼路には誰の姿もなかった。
空気は澄んでいるのに、呼吸がしづらい。
先ほどの男の姿はなかったが、私の背中には、常に何かの視線がまとわりついていた。
私はそっと手帳を開き、記録の準備を整える。
非公式の、誰にも認可されない、個人的な記録。
それだけが、私の目の代わりとなる。
陽が完全に沈んだ瞬間だった。
風が、吹いた。
この都市ではめったに感じることのない、生きた風だった。
祠の奥、祭壇の前に、何かが現れた。
音もなく、光もなく、ただ輪郭のような“気配”だけが、その場に滲み出た。
私の目には、それが人影のように見えた。
だが、顔はなかった。
身体も、境界線がぼやけていた。
それは“存在しない存在”だった。
だが、その中心に、明確な“死”があった。
気配が薄れたとき、そこには──人が倒れていた。
誰ともわからない。
性別も、年齢も、不明。
顔は伏せられ、手は祈るように胸の前で組まれている。
外傷はない。苦悶の表情もない。
まるで、何かに同化するようにして命を手放したような――そんな静けさ。
私は一歩、二歩と近づき、跪いた。
記録端末は、反応しない。
カメラは動くが、識別タグは生成されない。
登録不能。記録不能。存在未確認。
私は、また記録を始めた。
──《1476年11月19日、日没直後、第三巡礼街区旧祈祷所にて“第三の死体”を確認。記録拒否反応あり。性別不明。記録官視認により記録継続。》
そのときだった。
風の音に混じって、誰かの足音がした。
私は即座に振り返る。
――いない。
しかし、祠の影には、ほんの一瞬だけ、淡い影が残っていた。
まるで、“見られたこと”を確かめるように、
こちらを振り返った気配が、確かにそこにあった。
私は身を起こし、辺りを見回す。
だが、誰もいなかった。
音も、気配も、何も残っていない。
あるのは、“この死”だけ。
支部に戻ったのは夜半を回った頃だった。
私は自席に戻ると、記録を端末に打ち込み始めた。
公的には、この夜、何も起こっていない。
だが私には、もう三つ目の死が刻まれている。
そして、そのすべてに共通していたのは――
「誰も見ていない」
「誰も覚えていない」
「記録できない」
そして、「死に、意味がある」
ただの偶発的な死ではない。
そこには、必ず“意図”がある。
私は最後に、手帳の余白にこう書き加えた。
《この死は、誰かに見られるために演出されている。
──観測者を求める死。》
そして、それが私自身を選んだのではないかという恐怖が、初めて形を持ち始めていた。
都市の夜は、何事もなかったように静かに明けていく。
だが私は、もう知っている。
この都市のどこかで、またひとつ“死”が準備されていることを。
そしてそれは、次第に、“私の中の何か”を試し始めていることを――