第一章 血月虹の夜
月が出ていた。
満月だったが、星はなく、暗い夜だ。
月の光も地上までは届かなかった。
それもそのはず、今宵の月は優しい黄金色の光ではなく、朱く滲んだ光を地上に落としていた。
月の周りには、囲むように月虹が出ていたが、それも不気味な赤色をしていた。
しかし、地上には静寂が訪れているわけではなかった。
ここは都に近い河原である。
昼間は、都に行き来する人の通り道であるが、日が落ちた、この時刻は人気がなかった。
人の背丈ほどの芦が生い茂り、地面を覆い隠していた。
「ぐが〜、ごぉ〜、が〜!」
その芦原のどこかから、大地に響き渡る轟音がしていた。
夜の静寂を破るのは、その音のみで、他には、何の物音もしない。
まるで、ここに存在するのは、その音のみであるかのように。
「ねえ!」
どこかから、音とは別に人の声がした。
「ちょっと!おじさん!こんなところで寝ていたら、凍え死んでしまうよ!」
それは、まだあどけなさが残る少年の声だった。
見ると、芦原の中に、二人の人間がいた。
一人は少年。
その瞳が印象的に澄んでいる、年の頃は十代半ばの少年だ。
脚絆を着けた旅姿をしているが、その脚絆も着物も真空色をしており、その青さが、この少年には、よく似合っている。
少年は先ほどから、もう一人の人間に話しかけていた。
「おじさん!長月とはいえ、夜は冷え込むから、こんなところで寝てちゃダメだって!」
少年が声をかけている相手は、一人のサムライだった。
どうやら、先ほどから、芦原に響き渡っている騒音は、このサムライのいびきだったらしい。
サムライは、少年の必死の呼びかけにも関わらず、一向に起きる気配がなかった。
「どうしよう…ぼくも、今夜の寝床を探さないといけないけど、このおじさん、このままだと死んでしまうよね…」
困り果てた少年の眉が八の字になっていた。
「少年、その御仁はお主の父親か?」
「えっ!?」
いきなり、声をかけられ、少年が飛び上がった。
そこに立っていたのは、旅の汚れはあるものの、きちんとした身なりのサムライだった。
着ている羽織も袴も、闇から抜け出してきたように黒い。
そして、何より、少年たちに、かなり近い位置に立っているのに、声をかけるまで、全く、その気配を感じさせなかった。
それは、闇がいきなりサムライの形を取ったように感じられた。
少年が慌てて答える。
「い、いえ、全然知らない人です。通りがかったら、ここに寝ていて、行き倒れかと思ったんですが、あまりにも元気ないびきなので、このまま、置いていくのも忍びなくて…」
「ほお」
声をかけた黒いサムライが、笑顔で少年を見つめた。
「優しい子じゃな」
照れた少年の頬が桃色に染まった。
「しかし、この場は早く立ち去った方がいいな」
「え?」
「もうすぐ、ここは、血で血を洗う修羅場となる」
「?」
「ぐお〜、が〜!…」
そのとき、寝ているサムライのいびきが止まった。
周囲は静寂に包まれる。
「おじさん、目が覚めたのかな?」
少年が寝ていたサムライの方に近寄ろうとした、そのとき、
「動くな!」
先ほどまで笑顔を見せていた、黒いサムライの表情が険しいものになった。
少年が、ビクッとして、動きを止める。
「クククッ」
暗闇から何者かの笑い声がした。
「ひぇっ!」
少年が、慌てて、声のした方を振り返る。
「フフっ」
すると、今度は違う方向から、別の笑い声が聞こえてきた。
「出たな」
黒いサムライが闇に向かって言った。
「さすが、天下十剣の筆頭、剣匠丸。隙がないな」
「何者だ?」
「我々は搶禍忍軍。その首を取れば、一国一城の主となれると言われている天下十剣。その中でも、筆頭のお前の首は一番高い」
「…」
「お命頂戴する!」
闇から鋭い殺気が襲ってきた。しかし、
「やめておけ。たかだか、十人程度の忍びではオレの首は取れん」
剣匠丸と呼ばれた黒いサムライは、先程と変わらない自然な口調で言った。
「な!なにぃ!」
闇の気配が熱を発する。
「フム、十一人か…。オレを討ちたければ、その十倍は必要だな」
「搶禍忍軍の中でも、特に手練の我々を相手に、なめた口をきくものだな!」
「それに、今宵は、血月虹が出ている。血の匂いを嗅ぎつけると、あれがやってくる」
剣匠丸が、空を見あげて言った。
その視線の先には、不気味な朱い月がある。
「臆したか!何が来ると言うのだ!」
「闘幻境…」
依然として空を見ながら、剣匠丸が言う。その目は、どこか遠くを見ている様だった。
「なに!?」
「いや、もう手遅れか…。血霧が出てきた」
剣匠丸は、地上に視線を落とした。彼が見つめる先には、闇夜でも、はっきりと見える赤い霧がかかっていた。
「なんだアレは?」
その霧を見た闇の気配から、戸惑いが感じられた。
「少年」
剣匠丸が少年の方を向いて言った。
「名は?」
「ぼく、百々丸です」
「そうか」
剣匠丸が先程と同じ優しい顔で、百々丸と名乗った少年を見た。
「百々丸。悪いことは言わない。今すぐに、ここを立ち去るのだ」
「え?」
「あの霧の向こうは、この世とは違う修羅の世界だ。あの霧に捕まらないように、早く逃げた方がいい」
