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松賀騒動異聞 第五章

第五章


福山大学の人間科学研究センター紀要の中の論文、『磐城平藩松賀騒動の研究』(吉永昭著)の骨子はこのようなものである。

磐城騒動とは:

狭義としては、浅香十郎左衛門事件、小姓騒動と松賀騒動のいわゆる内藤家のお家騒動を指すが、広義の分類では、それらのお家騒動と元文百姓一揆を含めて、磐城騒動と呼ぶこともある。


筆者注記:浅香十郎左衛門事件、小姓騒動、松賀騒動、元文百姓一揆という四事件を簡略に説明すれば以下となる。

尚、ここで書かれている事件の荒筋は一般的な史料の見解に沿っている。(事実かどうかは?)

① 浅香十郎左衛門事件:

  発生:延宝七年(一六七九年)

  事件の荒筋:松賀族之助は、自分の妻を藩主義概の夜伽に提供し、生んだ子、内藤大蔵を義概の子と称し、藩主の嫡男とすることにより、自分の地位を強化しようと企てた。そのために、藩主の嫡子であった下野守義英を讒言し、その結果、義英は父・義概に嫌われ、義英は廃嫡された。この処置を怒った義英付きの家老であった浅香が松賀族之助を襲撃した。だが、襲撃は失敗に終わり、浅香は囚われ、牢舎で殺されたとされる事件。(但し、史書によって、いろいろな説があり、本当のところは不明と言わざるを得ない。)

② 小姓騒動:

  発生:延宝八年(一六八〇年)(浅香事件の翌年とされる。)

  事件の荒筋:小姓たち五人(或いは、六人)が上司である小姓頭の横暴を憎み、夜半、小姓頭宅を襲撃し、小姓頭夫婦を殺害した上で逃亡した。しかし、藩の追手に囚われ、切腹に至った事件。小姓頭は松賀族之助の甥にあたる山井八右衛門という侍であった。(これも諸説あり、本当のところは判らない。また、小姓の姓名も史書によって異なり、本当の姓名も不明となっている。咎目を受けて切腹した場合は家族或いは親類縁者によって本人の名前が勝手に変えられてしまうというケースがままあったらしい。本人の家格が高ければ高いほど、この傾向、不始末を恥じ、名前を変えてしまうという傾向は強かったらしい。記載されている小姓たちの苗字は藩士録のどこを探しても見当たらず、架空の姓名と思われるのである。)

③ 松賀騒動:

  発生:享保四年(一七一九年)(浅香事件から四十年後で小姓騒動からは三十九年後)

  事件の荒筋:前年、藩主の座に就いた政樹まさたつは松賀一族の宿敵、義英の長男である。松賀正元(族之助の息子)は政樹の暗殺を企み、正月のお祝いに饅頭を贈った。饅頭の色がおかしいことに気付いた政樹が犬に食べさせたところ、その犬は即死した。毒饅頭を贈った松賀正元父子は捕えられ、磐城に護送され、牢内で死去、松賀家は断絶した。この事件を契機にして、松賀派は切腹、打ち首、或いは追放という処分を受け、藩内から一掃された。(これも諸説あり、本当のところは判っていない。或る史料では、族之助は高齢ながらも存命していたとされているが、九十歳内外の年齢と推定され、いくら何でも長命過ぎると思われる。)

④ 元文百姓一揆:

  発生:元文三年(一七三八年)(松賀騒動から十九年後。浅香事件からは五十九年後)

  事件の荒筋:磐城平藩領内の百姓たちは長年にわたる苛税に苦しんでいたところに、内藤家老建策による新規課税が加わることとなった。耐えかねた百姓たちは、名主を頭取にして全藩一揆に立ち上がった。領内全村から二万数千人が平城下に集まり、磐城平城を四日間にわたり、包囲して藩に請願書を突き付けた。新規課税の撤廃等、一揆勢の請願はあらかた認められたものの、一揆の首謀者十名が翌年死罪・獄門となり、この大一揆は収束した。(但し、この九年後、藩は責任を取る形で九州・延岡に領地替えとなった。)

 

元文百姓一揆が起こった理由に関する吉永論文の記述:

・藩政当事者が財政窮乏を解決するために領民に対して租税の強化策を実施し、その結果、領民らの生活が破壊され、そのため領民らの藩政に対する不平・不満が爆発して一揆に発展したものであった。

・藩内がまとまりを欠き、長期にわたって権力闘争が続き、その結果、領民らの政治不信が募ったことも原因の一つであった。


松賀騒動に関する吉永論文の記述:

