表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白夜

作者: 樋口ヤサト

 派遣役になって、そこそこ経験を積んできた。

 だから、多少のことでも何とかなるだろうと思っていた。

 思って、いた。



「今週に入って三人目だっつうのお!!」

 ポックが休憩室に行くといつものように金髪の美丈夫がわけの分からないことを喚いていた。久方ぶりの帰還で頭がぼやけていて、何を言っているのか分からないというのもあったし金髪――ケインのあのテンションを自動的に頭が拒絶したというのもあるのかもしれなかった。何が三人目なんだ、そう思いながら椅子に腰掛けると静かに滑り込んでくる一枚の紙。

『パーフェス地方事務所 行方不明者』

「……っ?」

 どういうことか、と紙を剥いで顔を上げると、黒髪の少年、リオと目が合った。

「数日前から、人が行方不明になっているんです」

「……どういう意味だ?」

「どういう意味も、そのままです。連絡役が二人と、事務役が一人、連絡が取れなくなっています」

 リオの口調は冷静その物だが、目が薄く曇っている。それはつまり、と唾を飲み込むと連絡役が一人駆け込んできて、また新たに行方不明者が出たと告げた。



 ここは、ありとあらゆる依頼を受け付ける組織、通称「灰被り」と呼ばれるものの端くれ「パーフェス地方事務所」。

 依頼は厳選されたもののみ。そのために体術訓練を受けている人間、そのために徹底的なネットワーク技術が求められる人間、そのために素早い事務作業が必要とされる人間がそれぞれ配置されている。

 そういう組織ゆえ想定していないわけではない。当然ながら恨みを百倍買う派遣役の傍にいるというのは、それだけで危険が伴う。要するに、事務所で働いているというだけで危険度が飛躍的に跳ね上がるのだ。

 けれど、何故急に。

 そんなことを考えていると、アパートに事務所長のエレンから一通の書類が来た。最近の就労状況をレポートにまとめて提出、とだけ書かれたそれを見れば、該当人物の洗い出しを行なうのだとすぐに分かる。ああそういえばここ最近は酷い仕事ばかりやってきたと、自嘲気味に呟いて机の中からレポート用紙を取り出した。ケインは腕のケガで療養中だったし、リオはここしばらく大した仕事を行なっていない筈だった。ソルはまだ出張中で、フェイは休暇申請を出していた気がした。ファスは、まだ重要な仕事を任せられるレベルではない。

 何となく、そういうことなのかもしれないと疲弊した頭で思った。



 その二日後、ルネが行方不明になった。

 幼馴染であるリオがアパートまで送る最中、所用でほんの数分目を離した。たったそれだけの間。これで五人目だった。

 表面上は平静を装っていたが、動揺しているのは明らかだった。彼のせいではない、何の落ち度もないのは誰もが分かりきっている事実ではあったが、やりきれない思いがあるのだろう表情は硬いまま。

「ルネも、ラグも……何なんだ一体…………っ」

「…………」

 悔しげに表情をゆがめるもう一人の幼馴染、シオンに対してリオは何も言わない、否、言えない。言えるわけがなかった。歯噛みする二人に対してポックとてかける言葉が見当たらない。気休めを吐くのは簡単だが、シオンはともかくリオにそういう言葉は通用しない。

「くっそお、俺がケガしてなきゃあ即行で叩き潰すのになあ」

 とはケインの弁だ。平生陽気なこの男でさえ今回の事態には神経を張っているらしく、事務所内の空気がどこか強張っているように思えた。

「せめて狙いさえ分かればいいんだがな、金か命か、それとも……」

「金だったらどっかの金持ちのお子様攫っちまうだろお? 俺は後者だと思うぜえ?」

「…………」

 意味が分からない。事務所内の誰を、狙っているというのか。

 行方不明になっているのは明らかに、無作為に選ばれた人間。共通項と言えば「この事務所で働いている」くらいなもので、人間関係も人種もバラバラの五人だった。確かにポックの親しい人間も一人行方をくらませていたが、ルネのようにさして会話をした事もない人間も巻き込まれているいくら考えようとも結果が出るとは到底思えなかった。

「捜しに行こうとか思うなよお? シオン」

 そこまで考えたところで、不意に耳に飛び込んできたケインの声が思考を中断させる。いきなり何を、という視線を向けたシオンに対してケインはにっこりと笑いかけて、言葉を紡ぐ。

「リっちゃんならまだしもお前は駄目だ、一人で出歩いちゃいけません」

「っ、俺は……!」

「気持ちは分かるよお、だーけーど、こんな状態で一人でも足並みを乱すのがいたらそれはそれで問題なわけえ。待つ勇気って、大事よ?」

「…………それは、……けど」

「お前は確かに実力はあるよ? けーれーど、あと一歩が足りねえんだ」

「…………?」

「知ってる? 本気で殴ろうって時は、一歩踏み込むって。お前に足りねえのはそういう思い切り。リっちゃんはそういうの躊躇わねえけどお前は躊躇って手加減しちまう」

「…………」

「シオンには向いてねえんだよそういうの。……ま、向いてねえほうが人生としちゃあ幸せだけどお」

 だからまあそんな調子じゃ自衛出来ねえだろ、と笑顔で容赦のない突っ込みをされてシオンはぎっと奥歯を噛み締めて口を閉ざした。ファスとかもそこんとこまだ足んねえよなあとそれとなく話題を振られて、視線だけで肯定の意を示すと苦笑される。次いで青年は椅子からよっこいしょと立ち上がり、軽く体を動かす。

