異世界転生って勇者がデフォですか?
――あっちの世界でも、こっちの世界でも、変わらないのはこの星空ぐらいだ。
海にゆすられてきしむ木造船の甲板で、空を見上げながら俺は思った。
木造とはいってもイカ釣り用の船だ。甲板は4~5人が乗っても十分に広く、仕掛けをつけた縄を巻き上げる大きな木枠が3つも転がっている。舷弧にはランプが取り付けられ、なかに魚油の炎を灯していた。
それが真っ黒い海の上で儚く光を揺らしている様は、空から幾粒かこぼれ落ちた星屑のように頼りない。
ぼんやりと海を眺める俺の肩を、マセヤおじさんがポンと叩いた。
「どうしたよ、故郷が恋しいのか?」
その顔は、魚類のそれだ。
何のことかと思うかもしれないが、この世界の人間は魚頭なのだ。
人間の体に魚の頭部を持つ姿は、この世界に来た当初こそ嫌悪の対象だったが、今はもう慣れた。この『人類』が俺たちとさして変わらぬ思考をしていることも理解した。
それでも慣れないのは……。
「魚が漁をするとはなあ」
「何を言っているんだ、お前の世界では人が牛や豚を食うそうじゃないか。それと同じことよ」
「牛や豚は人間とは遠い種族だ。人間っていうのは猿に近いんだよ」
「それを言ったらお前、俺らだって魚には近いけれど、イカとは種族が遠すぎらあな」
「なるほどな」
軽口をたたいて笑い合う俺らの周りに、他のクルーも集まってくる。
ボラにスズキ、アナゴ……実に個性的な面々だ。
「なんだよなんだよ?」
「いや、こいつが元の世界が恋しいっていうからさあ」
「そんなことは言ってないよね?! 人をホームシックみたいに言わないでくれ!」
「いやいや、お国に逃げ帰りたくなる気持ちも解らあ。何しろマセヤん家のじゃじゃ馬と結婚なんて、俺だったら絶対に勘弁してほしいね」
「なんだと! うちの娘のどこがじゃじゃ馬だよ!」
「だって、子供のころは家の息子より腕っぷしが強かったじゃないか。あいつはあんたの娘に何度泣かされて帰ってきたことか……」
「女みたいになよなよしてるお前ンちの息子が悪いんだろ!」
いきり立つ二人の間に、俺は割って入った。
「まあまあまあ……確かにウチのはちょっと元気すぎるが、気立てはいいし、俺は、その……可愛いとも思っているし……」
「か~~! やだやだ、でれっでれじゃねえか」」
「いやいやいや、羨ましいねぇ、新婚さんはよぉ!」
巻き起こったのは不快な侮蔑ではなく、軽い祝福を込めたからかい……ここはひどく居心地がいい。
ここだけじゃない、イサキ頭の妻が待つ家もひどく心地が良い。
今日も漁を終えて帰れば、暖炉には火が入って、その上で温かいスープが湯気を立てているだろう。彼女はまず真っ先に、スープをよそうよりも先に言うだろう。
――お帰りなさい。疲れたでしょう?
あの一言が欲しいから俺はぐでぐでになるまで漁に精を出す。そうして疲れ切っているくせに、こう答えるのだ。
――なあに、大してつかれちゃいないさ。それより腹が減ったよ。
静かで、幸せな食卓につくために、今は……
「おい、巻き上げを始めるぞ!」
どこかで大きな声が上がり、どの船の上もバタバタと慌ただしくなった。
「おう、指を巻き込まれないように気を付けろよ!」
ガタイのいいボラ頭の男が、巻き上げの木枠に手をかけた。残りのものは船端に垂らしてあったロープに手をかける。
ランプがカラカラと揺れ、魚油の煙が少し香った。
「おいタカシ、もっと腰を沈めろ、でないと痛めるぞ!」
等間隔にぶら下げた仕掛け針の全てには丸々と肥えきったイカがぶら下がっている。おまけに夜の暗い海は水圧という絶対的な力でイカたちを守るかのように、縄を強く押さえつけているのだ。
「えいさあっ!」
威勢のいい掛け声が上がり、それに合わせて縄は引かれた。大きく揺れるランプの光は暗い海面すれすれまで引き込まれ、波間に散る様は流星の一瞬に似て儚い。
――ああ、俺もこうして地上に落ちた星だ。幾万とある平凡な光の一つでしかない。
俺がここにいるのは、いわゆる異界転生というやつだ。あっちの世界での肉体は事故で一瞬のうちに死を迎えた……はずがこの世界に飛ばされてという、小説やなんかでよく見るあれだ。
