酒をミルクに
睡眠に必要な物以外を他の部屋に移動させた頃には、真上にあった太陽がかなり傾いていた。一先ず眠れる環境になったので、一度作業は終了だ。
「今日は、こんなところですかね……」
「十分では?」
スッキリとした室内を見て一息つくと、オリバー様も感動したように部屋を見渡した。ベッドとサイドチェストのランタン以外、何もない小綺麗な部屋になった。
シーツも枕カバーも綺麗に洗い、寝間着として肌触りが良くゆったりした服も選んでもらった。枕の高さは下にタオルを置いて調整済みだ。
普通の人ならこの状態で十分なのだが、オリバー様は事情が違う。一度、寝室で眠れなくなっているので、もう少し工夫が必要だろう。
「最低限、眠れるようにはなりましたが、根本的な改善には暫くかかるかと」
「スキルがあるだろう」
確かに、スキルがあれば眠れることは実証済みだ。しかし、それではいけない。スキル無しで眠れる状態に戻さなければ、最終的に困るのはオリバー様だ。
「勿論、スキルは使用します。契約ですし、快適な睡眠は大切ですので」
雇ってもらった以上、自分にできることは全力でやる。オリバー様が求めているのは快適な睡眠であって、女神の加護の力ではない。
今のところ、全くそんな予兆は無いが、突然この世界にやって来たのだから、突然元の世界に戻るかもしれない。そんなときに、困らないように。
「いつでも最高の睡眠を提供できるよう、努力します」
誠意を込めて小さくお辞儀をすると、オリバー様がほのかに笑ったような気がした。頭を下げていたので、見えてはいないけれど。
「そうか。取り敢えず、軽食を取ろう。作業続きで疲れただろう」
「はい」
お昼過ぎに到着してから、今迄ずっと片づけをしていたのだ。流石にお腹が空いているが、今から本格的な料理を作るには気力が足りない。簡単な料理なら、何とか作れるだろう。
そんなことを考えながらオリバー様に案内された部屋は、厨房ではなく食堂だった。
「片付けの途中に、適当に買ってきておいた。好きなものを食べてくれ」
かなりの人数で食事ができそうな長いテーブルの端に、二人分には少し多い料理がずらりと並べてあった。パンやスープ、簡単な加工がされた魚や肉。そして、水とワイン、発泡酒も置いてある。
席に着いたオリバー様は、私にも座るよう促しながら、ワイングラスを手に取った。
「…………オリバー様。待ってください」
私は、思わずオリバー様を制止した。
「なんだ?」
食べられないものでもあるのか、と低い声で問われ、首を横に振る。
「お酒、飲まれるのですか?」
私の質問に、オリバー様は少しの間の後、頷いた。
「ああ。ワインは最近、良く飲むな」
「眠れないのでしたら、お酒は控えた方がよいかと」
そう告げると、オリバー様は私とワイングラスを交互に見た。だが、飲んだ方が眠れる気がする。ぽつりと零れたその言葉に、私は、首を横に振る。
「確かに、お酒を飲めば寝付くまでは早くなります」
アルコールを摂取すると、確かに睡眠導入には効果があるのだ。しかし、その効果は約3時間ほどで切れてしまうのである。なので、全く眠れないよりは良いと思ってしまったのだろう。
「なら」
「ですが、眠りの質が悪くなり、夜中に目が覚めその後眠れないことはありませんか?」
「…………あるな」
アルコールでの入眠後、効果が切れると代謝でできるアセトアルデヒドの覚醒作用により、逆に眠れなくなってしまうのである。しかも、連日アルコールを摂取すると耐性が付き、同じ量では眠れなくなり、日に日に飲む量が増えてしまう。
結果的に、不眠が悪化する原因になるのである。更にアルコール依存症になることも多い。現代人であれば少し調べればわかることだが、この世界ではそこまで医学が進んでいないのだろう。それでも、体験に基づいて話をすれば、少しは理解しやすいはずだ。
「心当りはありますか?」
「…………心当りしかないな」
ワインを飲む量は増えているのか、飲んでも眠りにくくなっているか、と順番に確認していくと、オリバー様は段々と俯きながら答えていった。どうやら、全て心当たりがあったようだ。
「ですので、睡眠不足が完全に解消されるまで、お酒は控えて頂けますか?」
「ああ。元々、そこまで好きと言う訳でもない」
眠れないから飲んでいただけで、お酒が好きと言うことではないらしい。それなら、大したストレスなく禁酒できるだろう。とはいえ、今迄寝る前に何か飲むことが習慣になっていたのなら、少々口寂しいかもしれない。食事中は水でもいいが、折角なら後で眠りやすくなるものを準備しよう。
「ワインの代わりに、食後にホットミルクを入れましょうか?」