「リっちゃん」

「はい」

「行方不明者と派遣役との交友関係のリスト作ってくんねえ? 分かる範囲でいいからあ。もっぺん洗いなおしてみようぜ?」

「分かりました。……お前も手伝え、シオン」

「俺も?」

「シオンのほうが多分詳しいから」

 その依頼は年若い二人の気をそらすためというのも、含まれていたのかもしれない。ポックにとってはそういう意図などどうでもいいことではあるが。かたん、とほぼ同時に椅子から立ち上がった二人は何だかんだと呟きながら休憩室を出て行った。

「ポックは何か心当たりねえのお?」

「ないとは言い切れねえ。……それはてめえもだろ」

「まあねえ。でも多分最近の話だと思うからあ、しばらく仕事から離れてた俺はきっと関係ねえって信じてる」

「ああそうかよ」

 舌打ちをしてポックは懐から煙草を一本取り出す。気分が優れない時はこれしかないと火を灯すと、おもむろに白い手が伸びてきた。

「俺にも一本、ちょーだい」

「珍しいな」

「……気分ってやつう?」



 その日のうちに完成した交友関係リストはひどく緻密で、さしものリオでさえ整理に手を焼いたのはその細々とした文字からうかがい知ることが出来た。それを受け取ったケインは何故かポックを連れてその足でエレンのもとへ向かい、作戦会議を始めると言い出した。

 エレンはそのリストを一瞥して渋面を浮かべると、ポックに視線を移す。

「最近の就労状況からも考えると、貴方が関係あると見て良さそうよ」

「ああそれは俺も考えてたよ、ったく、こんな勘当てたくも無かった」

「やーっぱそうなのかなあ。派遣役を狙ってないってえのも陰険だよなあ」

「ポックの実力を見て、手に負えないとでも思ったのかしらね」

 正直まったく嬉しくも何ともない。ただ、また面倒なことになったと舌打ちすることしか出来ない。ここしばらくの仕事を顧みても、心当たりが多すぎた。せめて正体をもう少しうまく隠すことが出来ればと後悔してももう遅い。難解な仕事だっただけに、そういう余裕が無かったのだ。

「囮……も微妙よね、相手の出方を待つのも癪に障るわよねえ」

「人質は下手に殺さねえとは思うけどお……とっとと助けてやりてえしなあ」

 ポックが直接赴くにしても、相手の人数が分からない以上危険だ。多少の相手ならば自分一人で倒せるとは思っているが、人質を取られている以上こちらも下手には動けない。相手を刺激するようなことが、あってはならない。

「くっそーお、やーっぱ待つしかねえのかよお」

「待つ勇気とかなんとかほざいてたお前の台詞か」

「そうだけどお……俺らがこうしてる間にも仲間が心細く俺らのことを待ってるんだぜえ? そんな状態でのうのうとしてらんねえよお」

「どっちみちお前は出動出来ねえだろ」

「そーうーだーけーどーお」

 地団太を踏むケインをよそに、エレンが扉の方へ視線を移す。ややあってノック音が聞こえてそれに応じると、リオが顔を出した。

「…………」

「リオ、何か用かしら?」

「……いえ、ちょっと…………」

 歯切れの悪い返答に眉をひそめたのはエレンではなくケインのほうだった。ポックの脇を滑らかに通り抜けた青年は扉の前に立ち、笑いかける。

「めっちゃくちゃ顔色悪いけど、何かあったろ?」

 角度的にポックの立ち位置からはリオの顔を見ることは出来ない。けれど、おおよその雰囲気は何となく察することが出来た。ぽつん、と音がして何気なく窓の方を見ると、小さな雨粒が数滴窓ガラスへ当たり砕け散っていた。日も暮れる折に降らなくとも、と顔をしかめたのとリオが口を開いたのはほぼ同時。

「……シオンが、いないんです」

「は、……何だって?」

「さっき、リストを渡した後、すぐ部屋に戻ったみたいで、仕事が残ってるんだろうって思ったんですけど」

「うん。…………、けど?」

「ちょっと聞きたいことがあって、その……部屋に行ったら、いなかったんです。上着と携帯が無くなってて、さっき、事務所中、捜しても……」

「……っ!」

 あのバカ、とケインが悪態をつくのが耳についた。感情を押し殺したようなリオの声はかすかに震えていて、その上普段の整然とした言葉がまるで崩れていた。こんなにつっかえつっかえで話す姿など、そうそう無い。エレンの方を見ると、弱りきった様子で頭を抱えていた。

 まだ、決定事項ではない。けれどもこんな状態で夕方の街中を、たった一人で歩くというのがどれほどの自殺行為であるか、子供でも分かる方程式だった。

「…………我慢強いよなあ、リっちゃんはあ」

 ほら見てみろよ、とケインが健常の手でリオの腕を引いて手を開かせると、その小さな掌には血が滲んでいた。つまり、こうでもしていないと平静が保てなかったということ。痛いほどに力を込めなければ、幼馴染たちを捜しに走り出していたかもしれないということ。

「俺だったら我慢なんねえよお? な、ポック」

「何で俺に振る」

「ポックは俺のこと分かってくれてるもん」

「ざけんな、このバカ」

 へいへい、と綺麗に微笑んだ青年は外を見て、軽く肩をすくめる。

「さあて、どうするう? 迎えに行く? 帰るまで待つ?」

 半ば答えは分かりきっているような口調で、見透かすような青い瞳を向けてくる青年はポックの返答を待っていた。先刻まで慣れぬ紫煙に激しく咳き込んでいた表情とはまるで違う、余裕たっぷりの顔で。

