試製一号戦車ってなんだっけ?
1923年の日本の工業力は驚異的だった。そう、驚くほどにレベルが低かった。これじゃあ、AK作ってるアフリカや中央アジアの密造工場がマシかも知れんというレベルには酷かった。
仕方がない。なにせ、この頃は機械はほとんど輸入で、どうにか力を入れている造船業界が何とか国産化に足を踏み入れたような状況で、軍の工廠や造兵廠以外ではまともな工作機械すら珍しい状態だったのだから。
そこで、大学時代に「戦車設計」という卒論を書いたことを念頭に、日本の工業力の現状と今後の在り方という報告を書いている途中だったようだ。
ついでなのでタブレットを利用して品質管理や生産管理、効率的な生産方法などいくつかの方法論を書き込んでみた。自動車メーカーのKAIZENを主とした話と、戦後には常識である品質管理などを書いてみた。
提出したら頭を抱えられた。まあ、仕方が無いと言えばそうなのだが。
「原君、君の言いたいことは分かる。戦車を作るというのは並大抵のことではないし、そのための工業基盤の必要性も分かる。輜重も戦車に合わせて馬匹から自動貨車へというのもその通りだろう」
そういうからすかさず付け加える。
「そうです。そのためには、軍にのみ自動車があるのでは意味がありません。市井に自動車が走り、それを支えるに足る道路網があって初めて役に立ちます」
上官はうなるしかなかった。
「これは軍のみで解決できるものではなく、国土の発展と同時に行われなければ、意味がありません。職人の技術を生かして1台や2台の優秀な戦車を作るのではなく、整った工業基盤の元で100台、200台の戦車を作らなければなりません」
キリっとそう答えた。
「言いたいことは分かった。仕事に戻ってくれ」
文献を読んだという体で事細かな事も提出してみた。原さんの友人知人をあたっていろいろ話をしてみたり聞いて回ったりもした。
ちょうど開発中の三屯牽引車を見ながら、戦車設計に参画していた。
試製一号戦車、どんなものかタブレットを検索して見ると、なるほど、多砲塔じゃないかコレ。う~ん・・・
一人でやる訳じゃないし、そもそも、日本戦車といえば定番のシーソー式サスペンションは10年ほど先に原さんが考案するものらしい。もちろん、この時点ではクリスティ式もトーションバーも実用化されていない。挙句、日本での製造などまだまだ不安しかない。原さんの伝手を回っていて聞いたお菓子のメーカーみたいな略称のバネメーカーが起業していたので調べたら、戦後、かなり有名になるところらしい。
という事で話を持って行った。陰に日向に。トーションバー開発を成功させてくれたら日本戦車も変わるだろうなと思っての話だ。
歴史が変わる?だって、変えようとしてるんだけど。
「戦車の購入について意見を聞かれたが、技術本部としては国産を主張したいと思う」
とある会議の席上、上司がそういうので賛成した。そして、シーソー式サスペンションの概念も併せて説明した。やけっぱちである。
「かねてよりの君の主張と努力は皆が分かっている。今更旧式化した外国製をつかまされるくらいなら、我々が自らの手で作り上げようじゃないか。期待しているよ」
そう言われた。試作班入りは確定である。まあ、史実でも原さんは主要メンバーだったらしいが。
いざ試作となると問題多発だ、シーソー式を採用しようと思ったが、バネが無かった。開発を10年ほど早めたら技術が無かったというオチだった。当然、溶接などもってのほかだった。これは仕方ない。
車体の小型化を図って主砲塔以外をガンポートに留める事を提案したが理解を得られなかった。
出来上がったものはヴィッガース中型戦車をモデルに、それっぽい戦車を完成させることは出来た。製造にあたっても懸念されたように、様々なものが足らな過ぎた。というか、無い物ばかりだった。
「君の予見通りだ。たしかに、これでは試作を作れても部隊配備をとなると完了するのがいつになるか分らん」
上司からもそんな感想が聞こえてきた。
そして、意外なところからも声がかかった。
「小野田といいます」
会いに来たのは陸軍中尉だった。兄と弟は海軍に居るそうで、弟は技官として艦艇設計に携わっているらしい。
「海軍に居る兄弟からもあなたと同じような話を聞いております。それに、カイゼンでしたか。そのような話が海軍でも出ているようなので、ぜひ一度お聞かせ願えませんでしょうか」
なるほど、海軍にも今の状況を憂う人はいるんだなと思って品質管理や生産管理の話を彼に説明した。
「ありがとうございます。非常に参考になりました」
そう言って彼は返って行ったのだが、海軍か。海軍とパイプを持つのは良いかもしれんよね。




