欧州行ってやったこと 2
同行者がランズヴェルク社に同行していないという。まあ、それ自体はある意味納得だった。なにせ、同行しているはずの彼らはモックアップを前にしても、トーションバー試験を前にしても全く反応を示さず、何か違うものを見ていた気がするからだ。不思議に思っていたが、納得した。
その後、ドイツでの聴講生としての生活を送る原さん。
弾道学の教授を訪ねたりしているので、時たま俺も質問したりはしたが、基本的に原さんの意思で動いている。
この状態がいまいちよく分からない。例の神様と話が出来ればいいのだが、そう言うことは無いらしい。どうしたものか。
主に原さんが動いて、俺の意識はあるのやらないのやらという事が多い。どうなっているのかよく分からない。
そんなことをしていると日本から戦車開発の報が入ってきている。結局、関われたのは仕様のとりまとめだけで、シーソー式サスペンションの採用は見送られたようだ。リーフ式でゴチャゴチャするより重量の節減になったかもしれんが、技術的に追いついていないのでは仕方がない。
日本戦車といえば、このシーソー式サスペンションだが、追随性は良いとの評判もあるが、横に這わせた緩衝スプリングがやられたらすべてダメになるという欠点も持つ。普通に数組のリーフサスペンションを備えたり、トーションバーで個別に車輪を支える方が生存性は高くなる。ただ、日本では、トーションバーの研究を1943年に終了させたものの、量産に移る前に開発者の事故死などの混乱によって、結局、採用されることなく戦争が終わってしまっている。
それを考慮して、あのお菓子メーカーみたいな略称の会社にすでに開発依頼を出している。帰国したらランズヴェルク社の資料も渡そう。
原さんの働く合間を縫うように、俺はこれからの事を考えていた。これから帰国して、装甲車や戦車の開発が本格的に始まる、すでに一部では工業力のKAIZENが行われ始めている事も聞いている。帰国後に今回の欧州留学で得たモノを各所に伝えるついでとして、そこに俺の未来知識も混ぜる事にしようと思う。そうすれば、色々とブーストがかかってくれるだろう。
そんなことをしていると、今度は東欧へ行くようだ。
ポーランドに立ち寄って、ハンガリー、オーストリア、チェコ・スロバキアへと至る。戦車技術者もいるし、なにより、シュコダ社がある。
芋大好きロリ会長の愛車を開発した、あのシュコダ社だ。そして、日本ではなじみが薄いが、タトラ社。21世紀でも大型トラックでは非常に有名な老舗として未だに健在だ。
東欧の旅はのんびり路線電車の旅らしい。わざわざ主要路線ではない鉄道を使い、ハンガリーへ入るというので、俺はほぼ何もしていない。
ハンガリー人って、日本や中国同様に姓が先に来るそうだ。自分達でも東洋から流れてきた者という意識があり、日本人には親近感があると、原さんに話しかけられた男性はそんな事を言っている。なるほどなぁ~。すごい豆知識だよ。
そんなハンガリーでは、戦車技術者と会う様だ。原さんと今は大学教授だという技術者は結局丸一日話に花を咲かせていた。
俺はそれを内から眺めてぼ~っとしていた。
暇な時間、色々考えてみるわけだが、今後、工業力が上方修正されて、トーションバーの量産化が出来たとしよう。1943年には技術開発は終了して、チリ車への採用も検討されたという。
ならば、俺がいるこの世界では、チリ車への採用はほぼ確定事項となる。史実より何年も早くトーションバー開発を始めているのだから、あと10年もあれば出来るだろう。10年後、1940年か。ならば、確実にチリ車に間に合わすことは出来る。それに、今やっている後部起動輪式を使って、帰りに立ち寄る予定のアメリカでクリスティ式もどうにかして・・・
そう考えると、やろうと思えばT44とかその発展型のT55みたいな戦車が出来上がるかもしれん。
日本風に言えば、油圧機構のない74式といったところか。流石に搭載砲は75ミリ砲だろうな。88ミリ砲を入手したいが、未だ完成していないのではどうにもならん。
俺がそんなことを考える間、原さんは動いている、どうやって?よく分からん。
ドイツに併合される以前のハンガリー、オーストリアを見て回って、チェコ・スロバキアである。ロリ会長の愛車は未だ影も形もない。あれの開発が始まるにはまだ5年はあるんだったか。残念だ。
しかし、そうは言っても、この時点でのシュコダ社を見ることは、貴重な体験だ。タトラ社も見学する。
帰りに気が付いたらスケッチ書いた紙が無くなっていた。74式モドキをスケッチしてたのに。まあ、いっか。書いたの日本語だし、あんな落書き誰も読めるわけないし。絵だって戦車と分かるだけだし。
気にせずドイツへの帰路についた。