「……わーったよ、俺が行く」

「傘持ってけよお? 降って来たあ」

「んなもんお前に言われなくても分かってる」

 最悪な気分だ。内心毒づきながらポックはリオの脇を通り抜けようと踏み込むと、その茶色い目がこちらを一瞥した。

「先輩」

「何だ」

「見つけたら、殴っといてください」

「……、そうだな、そうすっか」

 リオがそう言うならば遠慮も手加減も必要あるまい。こんな勝手な行動を怒っているのはリオだけでは無い、だからこそ、ちょっとした制裁を加えてやらなければ示しがつかない。

 曇天が重苦しく地上を見下ろしていた。



 酷い天気だ、と純粋にそう思った。

 事務所を出てすぐ、爪先が何かを蹴飛ばした。気にせず通り過ぎようとしたのだが、何となく下を向くとそれは泥だらけになった腕時計だった。拾って眺める限りさほど高い物でもない、けれどそれはどこかで見たようなデザインのそれ。銀色の針は止まっている。

「…………」

 どうも思い出せずひとまずポケットにしまうと、ポックは再び歩く。

 打ち付けるような雨は止む気配を見せず、びしゃびしゃと地面を跳ね上がっては履物を湿らせていく。傘はさしているものの大して役に立ちそうもなかった。何気なくくるくると回して、そうして赤毛の少年を捜していた折だった。

 気分が悪いのを湿度のせいにして、往来を眺めるとふと視線が止まる。きょろきょろと、何かを探して歩いている、傘もささずに雨に打たれるままになっている赤い髪。

「おい」

「っ、あ」

 きょとんとした淡い蜂蜜色の瞳がポックをまっすぐに射る。なんだ無事だったのか、と内心でどこか気が抜けたのは否定しないけれど、それと同時に何だか癪に障ってつい顔をしかめてしまう。

「……出歩くなって言われただろうが」

「う……」

「とりあえず帰るぞ、殴るのはそれからだ」

 殴られんの前提っすか、としょぼくれた様子でシオンが肩をすぼめた。当然だろうと切り返して背を向けた、刹那。

 肩口が撃ち抜かれた。



 雨は激しさを増して、容赦なく建物を濡らしていった。その様子を横目で見ながらケインは傷が疼くのを覚えて落ちつかなげに腕を擦っている。たいしたケガではないけれど思いのほか深く穿たれたそれは、ケインの技術を削ぐのに充分すぎる材料だった。

 ポックはまだ帰ってこない上に連絡も寄越してこない。リオがかりかりと爪を噛むのをたしなめて、また外を見る。

 どうなってやがる、と悪態をついては外を見て、机に突っ伏してまた顔を上げる。自分が落ち着かなくてどうするのかと警告音が鳴っているが、今のケインにはそんなものは耳に入らなかった。

 がこん、と玄関から音がする。ケインは勢いよく椅子から立ち上がり、怪訝そうな顔をしているリオを残してそちらへ走った。ひょっとしたら誰かが帰ってきたのかもしれない。

「ソル!」

 全身ぐっしょりと濡れて帰って来たのは長身の男だった。すっかり暗くなった玄関先でそのしかめっ面を見上げて、ほんの少しだが気分が上昇した。こいつが帰ってきたのなら、今以上に動き易くなるという確信がある。だからこそ、だった。

「緊急だ、通せ」

 へ? とケインが首を傾げるのにも構わずソルは脇を通り抜けていく。

 愚かだと思われるかもしれないがそこで初めて、ケインは気付いた。

 血の匂いを纏わせたポックが、背負われていたことに。



 混濁する意識の中で、震える声を聞いた。

 どうしたらいいのかわからない。

 そんなつもりはなかった。

 そんなつもりが無いなら最初から撃つなと言ってやりたかったが、生憎そういう軽口が思いついた頃には誰も居なくなっていた。夕暮れの雨で人通りも少ない往来で、この異常事態に気付いた人間は誰も居なかった。全身が痺れるように力が抜けてきて、出血しているのだと気付いたもののそれは既に膝が地面について倒れ掛かった折。仕事帰りのソルが通りかかっていなければきっといつ殺されてもおかしくなかったろう。撃たれた刹那感じたのは、シオンのものだけではなかったから。

 しかし熱い。体が動かない。たかが素人に撃たれたくらいで参るような体だったろうか。

 そんな疑問が頭をよぎるものの、すぐに意識を攫われてしまった。



 銃弾に毒が仕込まれていると、医務室で治療をしている紫が説明してくれた。撃ったのが誰なのかは知らないがそれほどの手練ではないのはすぐに知れた。撃ち抜かれたとはいえ実際は少量の肉を抉った程度で、痛いものは痛いけれど致命傷にはなりえない程度の傷。それくらいの手負いで参るような男ではないことはケインもソルも知っていたが、毒弾を撃たれていたのでは仕方がない。おそらく傷口から入り込んだに違いないしそれなりに強い毒性を持ったものであることは、意識を混濁させたポックを見れば分かることだった。

「俺が到着した時には遅かった。……まあ、待ち伏せをしていた連中への牽制程度にはなったろうけどな」

「充分だっつうのお。……しっかし、誰だあ? 俺の相棒を撃ちやがった困ったちゃんはよお」

「いつからお前の相棒になったんだ」

「え、たった今俺が勝手に決めたけどお?」

「…………まあいい。それで、結局あの赤毛は見つからなかったのか」

 多分なあ、とケインは肩をすくめ、ふと枕もとに置いてある汚れた時計が目に付く。どこかで見たことがある気がするけれど、どうも思い出せない。俺も年かなあ、と一人ごちて時計を戻す。午後の六時三分で止まっている、さほど値が張るものでも無さそうな、泥で汚れた時計。

