講習と視線
「眠りやすくなる運動を説明します」
舌の筋力不足は考えにくいので、遠征後の緊張を緩和するためのストレッチの方が効果的だろう。幾つか候補はあるが、場所を取らず、簡単にできるものを選んだつもりだ。
「一つ目は、首周りをほぐす運動です。首の後ろは血管が集まっているので、温めた後にほぐすことで、効果が高まります」
まずは温めてくださいね。そう伝えると、イーサン様が無言で手を挙げた。質問があるらしい。どうぞ、と促せば軽く頷いてから口を開いた。
「遠征後は街で宿をとることもあるが、当然野営も多い。そういう時はどうすればいい?」
「体を拭くタオルを水ではなくお湯につけることはできますか?」
野営の最中でも、定期的に体を拭いたりはするはずだ。水を使えるのなら、少し手間だがお湯にしてもらえば効果が格段に上がる。
「そのくらいなら可能だ」
「では、首周りに暖かいタオルを巻いてから行ってください」
風呂などのタイミングで深部体温を上げておくと、寝るときに下がりやすくなる。また、温めることで肩凝りも解消しやすい。体が楽になれば、自然とリラックスできるだろう。
「今は……」
シャワーもお湯もないので、そのままストレッチをするしかない。効果を感じにくいかもしれないが仕方がないだろう。
そう思った矢先、オリバー様が騎士たちの詰め所に向かって手をかざす。少し待つと、開いた扉からタオルと桶が飛んできた。
「これでいいか?」
足元まで移動してきた桶に、魔術で出したお湯をはり、オリバー様が私を見る。そっと人差し指を入れてみると、ほっとする温度になっていた。
「ありがとうございます」
「構わない」
流石、序列第二位である。この程度の魔術は造作もないようだ。桶と一緒に飛んできたタオルをお湯につけ、軽く絞って騎士たちに配る。
暫く首筋を温めて貰って、説明再開である。
「首の後ろで親指以外の指を組みます。うなじの横のくぼみに親指を当て、軽くつまみます。そのまま、手をゆっくり上下に動かして首すじをほぐします」
六十秒、痛くない程度の力でマッサージをする。一日中、重たい装備品を付けたまま過ごしている騎士たちは肩や首への負担も多いだろう。しっかりほぐすことで、体が楽になる筈だ。
私も緊張していたらしい。首筋がじんわり温まったことを確認したところで、次のストレッチに移行する。
「次の運動は、腕や肩をほぐします」
タオルは回収して、両手を自由に使える状態にする。
「腕を曲げ、脇を開いて肘を上げます。そのまま肩甲骨を寄せるように後ろに向かって大きくゆっくりと回します」
よくある肩の運動だ。ぐるりと肩を動かすと、肩甲骨が軽い音を立てる。
「肘を体の前まで回したら、手を組み、手のひらを前に押し出すように前方に腕を伸ばします」
腕を伸ばしたまま頭の上まで持ち上げて伸ばし、二、三秒姿勢をキープして、腕を下ろす。しっかりと背中を伸ばすと気持ちがいい。
「この運動を一分で五、六回行います」
腕が頭の上に上がらない人は、無理をせず上がるところまで。痛くないギリギリが丁度いいのである。先程の首筋のマッサージと合わせることで、かなり肩回りが楽になる。
一緒にやっていたオリバー様が、軽くなった肩をぐるぐる回しているのを見て少し笑ってしまう。
「最後は、丹田呼吸法ですね」
「丹田?」
「体の部位の事です。お腹の、へそから指三、四本くらい下にある、腹筋したときに力が入って硬くなる場所、と言えば伝わりやすいでしょうか?」
「ああ、それならわかりやすい」
各々、自身の腹に手を当てて確認をする騎士たち。パッと見る限りは間違えている人もいないようなので、次の説明をする。
「では、その場所を意識しながら行いましょう。まず、座って、肩の力を抜いてください」
胡坐など、下半身が安定する姿勢を取ってもらう。訓練場は大して汚れてもいないので、私も座ろうとスカートの裾を押さえる。
