4-5 識
「お待たせ」
数分後、二人分のカップを両手に持った優ちゃんが台所から出てきて、片方を私の前のテーブルに置いて、それから私の対面へと座った。
カップの中からは、カカオの良い香りが立ち上ってくる。どうやら私の冷えた体を気遣ってホットココアを作ってくれたらしい。そういうところホント好き。
「あ、ありがと……。あっ、ゆ、優ちゃん、足……」
「え? うわ、気づかなかった……最悪。あのバカ兄……」
おそらく先程お兄さんを足蹴にしたとき靴下に付着したのだろう、赤い血のりが優ちゃんの足跡となって床を汚していた。
「落ちるかな、これ……」
床のことを言ってるのか靴下のことを言ってるのか、はたまたその両方なのか分からないが、優ちゃんはボヤきながら片足を上げると靴下を脱ぎ始めた。
ロングスカートに隠されていた白い太もも――――否、太ももと言うにはあまりに細かったので“細もも”と言うべきだろう。兎にも角にも細ももがチラ見えした。
あかん、鼻血出そう。
も、もうちょっと……もうちょっと足を上げてくれれば、おパンツ様がッッッ……!
そんな私の欲望とは裏腹に優ちゃんはそそくさと靴下を脱いで足を下ろしてしまった。
クッソォォォッッッ!
「はぁ……とりあえず洗濯かな……。卯月も、赤いの踏まないように気をつけてね」
優ちゃんはため息を一つ吐くと、靴下を持って居間を後にした。
「優ちゃんのおパンツ……残念無念……」
誰にも聞かれてないだろうと思い発した独り言だった。
「なんだ、優のパンツが見たかったのか?」
唐突に背後から掛けられたイケボに血の気が引いた。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこには何とお兄さんが立っていましたとさ。
何でよりにもよってあの独り言を聞かれるの?
なんて弁明すればいい?
ある意味、今までの人生で一番ピンチじゃない、これ?
「や、や、やだなぁ、お兄さん……そ、そそ、そんなことあるわけないじゃないですか」
「卯月は優のことが好きなのか?」
「うぇ!?」
いきなり直球ど真ん中に豪速球を投げ込まれ、変な声が出てしまった。
「や、やだなー! そ、そんな――――」
そんなこと、あるわけないじゃないですか。
そう冗談めかして返そうとしたのだが、お兄さんが思いのほか真顔だったので、決して冗談で聞いてきたわけではないと分かってしまった。
……これは、きっと適当に答えてはいけない問いかけだ。
だから、考えた。
いつも難しいことは考えないように、考えないようにと生きてきた私だけど、一生懸命考えてみた。
私は優ちゃんが好き。うん、好きだ。
でも、それはどんな形の好きなんだろう。
私は友達が出来たことがないから、友達としての好きがどんなものなのかをまだ知らない。家族を好きだと思ったこともない。恋だって二次元にしかしたことがない。
――――私は、好きを知らない。
だと言うのに、先程の思考の中で真っ先に優ちゃんが好きだという結論が出たのは何故だろう。好きを知らないくせに、好きだなんて言ってもいいんだろうか。
つまるところ、本当は好きでも何でもなくって。
ただ、好きだと思い込もうとしてるだけなんじゃ――――。
「……どうやら、おまえも考えすぎる性質みたいだな。なるほど、それでか」
お兄さんが私の頭を撫でてくれる。
いつもなら胸キュンするところだが、思考がダウナー寄りになっている今の私はそれどころではない。
「……お兄さんの言ってる意味が分かりません」
「暁……って言っても分からんか。優の彼氏なんだが、あいつもそういうところがあってな。卯月、おまえは昔の優にも似ているが、暁にも似ている。だから優はおまえを放っておけなかったんだろう」
「……そう、なんですか」
そっか、そうだったんだ。
優ちゃんは私を見ていたわけじゃなくって、私を通して過去の自分や彼氏のことを――――。
「だからと言って、優がおまえのことを見ていないだなんて考えないでくれ」
「はぇ?」
思考を先回りされたもんだから、アホみたいな声を出してしまった。
「きっかけはそれだったかもしれないが、ただそれだけで誰かと付き合いを続けるほど、うちの妹は人付き合いが上手くないもんでな。優は間違いなくおまえのことを好いてるよ」
屈託のない笑顔だった。
……困っちゃいますよ、お兄さん。
だって、そんな顔でキッパリ断言されちゃうと、ステータスをネガティブに極振りしてる私でも信じちゃうじゃないですか。
「わ、わた、私も……ゆ、優ちゃんのこと、好き、なんだと思います……」
誰かのことを好きだと、生まれて初めて口から出した。
怖くて体が震える。私は一体何が怖いんだろう。誰かを好きになるということが怖いのか、あるいは自分が変わってしまうことに怯えているのか……分からない。
分からないことが、怖いのかもしれない。
「ああ」
「で、でも……この好きが、どういう意味での好きなのかも……分からないです……私は今まで生きてきて、人を好きになったことがないから……そもそも、これが好きっていう感情なのかも分からなくって……」
「分からないから不安になる、か」
「……だと思います」
「だとさ。どうする、優?」
お兄さんの視線を辿っていくと、いつから戻ってきていたのか、優ちゃんがすぐそこにいた。
き、聞かれてた? マジで? どこから?