「リっちゃんには適当に説明してあるからあ、それはまあいっかあ。……さーてとお、どうすっかなあ…………」

 ポックの心配はしていない。この程度で死ぬような男ではない。問題はむしろ人質になっているであろう仲間の行方と犯人の動きだ。どこかに潜伏しているのに違いはないが、せめて人質だけでも救ってやりたかった。欲を言えば敵討ちもしてやりたいものの人命が最優先だ、出来る限り安全に済ませたい。

 ケインの携帯にメールが入ったのはそんな折だった。何だよ、と慣れた様子で確認すると、その碧眼を大きく見開く。

「……っ、シオン!?」

 慎重に文面を読むと、雨が降って身動きが取れないから誰か寄越して欲しい、という旨だった。それならと腰を浮かしかけるものの、ソルに見咎められた。

「それならリオにメールを寄越すだろう?」

「っ、う、そっかあ」

 至極真っ当な意見だ。リオやルネならいざ知らず、そんな個人的用件でシオンはケインにメールを寄越したりはしない。その彼が、どうして今。

「罠だな」

「……罠ぁ?」

「おそらくそいつは捕まって、陽動にでも使われているに違いない。のるかそるかはお前次第だな」

 シオンとてここの職員だ、そうそう簡単に「犬」になどならない。けれど、その影で誰かの生命を握られているとしたら。その「誰か」が例えば親しい人間だとしたら。

 そうなると話は別だ。

「……くそったれめ」

 舌打ち混じりに呟いて、ケインは医務室を出た。



 夜の街灯が雨を照らす。人気のない街中、そっけないシャッターの前で人が雨宿りをしている。リオは少し迷ったが、そちらへ足を向けた。何気なく傘を見上げ、軽く嘆息する。

「……リオ!?」

 意外そうな声音だった。むしろ、何でお前が、というような、そんな声。

「こんな時間まで雨宿りなんてバカか?」

「あ、や、えーっと……その…………」

「ま、どうでもいいけど」

 リオにとっては、心底どうでもいいことだった。少なくとも、これからのことよりは遥かに、どうでもよかった。

「シオン、時計は?」

「あ、……落とした」

「はあ? ……しょうがないな、明日警察にでも行こう」

 とにかく帰ろうと促すもののシオンは動かない。リオは軽く眉をひそめ、とっとと来いと呼びかける。これ以上近寄ってやるつもりなど無かった。

 ぼんやりとした街灯の下、雨音だけが響く。そのままゆっくりと時間だけがいたずらに過ぎていく。いい加減体も冷えてきた、軽く身震いすると、リオは口を開く。

「ひとつ、質問」

「…………」

「何で、先輩にメールをした?」

「……それ、は…………」

「傘を持って来て欲しいなら何故僕にメールをしなかった?」

 それは、とシオンが口ごもる。この辺が潮時だろうかとリオは傘を畳み、懐からナイフを取り出した。答えなど、とうに分かっている。

「次のターゲットが、ケイン先輩だったということ?」

 銃声が聞こえたのはリオがそう話し終わった直後だった。傘を投げ捨てると同時に驚愕するシオンを引っつかんで光の届かぬところへ身を翻す。暗視スコープくらいはつけているだろうが、せめてもの気休めという奴だ。

「違うな、次は僕だったわけか」

「…………」

「先輩にメールをすれば、怪しんだ僕が出てくると、お前は踏んだわけか」

「…………」

「どうでもいいけど。お前はしばらく拉致しとく」

 近くで銃声がする。ソルとファスが近くに待機してくれているはずだが、彼らとて重火器系の相手は不得手だ。ケガ人であるケインに頼ることは出来ない。どうにか、場を切り抜けなければ共倒れだ。

 そこまで考えたところでリオの足を銃弾が掠った。

「……っ」

 この辺りは入り組んでいる上に障害物が多い。それはつまり自分にとっても相手にとっても、身をひそめ易いということに他ならない。正直、状況は不利だ。走りながら考えて、やがて引っ張りまわしている形になっているシオンへ振り返って向こうの細道を指差す。

「ここを行くと事務所の裏口に着く。応援呼んで来て」

「っ、駄目だ!」

「どういう意味?」

「それは……」

 続きを聞く前にずくずくと足が痛むのを無視していたツケが来た。がくんと膝から力が抜ける。

「リオっ!」

「……こんな時に。いいからお前は早く行け」

「だ、だから駄目なんだ」

「何で」

「……俺が行くと、ルネたちが危ない」

 それはつまり、シオンの一挙手一投足に、人質の命がのしかかっているということ。ふざけんな、と舌打ちをしてリオは暗闇の向こうを睨む。

「…………ルネは、無事?」

「今のところは無事なはずだ。……くっそ、撃たねーって言ってたのに……っ!」

「バカかお前、誘き出しただけで満足する犯人がどこに居る。……近くに先輩が居るから、そこまで行こう」

 戦力になりえないシオンを連れて歩くのは正直リスクが大きかった。けれども放っておいたらどうせ殺されるだけだ。どっちみち、シオンがリオに「駒」だと伝えた時点で残されている人質の命さえ危うい。ひょっとしたらもう、とは強いて考えぬようにその思考を頭から強引に消去する。優位に立って奢り高ぶっていることを祈るしかない。

「もうひとつ。ポック先輩を撃ったのは、お前?」

 リオは振り返らなかったが、気配だけで察した。となると狙いはやはり彼だったのかとリオは歯噛みした。しかし何故、自分までも狙われているのだろう。

 水分を吸って重くなった服に足がもつれそうになる。それでも、止まっているわけには行かなかった。

 眼前に銃口を突きつけられたのは、角を曲がった直後だった。



「一年前のことだ」

「…………?」

「三人の派遣役に、こちらの組織は壊滅に追い込まれた」

「どういう意味?」

「一人はナイフ使いの子供、一人は銃使いの青年、一人は見たことも無いような美丈夫だった」

「…………」

「どこの地方の派遣役なのか、それさえも分からなかった。ただ、その特徴が嫌に残ってね、あとはそれを頼りにしらみつぶしさ。……そうしてここの派遣役が条件に当てはまった。身に、覚えは?」