・藩の重臣相互間での対立と権力闘争が御家騒動に発展した例として注目される。

・具体的には、藩の権力を握った家老の松賀族之助とその一派が、族之助没後もその子伊織(隠居して正元と改名。筆者注記:以前の名は、松賀伊織孝興)、さらには養子の伊織(筆者注記:以前の名は、織部稠次)と引き続いて権勢を誇っていた。

・しかし、反対派が藩主の交替(筆者注記:五代・義稠に子が無く、松賀族之助のライバルであった義英の子、政樹が六代目を継いだ)を契機に決起し、松賀及びその一派を藩政から排除し、関係者を厳しく処罰した騒動であった。(筆者注記:松賀正元・伊織の父子はそれぞれ牢死、島田理助父子含む直属の部下は切腹、その他、打首になった者も居る)

・反対派が相手を一掃して政権を掌握した場合、自己の正当性を主張するために、反対派に関係するすべての書類(史料)を抹殺してしまった例が度々みられる。御家騒動の場合はそれが特に顕著にみられ、ここで扱う松賀騒動の場合もまた同様である。

・史料が抹殺されているだけに、騒動の実像を求めることは極めて難しい。多くの場合、政争に勝利をおさめたもの、かれらが自己の正当性を主張したものの中から騒動の実像を追わなければならない。或いは、当時の権力に密接に結び付いた人物によって記録されたものの中から騒動の実像を追わなければならない。

・また、騒動に勝利をおさめた政権が善であり、抹殺された松賀一派を悪とした勧善懲悪史観によって騒動が記述される可能性が高いとすれば、松賀騒動はもちろんのこと、それ以前に起こった浅香十郎左衛門事件や小姓騒動についての叙述にも、それが後になって書かれたものであれば、松賀騒動との関係如何にかかわらず、その勧善懲悪史観の影響を強くうけざるを得ないと考えられる。

・場合によっては、松賀騒動に直接関係がない事件であっても、それが松賀を悪人に仕立てる材料として利用され、叙述されかねない。

・その意味では、松賀騒動以前に起こった事件は、またそれなりに別個の立場からの検討が必要となる。


筆者注記:

 元文百姓一揆の直接の原因は内藤藩の苛税にあったことは明白な事実であり、蜂起した百姓たちの請願状にもその課税の撤廃が盛り込まれている。しかし、内藤藩としても苛税を意味も無く、行いたくて行ったわけでは無く、苛税であることを承知の上で、苛税に踏み切った原因も追究されなければならない。行為には全てに理由があり、理由無き行為はあり得ない。磐城平藩の場合は、苛税であることを承知の上で新規課税に踏み切った理由は、幕府のお手伝い普請での出費増、度重なる天災による年貢実収減と藩主以下の濫費という三つの要因による藩経済の破綻があったと考える。お手伝い普請に関しては、江戸に駐在する、江戸家老以下のいわゆる定府官僚の幕府・幕閣に対する常日頃の働きかけが重要となる。つまり、お手伝い普請を逃れるための働きかけ次第で、有利にもなるし、不利にもなる。そのためには、藩にとって有利になるために、幕閣の重要人物に対する金品の贈与が当然必要となる。当時、武士同士の金銭の遣り取りは常識であった。下僚は上司に付け届けをすることは当たり前のことであり、後ろめたいことでは無かったのだ。現代風に言えば、賄賂であり、汚職となろうが、当時の人にはそのような意識は無い。下心はともかくとして、命の次に大事であろう金品を贈ることはその人の赤心の表われであると解釈されてもいたのだ。従って、贈る方の意識も、金品をそれなりの役職の人間に贈ることは日常に対する単なるお礼であり、今後とも宜しくお願いしますといった程度の挨拶代わりというくらいの意識しか持っていなかったに違いない。これは、日本ばかりでは無く、文字通り、部下に対する生殺与奪の権を有する封建体制の世界では、中国しかり、ヨーロッパでも当たり前のことであった。つまり、上司或いは有力者に金品を贈って、地位を保全して貰ったり、折を見て出世の機会を与えて貰うということは悪では無く、むしろ当然のことであり、家名存続のためには当時は善的行為であったと私は考えている。これは、少し考えてみれば、理解出来ることである。戦などの領地を増やす機会が無くなった平時では、藩全体が大きくなる可能性は無く、徒食階級である武士にとって、給料、つまり禄高を増やす手段は実質的には無いのだ。藩としての全体のパイが決まっている以上、余分に取る人が居れば、それに見合った分、前より俸禄が減る人が必ず居ることになる。会社の賞与或いは給与年俸査定も同じことで、原資が決まっており、その原資が毎年同じであれば、社員同士の分捕り合戦となるのは目に見えている。藩の場合は、藩士同士の分捕り合戦になる。そして、査定するのは、会社ならばその人の上司、藩ならば上役であり、藩重役なのだ。とすれば、その人の機嫌を損ねてはならない。機嫌を損ね、先祖代々の石高を減らせば、末代まで自分自身が子孫から恨まれることとなるのだ。会社の査定も上司次第であるが、会社の場合は一代限りで、子孫までは影響しないが、封建制度ではそうは行かない、末代までその人の不始末が祟ることとなるのだ。従って、リスクが伴うことはしない、事なかれ主義にならざるを得ないのだ。然らば、さよう、ごもっとも、という無難な世渡りが最善となる。禄高が高くなればなるほど、このような保守的傾向が強くなる。結果、頑張って奉公に励み、俸禄を増やして貰うべくしゃかりきになるのは、貧乏生活を強いられている下級武士だけとなる。一方、このような下級武士の頑張りを上級武士は冷やかな眼で見ることとなり、成り上がって行く下級武士或いは新参者と、先祖代々の俸禄でぬくぬくとした人生を送る上級武士との間には、軽蔑と嫉みと憎しみが混在する葛藤、対立が自然と生まれることとなる。松賀族之助派と内藤義英派という派閥が当時あったとしたら、この対立、葛藤はあったものと私は思っている。話が少し脱線した。幕府のお手伝い普請の話に戻らなければならない。少し、調べてみた。内藤侯平藩史料の記事でお手伝い普請を調べてみた。結果は、以下である。