ていうか、ここんとこ、こんなのばっかじゃんねぇ!?
恥ずかしい……恥ずか死ぬ……!
「まず、お兄ちゃんは澄まし顔してないで床を掃除して」
優ちゃんが雑巾と洗剤をお兄さんに投げ渡した。
「おう、まかせておけ!」
お兄さんはそれらをキャッチしてグッと親指を立ててウィンクをすると、せっせと床を拭き始める。
優ちゃんは改めて私の対面の椅子に座り、ホットココアを一口飲んでから私の名前を呼んだ。
「……卯月」
「う、うん……な、なに?」
さっきの告白(?)を聞かれていたのかと思うと気恥ずかしくって、私は俯いたままでいた。
「お兄ちゃんが余計なこと言ったみたいで、ごめんなさい」
「そ、そんな、よ、余計だなんてことは……」
「そうだぞ。そんなこと言われると、兄ちゃん悲しいぜ」
お兄さんが床を拭きながら抗議の声を上げる。
「お兄ちゃんは黙って床拭いてて」
「…………ああ、分かった」
優ちゃんに一蹴され掃除を続けるお兄さんの背中は、どこか悲哀を帯びていた。
「上手く言えないんだけど、その……卯月はね、答えを急がなくてもいいと思う」
「……急がなくても、いい?」
言ってることがピンと来なくて、優ちゃんの言葉をオウム返ししてしまう。
「うん。……今はまだ分からないままでいいんだよ、多分。私は……私たちはきっと、少し変わった境遇で生きてきたよね?」
多分この言葉を、他の誰かに言われたら反発していただろうと思う。テメェに私の何が分かるんだと。
でも、優ちゃんの言葉は不思議と胸にすんなりと入り込んできて、沁み渡っていった。
「……うん。多分、そう、だと思う」
生まれて十五年、異性も同性も家族も誰一人として好きになれなかった私の境遇は、少し変わっていると言えば変わっているのだろう。多分。知らんけど。
「私たちは、当たり前を知らずに生きてきた」
「……うん」
「人と関わることを拒み、情緒を育てあぐねた」
「…………」
「そのままでも良かった。別に。人は一人でだって生きていけるし、生きていけなくなったら死ねばいいし。私はそう考えていた。……ううん、ほんのちょっとだけど、今でも心のどこかでは、そう考えてる」
優ちゃんの言葉は独白にも似ていて、もしかすると既に私に向けたものではないのかもしれない。私はただ黙って聞いていることしかできなかった。
「……でも、何でかな。こんな私でも求めてくれる人と出会って……そんな人と一緒にいるうちにね、少しずつだけど分かるようになってきたの。自分の感情とか、他人の気持ちとか……」
「…………」
「こんなこと、普通の人にとっては当たり前のことなのかもしれない。けどね、私にとってはどれもこれも未知の領域で……怖かった。知らないものに触れるのは、すごく怖い。ましてや、それが自分の中にあるものなら、尚のこと」
「……自分の中にある……感情?」
私の発言に、優ちゃんがこくりと頷く。
「卯月、自分を識るっていうのは、内面の色々なものと向き合う必要があって、とても怖いことなの。だから、今のあなたの気持ちは間違いじゃないし、無理に識ろうとする必要もない」
知らないままの方が幸せなこともある……ということなのだろうか。
「だから、ね」
優ちゃんは椅子から立ち上がると私の後ろへと回ってきて、それから優しく抱きしめてくれた。
「分からないままにしてもいいし、もし卯月が自分を識ろうって思えるときが来たら、そのときは私も一緒にあなたを探すから」
「……何で、そこまでしてくれるの?」
分からなかった。
いや、本当は分かっていた。
「私にとって、卯月が大切な友達だから」
優ちゃんならそう言ってくれるって知っていた。
でも、私はビビリだから。
ちゃんと言葉にしてくれないと、信じてもいいのか不安になっちゃって。
ああ、やだな。また勝手に涙が溢れてきちゃってさ。
完全にメンヘラじゃん、こんなの。
「クソ、この汚れ全然落ちねぇぜ……」
一方で、お兄さんは床の汚れと格闘しながらボヤいていた。
シリアスな空気がブチ壊しなんですけど。
何だか泣いているのがバカらしくなってきて、吹き出してしまった。
「卯月? どうしたの?」
「……ううん、何でもない。優ちゃん、ありがとう」
「ん」
本当に、ありがとう。
こんな私を大切な友達だって言ってくれて、すごく嬉しかったよ。
私もいつか変わることができるかな。
優ちゃんのように、誰かに優しくできる人間になれるといいな。