「…………」

「黙秘か、それも構わん。饒舌な子供は嫌いだ。それに、あとは美丈夫にでも聞けばいい話というもの」

「本気? あの人ほど口が堅い人を僕は知らないよ?」

「硬い枝ほど折れると脆いものだ。……どのみち、用済みの君に心配される筋合いは無いというもの」

「人質さえ居なければ今すぐ刺し殺したいくらい腹が立つね」

「どうでもいいことだ」

 刹那の銃声。赤い世界、あかい、視界。

 足の痛みなど、吹っ飛んでいた。



「…………思い出した」

「ふうん? なーにを?」

「毒の銃弾を作ってるイカれた奴らだ」

 へえ? とケインが興味深そうに、いまだベッドで横になっているポックの顔を覗きこむ。撃たれた肩が痺れるような感覚を残し、おかげで利き手がろくに動かなかった。紫が持っていた解毒剤では、完璧にそれらを拭い去ることが出来ない、特効薬を作らなければ、きっと自分は永遠にこのままだ。

「覚えてっか、一年前の仕事」

「忘れたあ」

「……おめーならそう言うと思ったぜ」

「でっしょー?」

「威張んじゃねえ。……一年前、俺とリオっちとお前でやった仕事だ。違法の銃弾を使ってるバカな奴らを叩きのめすっつう依頼、受けたろうが」

 ふん? とケインはその整った顔を少しゆがめ、やがて何かをひらめいた様子でぽんと手を叩く。

「あーあーあーあー思い出したあ。めっちゃくちゃ後味悪かったからあ、俺の記憶から抹消されちまってたあてへ☆」

「気色悪い奴だな。……そいつらは結局警察に任せたんだったな?」

「うんそお。始末しようかなあって思ったけどお、上の連中が口出ししてきたんだよなあ」

 まあ建物とか薬とかは処分したけどさーあ、とケインは欠伸混じりに呟いて気の無い様子で外を見る。早く帰ってこねえかなあ、と一人ごちては携帯を開き、また閉じる。

「恨みによる犯行ってやつう? 狙うなら直接俺らを狙えば良かったのになあ」

「全くだ」

 音から察するに雨は収束を迎えていた。けれどもどうやらこの事件、まだまだ終わってくれそうもない。脱獄でもしたのか、どうあれあのイカれた連中が太陽の下を歩いているという事実が気持ち悪くて仕方が無い。

 派遣役を三人も動員しての依頼は相当骨が折れるものだった。ポックやケインでさえ、ここ数年の依頼の中で尤も面倒だと感じたもので、まだベテランとは言い難いリオがしばらくトラウマになっていたのは言うまでもない。

 ソルから連絡が入ったのは、ケインが仮眠をとっている時だった。



 近くに待機していたファスが見たのは、銃弾を受け倒れるシオンと、驚愕するリオだった。困ったものだ、と囁く影が、薄い煙を上げる銃口を睨む。

「想定の範囲内ではあった。……思ったより付け入り易い子供だったから使ってみたが…………まあいい、銃使いを潰せただけでも収穫だ」

 ソルの判断通りだった。シオンは人質にされた上、自分たちを誘い出す駒として使われたに過ぎなかった。リオも事情は何となく悟ってはいただろうが、見つけたら殴ってやりたいと出動前に言っていたことを、思い出す。

 じわりと赤い沁みが広がる。どこを撃たれたのかは分からないが、早く止血しなければ生命にかかわるのは誰の目にも明らかだった。敵の前で友の名を呼んで抱き起こすような真似をリオがしないのは分かっていたが、その沈黙が逆に恐ろしかった。

 そうして、予感は的中する。



「……それで、どうした」

『俺が到着した時には遅かった』

「お前そんなんばっかだな。それで」

『三人中二人は半殺しになった状態だ、一応拘束はした』

「残りは」

『お前の予想通りだ』

「…………ああそうかよ。あいつも若いからな」

『俺も昔はああだった。……さて、どうする。判断するなら今だ』

「ちっ、めんどくせえな。とりあえずお前らいっぺん戻って来い。向こうだってそんなバカじゃねえ、仲間が戻ってこなけりゃ人質の処遇くらいてめえで決めるだろうよ」

『その前に居場所を突き止めるわけか』

「一時間くらい寝る時間あんだろ。……あとは俺がやる」

『そんな体でか?』

「新入りや暴走して敵ぶちのめしたバカよりかは動けるつもりだ」

『……ふん』



 応急処置を施されたシオンは、事務所の息がかかっている病院へ搬送された。致命傷ではない、何とかなるだろうとソルがファスに告げた。

 ――時計。

 一度意識を戻したシオンが、そう教えてくれた。何が、時計なのだろう。しかしファスの疑問に答える前に彼は再び意識を沈めてしまい、結局聞けずじまいだった。ソルに一発殴られてようやく平生を取り戻し始めたリオに尋ねてみても首を傾げるばかり。

「…………あいつ、時計落としたって言ってたけど」

「ですが普通、腕時計を落とすような真似をしますか?」

「それは気になってた。しかもあいつが持ってたの、ルネが誕生日に贈ったやつだからそうそう粗末に扱うわけない」

 だからそれはおかしい、とリオは目を伏せた。

 事務所に着いた自分たちを待っていたのは、珍しく機嫌が悪い様子のケインだった。めっちゃくちゃじゃん、と悪態をついて、ソルが拘束してきた二人の人間を一瞥して、足を引きずっているリオの頬を張った。乾いた音が、静かなロビーに響いた。