「頼む」
ホットミルクに含まれるトリプトファンと睡眠ホルモンには関係がある。その上、牛乳に含まれるカルシウムは自律神経を整えてくれるので眠りやすくなるのである。暖かい状態で飲むことで体が温まり、血行もよくなる。
ワインを片付けてから食事を揃っていただき、約束通りオリバー様にホットミルクを差し出した。湯気の立ち昇るミルクを見て、オリバー様は子供みたいだなと少し笑った。
「ゆっくり飲んでくださいね」
「ああ」
猫舌なのか、ミルクを冷ますように何度か息を吹きかけながら飲んでいるので、暫く時間が掛かるだろう。食器の片付けには大して時間が掛からないので、この時間を使って更に快適に眠れるように準備をしたい。
「追加で寝室に置きたいものがあるのですが、植物油などはありますか?」
寝室の片付けをしている間、怪しげな植物や瓶に入れられた謎の液体が幾つかあったので、探せば出てくるだろう。
「研究に使うものはあるが……」
「ラベンダーの濃縮液のようなものはありますか?」
教会の庭にラベンダーがあったので、精油も探せばあると思って尋ねてみる。すると、オリバー様は少しだけ視線を上げて、2、3秒。私の顔をじっと見てから、口を開いた。
「最初に通した客間の棚の上から二段目においてある」
「ありがとうございます」
いらない布に数滴垂らして使えばいいだろう。蠟燭はあるのだから、アロマキャンドルができれば使いやすいけれど、明日以降考えよう。小さく頭を下げて、食堂から出る。
オリバー様の視線は、部屋を出るまで私に向けられていた。
◇
すっかり月が昇った頃。入浴その他を終えたオリバー様が、準備の整った寝室にやって来た。
「準備はできております」
既に寝室の準備は完了しており、少し前に布に付けたラベンダー精油も香りが広がり始めているところだ。
「ユイ、この香りは……」
「先程、お借りしたラベンダーの濃縮液です」
「そうか」
幸い、ラベンダーの香りは嫌いではないようだ。リラックスできているか確認しつつ、まずはベッドに座ってもらう。
「今からスキルを使用して、眠って頂こうと思うのですが」
「ああ」
「お伝えした通り、安眠の加護は触れている相手に安眠を付与します」
安眠の加護の効果は問題ない。あれだけ狭くても朝までぐっすり眠っていた子供たちがそれを証明してくれている。そこまでしか考えていなかったのだが、先程、客間を案内されて気が付いた。
この方法に、致命的な欠陥があったことに。
「つまり、私が離れれば、安眠の加護は解除されるのですが……」
オリバー様は、私に別の部屋を準備してくれている。雇用の提案されたときもスキルの使用後は帰ってもいい、と言っていたが、そもそも、手を離した時点で安眠の加護の効果は切れるのだ。
「…………考慮していなかったな」
「教会では、少し触れただけで暫く眠っていらっしゃったので……」
あの時は、一瞬手が触れただけで深睡眠状態になっていた。なので少し触れれば眠れると考えていたのだろうが、今になって思えば、不眠が続いていたからずっと触れなくても眠れただけで、若干睡眠不足が解消されている今日、あれほど眠れるとは限らない。
とはいえ、幾らスキルの使用のためとはいえ、オリバー様の部屋にずっといる訳にもいかない。手を繋いで寝るわけにもいかないので。同じことを考えたようで、オリバー様は大きく咳払いをした。
「ひとまず、完全に眠るまでは入眠補助のスキルと安眠の加護を合わせて使用してほしい。後の事は……、明日以降、考えることとする」
「はい。ですが、夜中に目が覚めたら起こしてください」
「ああ」
私には安眠の加護が常に発動しているので、夜中何度か起きても睡眠の質が良いのでそこまで困ることは無い。最悪、夜中に何度かスキルを使いに来るか、生活習慣改善や睡眠環境をさらに整えていけば、問題は解決できるだろう。
「では、スキルを使いますね。お手をどうぞ」
「……ああ」
オリバー様が布団の中に入ってから、ゆっくりと差し出された手に、自分の手をそっと重ねる。
「手、冷たいですね」
「そうか? ユイの手は、小さいな」
冷え性なら、対策をすればさらに眠りやすくなるかも知れない。何度か軽く握って温めつつ、本格的にスキルを使うべく声をかける。
「そうですかね。では、他のスキルも使うので、眠くなったら私を気にせず寝てくださいね」
ああ、と頷いたことを確認してから、子守唄を歌い出す。歌が終わるより早く、すっかり眠ってしまったオリバー様を確認してから、そっと手を離し立ち上がる。
「おやすみなさい、良い夢を」
次回は来週末に更新予定です。




