交換条件
随分と、長く感じる沈黙の後。オリバー様はぽつりと答えた。
「…………考えられないから、だ」
何を。私が問いかけるより早く、オリバー様の口が続きを紡ぐ。
「ユイがいない屋敷を、考えられない」
少し前までは、与えられた、書類上の本拠地だった屋敷。面倒だからと、実験を理由に魔術宮で寝泊まりすることの方が多かったくらい、どうでも良い場所。
業務改善命令が出て、帰るように促されるようになるまで、殆ど使っていなかった家。
夕食を楽しみに、定時で帰る。屋敷に到着すれば出迎えがある。そんな生活を送るようになるなんて、考えもしなかったと、オリバー様は言う。
「今の屋敷は、ユイが作ったようなものだ」
毎日の掃除や洗濯、食事は、使用人を雇えば代用できる。睡眠だって、グッズを使えば改善するのだとしても。
「もし、スキルが使えなくなったとしても、家事をするのが難しくなったとしても、雇用を解除する気はない」
安眠スキルも使えず、掃除も料理もできなかったら、もはや単なる居候だが、それでも良いのだと、オリバー様は言う。
ただ、出迎えてくれれば、それで良いと。それだけで家に帰ったのだと、肩の力が抜けるのだと。
だから。
「私の結婚を心配して辞めるくらいなら、私は一生、結婚しなくても良い」
それは、期待していた言葉、そのものではなかったけれど。
他の女性より、私を優先してくれたこと。スキルがなくとも、必要としてくれたことが、嬉しくて。
先程までの、ほんの少しの苛立ちは、すっかり消えてしまっていた。
「……特にメリットが提示できるわけではない。だが、辞めないで欲しい」
利益が提示できないなんて、交渉にもなっていないと、オリバー様は思っているのだろう。
でも、損得抜きで、一緒にいたいと思ってくれた事実が、私にとっては大切で。
「…………オリバー様の、気が変わるまでは。傍に居させてください」
人の気持ちは、移りゆくものだけど。少しでも長く傍に居られれば、嬉しい。もし、結婚するとしても、相手が納得してくれる人なら、働き続ければ良いだろう。
そう、思っていたのに。オリバー様は、いつも通り、なんてことない口調で、はっきりと答えた。
「気が変わることはない。魔術師は、一度、己に課した決まりは守るものだ」
魔術という法則を重んじる魔術師は、決まりを守れる者にしかなれない。だから、私が辞めないと代わりに、オリバー様は本当に一生、結婚しないということになる。
「本当に、いいんですか?」
「構わない。ユイ以外に、屋敷に入れる予定はない」
重要なことなので念押しをするが、オリバー様は真剣な声音で肯定した。今迄も女性と関わっていないだろう、と目線を逸らした。
確かに、オリバー様の屋敷で暮らしている間、女性が訪問して来たことはない。ミュリエル様は私に用があったので例外である。
「でしたら、私は今から、オリバー様専属の安眠師になります」
終身雇用でお願いしますね、と笑ってみせると、オリバー様も口元に手を当て、勿論だ、と柔らかい声で笑う。
「安眠師か。悪くない名前だな」
「屋敷を快適に保つことで、安眠を守ることが仕事になるので」
「そうか。ならば、私の安眠師に、早速仕事の相談がある」
「なんでしょう」
馬車の揺れが不規則になり、屋敷が近いことがわかる。このタイミングで言い出すと言うことは、食事のリクエストか、はたまた新しい安眠アイテムの開発か。
誤解も解け、清々しい気持ちでなんでもいいですよ、と促せば、オリバー様は口の端を片側だけ歪めて笑った。
ちょっと、いや、かなり悪どい顔である。
「安眠の加護の効果について、接触時間を変更する実験だが、一定以上の効果は発揮されていない。ついては、別の条件で実験をしたい」
「あの、もしかして、その条件って……」
以前、流石に外聞が悪いからと、取りやめたものではなかろうか。
「接触面積による、睡眠時間の変化について。専属の安眠師様は、嫁ぐ予定も、無いのだろう? 私も結婚しないことだし、外聞を気にする必要はない。誤解も解けたところで、気兼ねなく試していくべきだろう」
「意外と根に持ってます?」
馬車が止まる。オリバー様は笑いながら先に降り、私に手を差し出した。
「嫌なら断っても構わない。強制するつもりはない」
嫌ではないから、答えにくいのだ。私は無言で、差し出された手を取った。
次回は来週末に更新予定です。




