5-1 #普通 とは
「私にはもう作家になるしか生きる道がない」
いつだったか、ネットの片隅で。
小説家志望の少女がそう言っていた。
「作家になんていつだってなれる。急ぐ必要はない。作家は人に残された最後の仕事だ」
一方で、とある著名な作家はそう語る。
なるほど。
両者の言い分は、どちらも正しいと思った。
ただ見えている世界が違っているだけだ。
いわゆる普通の人たちとかいう連中の目から見れば、前者の姿は現実を直視できていない愚者に映るのかもしれない。事実そうなのだろう。だって“普通”だということは、つまり“多数派”であるということであり、この民主主義の国ではそれが“正しい”ことなのだ。
“正しい”ことは“正義”だ。
そして“正義”は、時に“残酷”だ。
はてさて、それじゃあ。
正しくあれなかった私たちは。
少数派の私たちは。
愚かな私は。
何を糧にして生きていけばいい?
◇◆◇
「…………」
自室のベッドで寝転がりながら、ポチポチとスマホで入力した文章を睨みつける。
なんか違う。
私が言いたいのは、こういうことじゃない。
ていうか、スマホでの入力に対してポチポチって擬音を使うのは何か違くないか? フリック入力をしているわけだから……フリフリとか? 私はフリフリと文字を入力した。
「伝わらねぇー!」
キレてスマホを枕に叩きつけた。
そう、伝わらない。
私の書いたものは、多くの人には伝わらない。
違う、伝える技術が足りていないだけだ。それと努力も。
そもそも私は……。
「何を……伝えたいんだっけ……?」
少し前には、確かにあったはず。
人間はどこまでいっても孤独であるということだとか、ぼっちな私の悲痛な心の叫びだとか、あるいは多くの人にウケる作品を書き上げて称賛を得たいだとか。
軸はブレブレだが、文章を書いて、それで何かを成したいという気持ちはあった。カッコ過去形カッコとじ。
今の私には、それがない。
気がつけばもう七月。本作の投稿から四ヶ月が経ったが、あれから投稿したのは焼き直しの作品ばかりで、完全な新作は書けていない。
昔の私なら、きっとこの状況に焦燥感を抱いていた。
そして何がなんでも新作を書こうとしたはずだ。
「……そろそろ出かける準備をしないと」
今日は日曜日。
私と、優ちゃんと、佳織ちゃんと、あとついでに伊崎の四人でヅャスコに遊びに行くのだ。何故ヅャスコかって? この田舎街だとヅャスコくらいしかヤングの遊ぶところがないからである。
なんやかんやで学校も始まって、クラスが同じだったこともあり、私たちはよく一緒に行動を共にするいわゆる仲良しグループになった。
体育の授業の二人一組で余ることもなく、休み時間を寝たふりで過ごす必要もなく、とても安らかで幸福な日々。
幸せだった。
楽しかった。
けれど、それはちょっと、私には刺激が強すぎた。
何を努力することもなく、いきなり幸福を与えられて、私はどうすればいいのか。
それとも“普通"って、普通はこういうものなのか?
私のアイデンティティは、リア充どもを憎み、その負の感情を糧にして小説を書くことだと思っていた。
厭世的で退廃的なクズでいることが心地良かった。ぶっちゃけて言えば、そんな自分に酔っていた。
そんな捻れたアイデンティティは崩壊した。
それ自体は、多分いいことなのだろう。
だというのに、どうしてだろう。
こんなのは、私じゃない。
心の片隅には、そんな思いがわだかまり続けていた。




