名乗り
突然、話に入ってきた魔王の息子に対して、財務卿は冷たい目を向けて言い放つ。
お前など、お呼びでない。手を払い、そう示すのは貴族的な無言の読み合いはできないだろうと馬鹿にしているのだろうか。
「戯言を。ウィスタリア姫の婚約者と言ったが、お主は誰だ?」
珍しい黒髪だが、社交に出たことは殆どないだろう。まずは名乗るのがマナーだと知らんのか。そう言って魔王の息子の無作法を嗤う。
貴族であれば直接面識がなくとも、他の参加者が誰であるか下調べをしているものだが。知らないということは平民だと思ったのだろう。
「国王陛下」
魔王の息子は取り乱すことなく、この場で最も身分の高い人物。国王陛下の判断を仰いだ。
この国にとって、魔王は長年の脅威だった。魔王と友誼を結ぶなど、その息子と姫が婚姻を結ぶなど、受け入れられない人は多いだろう。
だからこそ、この夜会では素性を隠し、堂々と姫様の隣に並ぶこともしていなかったのだ。なので、本当に名乗っても良いのかと、彼は確認をしているのである。
国王陛下は、僅かに視線を床に落とし、魔王の息子を真っ直ぐに見た。
「…………財務卿が失礼した」
気遣いを理解した国王陛下は、頭は下げずに、しかし確かに謝罪をした。その事実に、財務卿の顔が引き攣る。
対面もあり、滅多に謝罪することのない、謝罪できない立場である陛下が、謝った。
それ程に身分が高いのか、国にとって重要な人物なのか、自分より立場が上なのか。彼に対する態度によって、咎められるのか。財務卿の脳内は大忙しだろう。
「いえ、問題なければ、この場でご挨拶させていただきたく」
幸い、彼は穏やかな性格なのか、人間との友好のためか。財務卿の態度に不快感を示すことはなく、しかし、はっきりと名乗りをあげたいことを示した。
「でも……」
その言葉に、国王陛下よりも早く反応したのは姫様だった。彼の髪と同じ黒いドレスの裾を握りしめ、彼と周囲を交互に見遣る。
関係を周知し、堂々と隣に並びたい。彼を国民に受け入れてもらいたい。同盟を結べることを喜んでもらいたい。
魔王の息子という立場を、皆が怖がるかもしれない。魔族達の策謀だと思うかもしれない。婚約に反対する意見が出るかもしれない。
事情を知っていると、そんな期待と不安が入り混じった様子が良くわかった。
「ウィスタリア姫。心配してくれてありがとうございます」
でも、大丈夫ですので。陛下が小さく手招いたのを見て、魔王の息子は壇上、陛下達より一段下まで移動していく。
姫様が一段降りて、隣に並んで。婚約は本当だったのか、と、皆の視線が集まる中で彼は優雅に一礼をした。
「僕はノクス。姓はありません」
先日、父が僕をウィスタリア姫の婚約者として、こちらの国に打診させていただきました。よく通る声で、彼、ノクスはそう言った。
「平民か……」
姓がない、という単語に反応した財務卿がそう言う。この国では平民の半分程度は姓を持たない。
大きな商会や、役人は姓を持っているが、必要がなく、わざわざ申請しない人も多い。教会で申請さえすれば、新しい姓も作れると神父様が言っていた。
だが、彼は違う。
「魔界においては、名を持たぬことの方が多いので、姓という概念がありませんから」
姓は不要。見分けは種族で十分。個体を示す名前も、長く生きる強者以外に必要はない。
過酷な環境で生きる魔族の多くは、名前すら持たず、自分以外の同族とも会わずに生を終えることもある。
人間のように、家柄を示す姓など必要はないのだ。穏やかな声音で言いながら、ノクスは髪を耳にかけた。
現れたのは、先の尖った耳。
「魔族……!!」
それは、魔族であることを示すものらしい。周囲からどよめきが起こった。どういうことですか、と国王陛下に叫ぶように尋ねる者もいる。
「宰相。説明を」
「彼は、魔界を統べる王、魔王の御子息です」
宰相が魔王から親書が届いたことや、同盟を提案されたことを説明すると、声は徐々に落ち着いていった。
だが、受け入れられたわけではない。
「魔王の罠ではないのか」
大々的に声を上げることが、恐ろしいからだ。姫様が俯くと、ノクスは困ったような声を出した。
「僕たちは別に、人間と戦う気はないのです。この国の人間を滅ぼしたいなら、そのような遠回りをする必要はありませんので」
正しいが、逆効果のような気がする。魔王からの親書は、玉座に届けられた。それは、戦う気なら簡単に城の中でも攻撃できるという証拠だ。
加護持ちに頼らず警備を見直した方がいいですよ、と変わらぬ口調で言うからこそ、説得力があった。
「人間と戦う気がないと言うが、今迄の戦いの歴史を忘れたとは言わせんぞ……!!」
財務卿の指摘に、ノクスは繰り返し、本当に人間と戦いたい訳ではないんです、と述べる。
「ただ、僕たちだけで生きるには、魔界は余りにも過酷だから、土地や食糧を求めて争いが終わらなかっただけで」
それは、人間だってやることですよね。反論できるものは、一人もいなかった。
次回は来週末に更新予定です。




