蒼い月からの使者
夏目漱石「夢十夜」第一夜をモデルにしています。
Messager de la lune bleue
【一日目】
夢の中で、
ぼくは恋をした。彼女を一目見た途端恋に落ちた。突然の出来事だった。運命というものがあるのなら、それはこの瞬間のことを言うのだろう。ぼくは彼女を見つめ、その全てをこの瞳に焼き付けようとした。
彼女は真夏に似合うような白いワンピースを着ていた。ふわりと彼女の黒く長い髪が揺れる。白いワンピースの裾もつられて揺れる。
ぼくの鼓動は乱れる。
ぼくはずっと彼女を見つめたいと心から願った。しかし、ぼくの願いは叶わなかった。彼女は誰かに呼ばれたように空を見上げ、黒く長い髪と白いワンピースを揺らし、そして、消えた。
【二日目】
夢の中で、
再び彼女に会った。夢の中の住人とは思えないほど彼女は存在感がある。ぼくは彼女に見惚れた。彼女はぼくの存在など歯牙にもかけないように、ぼくの前を通り過ぎていく。
ぼくは息を止めた。
そうしないと、息で喉が詰まってしましそうだった。まるで小学生のガキが恋するようだった。彼女は通り過ぎ、甘い香りを残して消えた。時間にして一分にも満たなかっただろう。それでもぼくには永遠にも似た一瞬だった。
【三日目】
夢の中で、
月が輝いていた。きれいな満月だった。彼女はその月をじっと見詰ていた。そしてぼくは彼女をじっと見詰ていた。一点を射抜くように彼女の瞳を。
月が蔭った。
月明かりが弱くなっていく。ぼくはその青白い光の変化に吊られるように月を見上げた。その瞬間、風が流れた。弱々しいほどの風が。
ぼくは彼女の気配が消えたように感じ、慌てて彼女の方へ振り返る。もう彼女は消えていた。自分の存在の痕跡を何一つ残すことなく。
ぼくは激しく落胆した。
【四日目】
夢の中で、
天狼星が月の横で白く輝いている。占星術では何と言う名で呼ばれているのだろう、と考えていると、突然、彼女が声を掛けてきた。
「私が見えているなら、声を掛けてくれればいいにの……」
ぼくは彼女がこんなも気さくに声を掛けてきたことと、以前からの知り合いのように言われてことで混乱した。そして思わず彼女の顔を見つめてしまった。
「どうしたの?」
と彼女が不思議そうな顔をしながらぼくの顔を覗き込んだ。ついぼくは照れてしまい、彼女から顔を少し背けてしまった。
その瞬間、彼女は消えた。
ぼくは彼女に色々と聞きたいことができた。けれども、それは次に彼女の逢う時までおわずけとなった。
【五日目】
夢の中で、
これが夢だと理解した時、彼女が現れた。まるで映画のトリックのように瞬きした瞬間に現れ、緩慢な動きで空を指さした。彼女の指した先には、ひしゃく星が輝いていた。それから、
「ドゥーベ、メラク、フェクダ、メグレズ、アリオト、ミザール、アルカイド」と一つ一つ星の名を読み上げた。
彼女は僕の方に振り向き、
「七つよ」
それを伝えるとにっこりと笑って消えた。ぼくは何をどう考えてよいか解らず、只呆然とし、彼女に質問をすることを忘れていた。
【六日目】
夢の中で、
空を見上げた。朔日だった。月の姿が見えなくなっている。彼女に会えないかも知れないと漠然と感じた。その時、ふいに背中に人の気配を感じた。
ぼくが振り返ると、彼女が沈丁花を持っていた。それをぼくの方に突き出し、話をしようとしたぼくを遮った。
「これを」
「あ、ありがとう」
ぼくが沈丁花を受け取ると、沈丁花はボロボロ崩れ始め、あっという間に藻屑となって地面に落ちた。気がつくと、やはり彼女もいなくなっていた。ぼくは沈丁花の藻屑を集め、ライターで火を点けた。それらは一瞬で燃え上がり灰すら残すことなく、消え去ってしまった。
【七日目】
夢の中で、
ぼくは夢を見た。
彼女がぼくの耳元で囁いた。
「百年後、また逢いましょう」
「ぼくは後百年も生きられない」
とぼくが訴えると、彼女は優しく微笑みながら、
「あなたが人なら確かに後百年も生きられないわ」
僕の手を取った。
その瞬間、彼女の姿は石に変わり、その石には長い髪が結えられ、蒼い月の光にゆらゆらと髪がなびいた。
その横で、薔薇が咲いていた。その薔薇は「Mainzer Fastnacht」と言う名を持っていた。ぼくはこの薔薇を摘み、百年後彼女と出逢えたなら、この花をあげようと思った。
了