「ひっぱたかれた原因は、分かってるよなあ?」

「…………」

「あれほど無茶しちゃいけませんって言ったのに、まーだ分かってねえのなあ」

「…………」

「まーあ、鬱憤溜まってたんだろうしーい、俺もこれ以上は言わねえよ? 俺もリっちゃんくらいの頃は……」

 それくらいにしろ、とソルに拳骨を喰らい露骨に顔をしかめた美丈夫はファスに向かって苦笑する。案外痛いんだぜ? と冗談交じりに呟くが、到底笑える雰囲気ではなかった。

「あの」

「んー?」

「シオンさんが、言っていたことがあるのですが」

「なーにぃ?」

「……時計、とだけ」

 時計、時計ねえとケインは口の中でその単語を繰り返し、うーんとしばし唸った。ああもう分からないことだらけじゃねえかと眩い金髪を乱暴にかきむしり、大きく溜め息をつく。

「少し休んだ方が宜しいのでは?」

「んーん、さっき仮眠とったもん。むしろお前らこそ休んどきなさい」

 そうしたいのはやまやまだったが、気分が高ぶって到底睡眠欲など襲ってきそうにない。それはリオも同様らしく、おぼつかない足取りでソルの後を追おうとする。そういえば撃たれたと言っていなかったろうか、と思う間もなくケインがその痩せた腕を掴んで引いて、勢い任せにその痩躯を担いだ。

「なっ……!」

「手当てしてやっからおとなしくしなさい」

「これくらい、別に」

 ケインも細身の部類に入るのだが存外にその力は強い。じたじたともがく体を抱えるのは容易ではないはずだが、その整った顔に浮かぶのは余裕たっぷりのそれ。お前ケガは? と聞かれて首を振ると、それなら良しとにっこり笑われる。

「で、包帯巻いたら休むこと、いいなあ?」

「……ですけど」

「手伝いましょうか?」

「お、助かるう」

「なっ、ファス!」

「大丈夫だってえ、子守唄くらいなら歌ってやるぜえ?」

「い、いりません!」

 ははは照れない照れない、とからから笑う男は平生そのもので、つい先刻までの厳しい表情はかき消されていた。

 あの時どうしたら良かったのか、ファスには分からない。出て行くのも待っているのも、判断としてはかなり難しかった。リオが表情を変えたその瞬間は咄嗟に出て応急手当に当たったのだが、せめてそれよりもっと、最善の手段は取れなかったのだろうか。後悔してもどうしようもないことではあるが、それでもファスは己を悔いた。

 所詮自分は、まだ新入りの域を出ていないのだ。

「だいじょーぶだってファス」

「っ」

「大丈夫、だから焦らないのが大事」

 ファスにとって何よりの屈辱が、こういう己の青臭い考えが全て見透かされているということだった。ケインだけではない、ポックであれソルであれ、この事務所の先輩たちは心の機微をすぐに見抜いて晒す。どれほど隠そうとしても、隠していても。



 で、どうすればいい?

 拘束したという二人組の顔をポックが見に来た時には、すでに彼らの意識はどこかへと飛んでいた。全身に穿たれた切り傷はともかく頬に浮かぶ痣はおそらくつい先刻つけられたもので、ソルがとうに「尋問」を行なったのだということは容易に想像がついた。

 何か吐いたのかと問うと、ソルは黙って首を振った。厳密に言えば吐く前に失神してしまったというのが正解らしいのだが、強いて気にしないことにした。

 正直時間がない。彼らを拘束してからじきに一時間、そろそろ連絡が無いことを怪しんでもいい頃だ。そうなれば、人質の安全は保障できなくなる。携帯を利用して相手と「交渉」をするという案も出たが、それでも相手が約束を守るとは限らない。

 せめて居場所さえ分かればな、とソルが舌打ちをした。



「お前はバカか?」

『…………』

「そんなケガで何で今起きて、何で電話とかしてるの?」

『…………』

「しかも何? 一緒に行くとかそれ寝言?」

『っ、違う!』

「……本気で言ってるわけ?」

『あ、当たり前だろ! 冗談なんかじゃねーよ!』

「悪いけどこっちだって本気だ。連れては行けない」

『…………っ』

「ちょっと考えれば分かることだと思うんだけど。ただでさえ人質もいて、ケガもしてる現状で、お前みたいな重傷患者を守れる保証はどこにもない」

『……ま、守られるつもりとか、俺…………』

「先輩も言ってただろ? お前は自衛出来るようなタイプじゃないって。傷つくのも、傷つけるのも怖がってるんじゃ死ぬだけだ」

『……けど…………』

「ああもう強情だな、足手まといだって言って欲しいのか?」

『なっ……!』

「……もう切るから、寝ろ」

『ま、待てってリオ!』

「それじゃ、また後で」



 普段は絶対そのようなことをしないのだが、リオは受話器を乱暴に叩き付けた。がしゃん、というこの音をシオンは聞いたろうか。

「…………」

 通話を切る直前まで向こうで喚いていた声が耳から離れない。潜伏場所を教えるために無理を言って病室に備え付けてある子機から電話をかけてきたシオンは、事もあろうに自分も行くと言い出してきたところだった。そんな話が許されるわけもないと一蹴し、リオはほぼ強引に話を終わらせた。そういえば毒の銃弾を撃たれたのではとその前に問うてみたら、病院の方でとりあえずの解毒処置を施してくれたとの事で、それなら命に別状もあるまいと息を吐く。しかしそれならば尚のこと、連れて行くわけにもいかない。

