第二章 蜘蛛丸
「う、うぅぅん…」
重いまぶたが少しずつ開いていき、百々丸の意識は戻っていった。
「目が覚めたか?」
「ハッ」
覚醒し上半身を起こした百々丸の目に、少し離れた岩に腰かけた満天丸の姿が映る。
「おじさん…ここは?」
百々丸は、満天丸のところに近寄るために立ち上がろうとした。
「あ、あれ?」
そのとき、まだ、完全に目覚めていなかったのか、百々丸がバランスを失い、体をふらつかせた。
「おっと、危ない!」
百々丸が倒れる前に、満天丸のたくましい腕が伸びてきて、百々丸の腕をつかんで体を支えた。
「気をつけな。落ちると、いてーぞ」
「え?」
満天丸の言葉で、百々丸は自分の体が地面に支えられていないことに気づいた。
「え〜!!」
二人が、いま立っているのは、高く切り立つ石柱のてっぺんにある二畳ほどの狭い場所で、百々丸の体は、その端から、はみ出して、空中にいた。
「わ、わ〜!」
満天丸が必死にしがみつく百々丸を、石柱の上にかかえ上げた。
「あ、ありがとう」
顔中に冷や汗をかいた百々丸が礼を述べる。
「なあに、大したことじゃないさ」
「ところで、ここはどこ?」
改めて、百々丸が周りを見回した。
いま、自分たちが立っているのと同じような石柱が他にも何本か立っているのが確認できた。
「さあな」
満天丸が、今の自分たちが置かれている境遇に興味なさそうに答えた。
「少なくとも、おいらたちがいた河原でないことは確かだな」
「どうやって、ここから下りたらいいんだろう…」
「それは、なんとでもなるが、下りるのは、ちょっと考えものだぞ」
「え?」
「下を見てみろ」
満天丸に言われ、百々丸が石柱の端から、下をのぞきこんだ。
「え!?」
キィン!
カン!
ザクッ!
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
石柱の下の地面には、たくさんの人間がうごめいていた。
それらの人間たちは、みな武器を持ち、それぞれが闘い合っていた。
耳をすますと、彼らの剣戟の音が、あちらこちらから聞こえてくる。
「こ、これは?」
「剣匠丸が、修羅の国と言っていたのは、本当のようだな」
いつの間にか、百々丸の横に立っていた満天丸が言った。
「見渡す限り、まさに、血で血を洗う戦場だ」
満天丸の言葉どおり、視界に入る地上は、どこも戦いで埋めつくされていた。
彼らの体から、あふれ出した血が、地上に赤い霧を生み出している。それは、満天丸たちを、この世界へと導いてきた、あの赤い霧に似ていた。
「サムライだらけだ…」
百々丸がつぶやいた。
「ああ、ここにはサムライしかいねぇ。だが、今のサムライだけじゃないみたいだな」
「え?」
「あそこのサムライは百年以上前の鎧を着けているし、そっちのに至っては三百年は昔の刀を使っている」
満天丸が指差す方を見ると、たしかに見慣れない形の鎧や刀を使っているサムライの姿があった。
「それに、日ノ本のサムライだけじゃねぇ」
「え?」
「チラホラと唐土の格好をした奴らがいるし、何人かは南蛮の連中もいる」
百々丸も、この日ノ本の海の向こうにも国があり、そこに暮らす人々がいるという話は聞いたことがあった。百々丸が見たことがない髪や服を着ているのは、そういう人々かもしれない。
「まさに、古今東西、ありとあらゆるサムライが、この下にいるって感じだな」
満天丸が言った。
「おいら、ワクワクしてきたぞ」
満点丸の目が、期待で輝いているようにみえた。
「え?」
「だって、そうだろ!あそこにいるのは、強いサムライばかりだ!おいらの目指す天下無敵に近づくためには、またとない修行の場だ!」
「え!?イヤイヤイヤイヤ!あそこに行く気なの?」
「ああ、もちろん!」
「さっき、下りるのは考えた方がいいって言ったじゃん!」
「ああ、考えたうえで、下りると決めた!」
「ちょっと待ってよ!あんな戦場に、いきなり行ったら、ぼくなんか骨も残らないよ!」
百々丸の必死の訴えは、耳に入っていないのか、満天丸は目をキラキラさせたまま、地上のサムライたちを見ていた。
「それに、どうやって、ここから下に下りるの?この石柱、十丈はありそうだよ!」
たしかに、石柱は、かなりの高さがあり、下のサムライたちと比べても、百々丸の目測通りの高さはありそうだった。
「なに、それは心配いらない」
「え?」
「さっき、言ったろ。おいらは天下無敵だ!高さなんか、おいらの敵じゃない!」
「…」
自信たっぷりに、そう言った満天丸を見て、百々丸の目が点になった。
「イヤイヤイヤ!なに?その理論?意味分かんない!?」
少しの間があって、思考停止していた百々丸の脳が復活した。改めて、満天丸に詰め寄る。
「なあに、大丈夫だ!おいらに任せろ!それに、ここに、これ以上いても、どうしようもないしな」
百々丸の必死な様子とは裏腹に、いつもと変わらぬノンビリした口調で、満天丸が言った。
「それは、そうだけど…」
「よし!決まった!」
満天丸はそう言うと、百々丸の体を背中に背負った。
「じゃ、行こうぜ!」
「え!?え!?え〜!」
そして、二人の体は、宙に飛んだ。
「ところでな」
落下しながら、肩にいる百々丸に満天丸が言った。
「なあに?おじさん!?」
下を見ないように目をつぶったまま、百々丸が答える。
「それだ。そのおじさんと言うのはやめてくれ。おいらとお前は、十は離れていない」
「え?」
「おいらは、まだ二十を過ぎたばかりだぞ」
「いや、それ、いま、言わなくちゃいけないこと〜!?」
二人の体の落下速度は次第に速くなっていった。
ドスン!