 政長治世の十二年間で、お手伝い普請は無し。

但し、家光の再三の上洛のお供、三春城への出張、大阪城代としての勤務、加藤家改易に伴う肥後熊本城受け取り、といった幕命が下っており、相当費用はかかったものと思われる。

忠興治世の三十五年間で、江戸城三の丸御殿普請、日光修復の二回。

但し、家光の日光参拝での勤番、大阪城代としての勤務が二回ほどあり、やはり費用は相応にかかったものと思われる。

 義概治世の十五年間で、日光修復が一回。

 義孝治世の二十七年間で、江戸幸橋、溜池石垣普請が一回。

 義稠治世の六年間で、お手伝い普請は無し。

 政樹の磐城での治世二十九年間で、日光修復が一回(支出は一万四千両)、渡良瀬川のお手伝い普請費用として上納金提供が一回と云う記録あり。

 松賀族之助が家老として藩政に携わった期間は、義概治世の十五年間、義孝治世の前半の十七年間の計三十二年間であり、この間、お手伝い普請は義概治世時の日光修復一回のみである。

 政長、忠興の時と比べ、お手伝い普請の回数としては極めて少なく、ここに或いは、族之助の幕閣に対する巧みな操作があったのかも知れない、と私は考えている。


 藩の財政を圧迫するのは、幕府命によるお手伝い普請の他、藩主以下、藩としての贅沢、濫費、自然災害による領内修復の費用、年貢の減収がある。

 自然災害に関する調査を行ってみた。

 調査の元資料となったのは、内藤侯平藩史料という文献である。

 政長治世時は、記録された天災は無し。

 忠興治世時も、記録された天災は無し。

 義概治世時は、寛文十一年の大風雨、延宝五年の大地震・津波(一六七七年のこの大地震・津波は常総沖地震として知られている。マグニチュードとしては八であった)の二回が記録されている。

 義孝治世時は、元禄八年の大風雨、元禄九年の大風、元禄十六年の大地震・津波(一七〇三年のこの大地震・津波は元禄地震として知られ、マグニチュードとしては八を越える大地震であった)、宝永七年の大風雨・洪水の四回が藩史料に記録されている。

 義稠治世時は、記録された天災は無し。

 政樹治世時は、享保六年の大雨・洪水、享保八年の暴風雨、洪水、享保十三年の大風雨・洪水、享保十五年の大風雨、享保十九年の洪水、大風・洪水、大風雨・洪水、大風雨・洪水、と九回の多きを数える。

 政樹治世時に起きた元文百姓一揆は、藩主以下の濫費、日光修復お手伝い普請による借財による藩財政の逼迫解決を、度重なる自然災害により疲弊していた領内百姓に押し付けた苛税が主な要因で勃発したと云われている。

 そして、一揆発生当時の藩の借財は四万両もあったと云う史料の記事も残されており、年利はどの程度かは把握していないが、相当な利子を毎年払い続けていたことであろう。

 元文三年(一七三八年)九月十八日に元文百姓一揆が勃発したが、この年の六月二十三日の藩記録に、借金が四万両にもなり、利払いも大変になったということを書き付けで家中に示した、との記事もある。


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