 潜伏場所は思ったよりも複雑な場所で、長らくこの街で暮らしているリオでさえもほとんど足を踏み入れたことが無いような場所だった。

 大まかな目安は、時計だとシオンは言った。

 大通りを、南を背に見た時の「三分」の角度。その方角を頼りに行けば必ず見つかるはずだと、教えてくれた。それならばその情報をポックたちに教えようと、そう思ったのにそういう考えが一瞬頭から吹っ飛んだ。

「なあにいリっちゃん、ずいぶんきっつい物言いだったじゃん」

「そうですか?」

「いやまあそれがリっちゃんの優しさだってえのは知ってるよお? シオンみたいなのははっきり言ってやんねえと分かってくれねえもんな」

「…………別に、そういうつもりじゃ」

 はいはい素直じゃねえのな、と妙に嬉しそうに笑う美丈夫が、少しだけ癪に障ったのは言わないでおく。

「でもねえ」

「?」

「突き放したつもりでも、それが『ふり』って分かっちゃうと弱いよなあ」

「……何が言いたいんですか」

「厳しいこと言ってるふりして、リっちゃんは怖いんだろ」

「っ!」

 息が詰まった。そのあからさまな動揺にケインは肩をすくめて、リオの黒い髪を乱暴に掻き回す。

「言えば良かったのにぃ、シオンや嬢ちゃんに何かあったら嫌だからって」

「…………」

「むしろそっちのが効果あったかもよお?」

 それはどうか定かではないが、そんな本音を話すつもりなど最初からなかったからリオはあんなことを言った。本当なら、傷は痛むかと聞いてやりたかったのに、と内心で己を悔いた。足手まといだなどと、言いたくはなかった。

「まーあ、あとのことは終わってから考えよお?」

「……そうします」

 巻き込みたくなど、なかったのに。

 その言葉をケインがくれた痛み止めと一緒に飲み込んで、深い溜め息をついた。



 湿っぽい風が吹く。先刻まで激しい雨が降っていたのだからそれは当然と言えば当然なのだけれど、その不快さにポックはかすかに眉をひそめる。

 大通りを、南を背に向けた時の「三分」の角度。そういえば六時三分で止まったままの時計があった気がして、何の気なしに持って来てしまったそれを取り出すとリオの顔色がかすかに変わった。

「……それ…………」

「あ? 拾いもんだ。お前のか?」

 いえ、と首を振るその少年にポックは時計を手渡す。どうやら何か訳があるらしい、それならば当人に任せるのが一番だろうと判断したに過ぎないのだが、リオはただ苦笑しただけだった。そういうことか、と呟いて。

 右腕の痺れはいまだ残っているしリオも足のケガがある。そんな状態でも強引に作戦を決行しようとする彼らを、ケインが放っておくわけもなかった。連れてかねえと夢枕に立ってやる!! と地味な嫌がらせを宣言されて、バカかと一蹴しても全く引き下がらないものだから最後は同行を許可した。ドジやらかすんじゃねえぞ、とこちらから唯一の条件を突きつけてから。

 挙句の果てにはケガ人のみの出動を懸念したソルが同行し、実践訓練に丁度いいだろうと駆り出されたファスまで加わって、結局実にアンバランス極まりないメンバー編成になってしまった。銃使いのポック、ナイフ使いのリオ、体術のみで戦うソル、棒術使いのファス、マルチに動くケイン。

「けどよお、銃火器系に対応出来んのが俺とケインだけだろ? お前らどうすんだ」

「そこまでは考えていない」

「……ったくよお、おめーもとんだ大バカ野郎だな」

 頭が痛くなってきた。こんな偏ったメンバー編成、到底許可出来るものでもないというのに。大体にして三人の仕事が蒸し返されたのだから三人だけで処理すべき問題だというのに。

「いいよなあ、持つべきものは仲間と友達だよなーあ」

「…………」

 ケインに至っては何も考えていないのか、のほほんと笑っている。ポックとしてはどうして彼が一流と呼ばれているのか、一ミリも理解出来なかった。確かに肝は据わっているが、いかんせん無計画なきらいがあるのが玉に瑕とでも言うべきか。

 そんなことを考えていると銃声が響いたものだから、五人は各々で避難した。

「気を付けろよ、撃たれたら俺みたいになるぞ」

「そいつは遠慮願いてえなあ」

 周囲の様子を確認して、ポックは舌打ちをする。どうやら今のは戦力を分断させるための威嚇射撃だったらしい。向こうもなかなかやってくれるものだ、自己判断で動く派遣役の特性を、よく理解している。

「おい、お前はリオっちと行け。裏口から入って人質助けて来い」

 すぐ傍にいるはずの青年にそう言い捨てるとポックは踵を返そうと、した。

「嫌だね」

 ケインがそんなことを言わなければすぐにでも身を翻してソルと合流したであろうポックはしかし、そのたった一言に思考を完全停止させてしまった。

「……どういう意味だ、ケイン」

「そのまーんま。俺は人質救出は嫌だって言ってるんだけどお」

「何言ってやがる」

「だーかーらー」

 言いながらケインは、ポックが懐に隠していた銃を奪い取り、暗闇に向かって二発撃った。どさ、と、何かが落ちる音がしたような気がする。

「――俺にも暴れさせろよなあ」

 低く呟いた男は、獰猛な獣の目をしていた。



 最奥の扉を蹴破ると、事務役の人間が拘束されていた。ファスと共に捜索を始めてから五分、ここまでは時間通りだと脳内でまた新たなプログラムを組む。慎重に一人ずつ部屋の出口付近へ誘導し、同じ場に固まって一度待つように告げる。彼女らに戦闘能力は無いが、人並みに走ることが出来ればそれで充分だ、前後を固めていればなんとでもなる。