想像していたより、着地の衝撃はかなり小さかった。
百々丸が、おそるおそる目を開ける。
二人が着地したのは、地上ではなかった。そこは、地上より二丈ほどの高さに、いくつかの石柱を使って張り巡らされた網の上だった。
「これは?」
満天丸が怪訝そうに言った。
「落ちたときに危なくないように、用意されてるんじゃない?」
百々丸が言った。たしかに、地面に直接落ちていたら、今ごろ、二人とも無事ではなかっただろう。
「いや、これは、そんな親切なものじゃないな」
「え?」
「見ろ」
満天丸が足元を指差した。
「え!?」
満天丸の足に血が滲んでいた。
「この網は、刃物の糸で出来ている」
「この糸が全て刃物…?」
百々丸の顔が青ざめていく。
「ホウ、変な獲物がかかったな」
そのとき、二人の頭上から声がした。
「出たな」
百々丸は驚いて声のした方を見たが、満天丸は、すでにその存在に気づいていたように、平然と顔をあげた。
ちょうど網と同じくらいの高さの石柱の上に、人影があった。
伸び放題の髪にも、ボロボロになった着物にも、たくさんの糸が絡みついている不気味な男だ。
「このニオイ、河原で、おいらたちを襲ってきた忍びの中にいたヤツだな」
鼻をクンクンさせながら、満天丸が言った。
「クククッ。勝手に飛び入りしてきた分際で、偉そうな口をきくものだ。我らの相手は剣匠丸だったというに」
「おいらの相手も、剣匠丸だったから仕方ない。こういうのは早いもの勝ちだろ」
悪びれもせず、満天丸が答える。
「面白いことを言う。改めて、名乗ろう。我は、搶禍忍軍の蜘蛛丸だ」
「なるほど、最初の敵が蜘蛛というのは王道だもんな」
満天丸が言った。
「何の話?」
百々丸が聞く。
「イヤ、なんでもない。大人の話だ」
「ふ〜ん」
「トボけたヤツだ。だが、その余裕が、いつまで保つかな?」
「なに!?」
蜘蛛丸が左右の腕を振ると、袖口からナニかが飛び出し、満天丸に襲いかかった。
「クッ!」
満天丸が飛来したものを避ける。
それは、鋭い刃物を先端に付けた細い糸だった。
その糸の根本は、蜘蛛丸の指につながっており、親指を除く左右四本ずつの指からそれぞれ糸が伸びている。
「なるほど、蜘蛛の足と同じ八本か。いいね〜、キャラがブレなくて」
「キャラって何?」
真剣勝負の最中というのに、満天丸と百々丸は、そんな会話をしていた。
「グダグタと意味のわからんことを!」
蜘蛛丸が、苛立ちを隠さず叫んだ。
「足元には刃の糸。上からは八本の刃。いつまで、そうやって躱せるかな?」
蜘蛛丸はそう言うと、再び、手中の糸を操り、満天丸に襲いかからせた。
「躱す?そんな必要あるんかね?」
満天丸はそう言うと、八本の糸が届く前に、蜘蛛丸に向かって走り出した。
「なに!?刃の糸の上を、なぜ走れる!?」
「おいらの足は、少しだけ宙に浮いてるのさ!」
「え!?」
蜘蛛丸がそう言ったときには、満天丸は、すでに目の前にまで走り寄っていた。
「日輪霊陽流!暁天!」
満天丸の叫びとともに、抜きつけられた刀は、蜘蛛丸の股間から頭頂まで、斬り通した。
「!!」
蜘蛛丸が声にならない絶叫をあげた。
「武器がいくつあっても、操っているのは一人だったら、そいつを斬っちまえば早いからな」
満天丸は、そう言うと血振りをして納刀した。
「見て!おじさん!」
まだ、満天丸の肩に乗っている百々丸が言った。
「だから、おじさんはやめろって!」
「そんなことより、ホラ!」
百々丸が指し示す方に目をやると、先ほど斬った蜘蛛丸の姿が消えていき、やがて、一枚の御札となった。
「え?」
これには、さすがの満天丸も驚いたようだ。
満天丸の肩から下りた百々丸が、その御札を拾い上げ、満天丸に差し出した。
「なんだコレ?」
百々丸から手渡された御札を、しげしげと見つめながら満天丸が言った。
その御札には、蜘蛛丸の似姿や名前が描いてある。
「忍者の変わり身の術?じゃねぇよな〜?」
「ここでは斬られたサムライは、御札になるのかな?」
「そんなバカな話…ないとも言えんか。そもそも、こんなところがあること自体、バカな話だしな」
二人は、御札を見ながら、改めて、自分たちがとんでもない世界に迷い込んだことを思いしったのだった。