「で、でも…」
百々丸が、足元のサムライを見た。いびきは止まったが、まだ目を開く様子はない。
「あの霧は生きている。人のいる方に近づいてきて、人を闘幻境へと連れ去ってしまう」
たしかに、剣匠丸の言うとおり、赤い霧は、次第に、こちらに迫ってきているようである。
「お前も立ち去れ。目が覚めているのは分かっておる」
「え?」
百々丸が寝ていたサムライを見た。そのとき、サムライの目がパチリと開いた。
「ヘヘッ、バレてたかい?」
「先ほど、オレが近づいたときに、その気配で起きたのには、すぐに気づいた」
「流石、天下十剣だね」
サムライが体を起こしながら言った。
その動きは、緩慢そうに見えるが、その実、隙がなく、もし、ここで剣匠丸が斬りかかっても、十分に対応できる動きだった。
サムライが立ち上がった。
そのサムライの着物は、長年、着古したのがうかがえるくらい袖も袴の裾も、ほつれてボロボロになっていた。もともとは白かったであろう色も、いまや黄色がかった象牙色になっている。しかし、背中に印象的に染め抜かれた太陽の紋様だけは、きれいだった。
「おいらは満天丸。天下十剣、おいらと、いざ、尋常に勝負!」
満天丸と名乗ったサムライが、刀の鯉口を切った。
その瞬間、どこか飄々としていた満天丸から、鋭い剣気が発せられる。
「オイ!」
闇から声がした。
「いきなり出てきて、なに、抜けがけしてやがる!剣匠丸は、我らの獲物だ!」
「なあに、どうせ、お前らは秒殺されるから、おいらと戦った方が、時間も手間も省けるってもんだ」
満天丸が言った。
とぼけた口調ではあるが、全身に気が張り巡らされ、剣匠丸だけでなく、未だ闇から姿を現さない搶禍忍軍にも備えていることがわかる。
満点丸の熱い剣気、剣匠丸の静かな剣気、搶禍忍軍の鋭い殺気、三つ巴の気が、その場に満ちていき、なにかのきっかけがあれば、溢れた気が爆発しそうでなっていた。
「ねえ!」
そのきっかけを作ったのは、百々丸が叫び声であった。
百々丸の声と同時に、満天丸が一気に剣匠丸との間合いを詰めた。
キィンッ!
高い鋭い音がして、両者の刃が重なり合う。
そのとき、闇の中から、いくつもの影が飛び出し、二人に襲いかかった。
しかし、満天丸も剣匠丸も、視覚の端に、すでに、その影の姿を捉えていた。
二人は、均衡している鍔迫り合いを同時にやめ、返す刀で前後左右から襲いかかる影を斬った。
「ぐぉっ!」
襲撃者の切っ先が、二人をかすめることさえなく、影たちは、地面に転がった。
満天丸と剣匠丸は、何事もなかったかのように、もとの鍔迫り合いの状態に戻っている。
「流石だな、天下十剣。おいらより、一人多く斬ってる」
「たしかに、オレが六人、お主が五人。しかし、よく数える余裕があったな」
命がけの死合の最中だというのに、二人とも、どこかのんびりとした口調で語り合っていた。
「ねえってば!」
そのとき、再び、百々丸が叫んだ。
「赤い霧、もう、そこまで来てるよ!逃げなきゃいけないんじゃなかったの!?」
百々丸が指差す方には、たしかに、わずか数間の距離まで迫っている赤い霧があった。
「しまった!満天丸、ここは一時休戦だ」
剣匠丸は、そう言うと、一瞬で満天丸の間合いの外に出た。
「アレは何なんだ?」
再度、剣匠丸の間合いに入ることは難しいことを、瞬時にさとった満天丸が刀を納めながら言った。
「詳しい説明は、又の機会だ。お主たちも、早く立ち去れ」
そういう剣匠丸の姿は、すでに遠く離れ、次第に夜の闇に溶け込んで消えた。
「チッ」
満天丸が舌打ちして、その姿を見送っていると、
「おじさーん!」
百々丸の切羽詰まった声がした。
「どうした!坊主!」
ようやく、百々丸の方を振り返った満天丸の目に、半ば赤い霧に包まれた百々丸の姿が映った。
「おい!おめー、なんか、包まれてるじゃねーか!早く、こっちに逃げてこい!」
「そ、それが、霧にしっかり掴まれてるみたいに、体が動かないんだよ〜」
百々丸の必死な表情から、それが嘘ではないことが伝わってくる。
「しかたねーなー」
満天丸が、面倒くさそうに頭をかきながら、百々丸の方に近づき、その腕をつかんだ。
すると、
「な、何!?」
百々丸をつかんだ満天丸の腕に、赤い霧が絡みついた。
「なんか、こんな感じで、つかみとられちゃうんだよね」
「それを早く言えよ」
「なんか、ごめん」
百々丸がそう言ったとき、今まで以上の強い力で、二人は引っ張られた。
「わ〜!」
横から引っ張られていたはずなのに、いつの間にか、二人は下に落ちていった。
そして、意識を失った。
「だから、言わんこっちゃない」
二人が赤い霧に呑み込まれるのを見ていた剣匠丸がつぶやいた。
「とはいえ、ほっとくわけにもいかんか…」
剣匠丸はそう言うと、来た道を戻り、自ら赤い霧の中へと入っていった。
少し経つと、霧は晴れた。
同時に、空に浮かぶ月も、いつもの黄金色に戻った。
芦原には何者の姿も見えなかった。
転がっていた十一の忍びの姿も消えていた。
やがて、秋の虫たちが鳴き始め、いつもと変わらぬ夜となった。