実際にやってみると、よくある神からのチート能力の受け渡しや、世界を救う運命を背負うなんて大事は何もなかった。
この海と空のように……交わることないほど遠く隔てた空間にありながら見た目のよく似た世界が、ほんの気まぐれを起こしただけだ。空からこぼれ落ちた一粒が、この舷弧で光り続けることを許されただけの、そんな小さすぎる奇跡だ。
だから俺の異界記を書こうと思えば、小説としては成り立たないだろう。ここには勇者も、魔王も、まして異界でのスキルを生かして面白おかしく暮らす知恵者がいるわけでもなく、ただの漁夫がいるだけなのだから。
「えいさあっ!」
また一つ掛け声が上がり、グイッと縄が引かれた。縄に絡められたイカはびちびちとはねながら船に飛び込む。
ふと前方を見れば、海岸線の形に添うように家の明かりが見えた。女たちが漁から上がった男たちのために朝餉の支度を始めたのだろう。
あのうちの一つは自分のために妻が灯した光だと思うと、むず痒いような誇らしさが胸にこみ上げてくる。
「タカシ、よそ見をするな、危ないぞ!」
船が大きく傾く。
「くっ!」
波に引き込まれる縄につられて体が引かれる。
「こな……くそっ!」
潮に洗われて滑る甲板に爪先を立てるようにして踏ん張るが、それぐらいで海のあらぶりが鎮まるわけがない。
「一度ロープを放せ! 体勢を立て直すぞ!」
マセヤの声でみんないっせいに縄を手放すが、俺は……
「!!」
押さえつけていた力を一気に解放された縄はその反動で大きく跳ね上がり、しゅるっと音を立てながら海へ戻ろうとのたうった。その途中にあった俺の右足を巻き込んで!
俺だって暗い海の底にただ沈むつもりはない。がっと音を立てて船べりにしがみつく。
「ナイフを持ってこい! ロープなんか切っちまえ!」
誰かの叫び声が聞こえたが、振り向いている余裕さえなかった。
何十杯という烏賊と、芯までしみこんだ海水と、それに水圧……それらが予想を超える重さで俺を海面へと引き込もうとしている。
船端にぶら下げられたランプが大きく揺れて、がこんがこんと音を立てた。光はそのたびにきらめいて暗い海面を照らす。
まるで星が宇宙の暗黒に飲み込まれるような、そこには絶望しかないという光景を覗き込んで、俺はすでに諦めようとも思い始めていた。
――星が一つ、空に帰るだけじゃないか……
俺はもともと異界にあった身だ。そう、例えて言えば夜空の星のごとく不確かで、燃えているのか冷たいのかすらも確かめようのない、異質な存在……そして、地上に流れ落ちて消えたからとて気付かれもしない、数多の中の一つ……
「何を死人みたいな顔してるんだ! しっかり踏ん張れ!」
耳元でマセヤの声がして、ぐうっと縄の重みが軽減された。
「こんなところでお前に死なれたら、後で娘に怒られちまうだろっ!」
彼が、俺の足に巻き付いた縄を強く引き戻してくれているのだ。
「ナイフがあったぞ! ロープを切るからな!」
「もう少しだけ、踏ん張れぇっ!」
仲間たちが次々に縄に飛びつき、俺の体を押さえ、小さなナイフが縄目に穿ちこまれる。
ブツリ
俺を重量感から解き放ったのは鈍い音だった。
「うわ!」
反動で船の真ん中まで転がる。
みんな、一緒くたになって。
「大丈夫か、タカシ!」
「う……大丈夫……だ。だが、仕掛けが……」
「仕掛けはまた作ればいいさ。お前の無事には変えられねえ」
仲間たちにバシバシと背中を叩かれて、俺は少しむせた。
「痛いよ」
「そりゃあ何よりだ。死んでない証拠だからな」
船の中にほうっと、安堵の吐息が広がってゆく。
――ああ、空よりも、地上で輝くほうがよっぽどか上等だ。
ただ光るしか能のない星を見上げてから、俺はこきこきと首を鳴らした。
仕掛けの縄はあと3本も残っている。これを日の出までに引き上げるには遊んでいる暇などない。
「さて、さっさと仕事を終わらせちまおう。早く家に帰って、暖かいスープが飲みたいんだ」
この世界には勇者もいない、魔王もいない。何か取り立てて変わった事件が起こるわけでもないし、俺の仕事といえばごくありきたりの漁夫なのだから、物語など紡がれない。
それでも愛する妻がいて、陽気な仕事仲間もいて、そして何よりも、生きている……
船べりのランプは静かに、魚油臭い煙をあげて、燃え続けていた。