「待て」
オリバー様が地面に布を引く。この上に座れということらしい。地面に座るくらい平気なのだが、折角の好意を無駄にするわけにもいかないので、お礼を言って布の上に腰を下ろす。スカートなので、流石に正座だ。
「軽く目を閉じ、手を丹田に当てます。手を当てた場所が膨らむように、ゆっくり息を吸います」
いち、に、さん、し。ゆっくり四拍数えると、騎士たちも同じように息を吸っている音が聞こえる。
「今度は凹ませるように、倍の時間を掛けて息を吐きます」
いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち。これを繰り返す。力を入れて脱力するという動作を繰り返すことで、徐々に眠くなってくるのだ。できるだけ余計なことは考えず、呼吸に意識を集中する。
何度か繰り返したところで、終了の合図をする。ゆっくりと目を開ける騎士たちは、先程よりも緊張がほぐれているように見えた。
「以上で説明は終わりですが……、いかがでしょうか?」
「正直、イビキが解消するかは試さないと答えられない。しかし、体は楽になったな」
「マシになりそうな気はします」
明るい笑顔を浮かべ、隣同士顔を見合わせる騎士たち。短時間の運動でも、効果を感じることができたようで良かった。
「すぐには効果が出ないかもしれないので、二週間は続けてみてください」
「毎日の鍛錬と思えば簡単だ。ユイ嬢、ご教示感謝する」
寝る前の運動としてルーティン化すれば、脳が学習し、この運動をするだけで眠る態勢に入ってくれるようになる。騎士と言う立場上、継続は得意そうなので心配ないだろう。
ひとまず、持ってきた道具は必要なさそうだ。鞄を抱え直すと、イーサン様が此方を見て微笑んでいた。
「丸一日を予定していたが、午前だけで済むとは。ユイ嬢は説明上手だな」
「ありがとうございます」
空いた時間を訓練に使える、と嬉しそうである。嫌そうな顔をしている騎士もいるが、しっかりと運動した方が夜眠れるので頑張ってほしい。
「午後の予定が空いたな」
「オリバー様もお忙しいでしょうから、先に帰って夕食の支度をしていますね」
今回、念のため同行してもらっているものの、オリバー様も忙しい立場だ。午後からでも仕事に顔を出せる方が良いだろう。
「馬車は待たせているのか?」
「ああ、問題は無い、が……」
いつの間に呼んだのか、馬車は訓練場の入り口に来た時と同じように停まっている。来た時と違うのは、門の近くに誰かが立っていることくらいか。
「騎士団に用事のある方でしょうか?」
講習中は気を遣って鐘を鳴らせなかったのかもしれない。遠目で、しかも目深にローブを被っているので様子は伺えないが、じっと此方を見ているように思える。
「そうかもしれない。俺が対応してくる」
そう言うと、イーサン様はあっという間に門まで走って行ってしまった。しかし、門の近くの誰かは、未だ此方から視線を動かさない。
「…………別の人に用事ですかね?」
騎士たちを振り返って見るも、誰も心当りはないようだ。見えない筈なのに視線だけを強く感じて、なんとなく、視線を地面に落とす。
「ユイ」
ふと、顔に陰が掛かる。視線を上げると、オリバー様が目の前に立っていた。丁度、視線が遮られるような位置に立っていて、思わずほっと息を吐いた。思ったよりも、緊張していたのかもしれない。
「悪いが、魔術宮に来てくれるか。アッシュがアイテムについて聞きたいと言っていた」
「え、はい。わかりました」
昨日、引き渡したときは大丈夫そうだった気がするのだが。イーサン様の用もあって遠慮していたのだろうか。
「すまない、忘れていた」
「いえ……」
馬車もこちらに回そう、とオリバー様が手で合図を出すと、反対側の車停め場にゆっくり動き出す。
馬車に乗るまで、オリバー様は真横に立ち続けていた、
次回は来週末に更新予定です。