「……リオ!」

 最後にルネの縄を解いてやると、すぐさま飛びついてきた。震えるか細い体からは恐怖と不安が痛いほど伝わってきて、せめて安心くらいはさせてやりたいと笑いかける。正直まだ安全とは言えないのだが、せめて。

「大丈夫。……帰ろう」

 何度も頷く彼女を促して視線を移すと、銃を持った人間が数人。一瞬早く動いたファスが集団に飛び込み、鮮やかに相手を昏倒させていく。しかし力加減を間違えたのか、一人がリオに銃口を向けた。さらにはどこからか二人部屋へ駆け込んでくる。一人はファスが取り押さえたが、もう一人はそうもいかなかったようだ。銃から身を守るのは容易い。しかし後ろにはルネがいた。

 その逡巡が命取りだと散々身をもって知っていたはずだった。

 応戦する間もなくリオは足を撃たれる。さすがに人間を庇って戦うのはリオとて苦戦した。舌打ちをしながら一人に切りかかり、拾った銃を撃ってはみるもののその反動で肩を痛めた。最悪だ、と口内で呟く。

「リオ!」

「ちっ……先に行け!」

 不安げに歪むその瞳を、今は見ないふりをする。けれども恐怖と躊躇で足がすくんでいる少女はその場から動けずにいる。当然だ、こんな眼前でこんな情景、常人ならば恐怖を感じて当たり前なのだ。そう言い聞かせてルネの腕を掴んで身を翻す。数瞬前までリオがいた場所に、銃弾が撃ちこまれた。暗闇に向かってナイフを投げつけて、肉が切れる音を聞いたような気がした。

「り、リオ、痛い」

 彼女を連れて行くことばかり考えて、力加減など頭から吹っ飛んでいた。一言謝罪を入れて力を緩めると、再び走る。ファスとは反対方向に逃げてしまったらしい。後ろから追いかけてくる声を聞いた。

 けれども、合流すると同時に全身から力が抜けた。

「リオ!?」

「……っつ、う」

「まさか、撃たれたのですか!?」

 少しでも気を抜くと足の痛みに意識を持っていかれそうになる。迫り来る暗闇に抗おうとするものの、既に視界が霞んでいる。ずいぶんと性質の悪いものを作ってくれたものだと舌打ちすると、ルネが顔を覗き込んでいた。他の女性陣もざわめき始めていることから、状況はどんどん悪くなっているようだった。

「リオ、ねえリオ! 立てるっ!?」

 体がひどく熱い。これが要するに毒の効力というやつかと他人事のように思った。

「……行け」

「リオ?」

「はやく……逃げ、外…………」

 うまく呼吸が出来ない。ろくに喋れやしない。けれども、せめて、自分たちのせいで巻き込んでしまった人たちだけは。

「何言ってるの!? 置いて行けるわけないでしょ!?」

「同感です。……そんな体で何が出来ると言うのですか」

 ソルが居れば、リオを担いで逃げる事も可能だろう。しかしそうは言っても既に戦力は分断された後で、別ルートで潜入しているであろう彼の助けを乞うことなど不可能に等しかった。遠くからかすかに聞こえる足音をそれとなく察しながらリオは尚も逃げるように促す。

「今、行けば……逃げられる、から」

「そういう問題じゃないの!」

「……ファス、分かってるよね? 誰かがこっちに向かってる」

「…………」

「今のお前に、今の僕は足手まといだ」

 だから行け。そう強く告げるとファスは唇を噛んだ。誰よりも命令に忠実な彼が、迷っている。それはリオにとって少なからず意外だったが、今は従ってもらわなければ困るのだ。

「でも……駄目だよそんなの……っ」

 ルネが首を振る。気持ちはよく分かる、リオとて彼女と同じ状況になったら逃げられる自信がない。それでも仕事だからと割り切ることも今の自分なら出来るけれど、彼女には到底無理だろう。

 熱で意識が飲まれて、あとは覚えていない。



 あのバカが。

 ポックは人知れず舌打ちをして「ひと暴れ」しに行ったケインの背を見送る。一流といえどケガ人はケガ人だ。エレンにも紫にも散々特攻は仕掛けるなと言われていたのにもう忘れたらしい。鳥頭にも程がある。容赦のないナイフの応酬と銃声が絶え間なく響いている。バカは放っておいた方が賢明だとポックは建物の奥へ向かう。第一ああいう風に「キレた」ケインを止めることなど誰にも出来ないのだ。痺れている右腕を擦りながらポックは歩を進めた。

「…………」

 思ったよりも腕が重い。ためしに銃を構えてみるものの、ろくに感覚が戻らない右腕のせいで照準を合わせられない。さりとて片腕で撃つほどポックは無謀ではない、ケインに渡したものよりも威力が大きい、黒光りするそれは片手で撃てるような代物ではなかった。

 忌々しさに顔をしかめるのと、物陰から出てきた人影に銃口を向けられたのはほぼ同時。

(……しまった!)

 疲労と痺れで集中力が完全に削がれてしまっていた。左手で咄嗟に得物を向けようとするものの、数瞬の差は大きい。

 がぅん、という破裂音が痛かった。

「…………?」

 しかしいくら構えていても激痛は走らなかった。代わりに感じたのは、人影が倒れる気配と整わぬ呼吸音。じっと目を凝らすと、先刻までポックを狙っていたはずの得物は床に落ちていた。倒れ伏す大柄な男と、脇で震えている少年。

「……シオンっ!?」

「あ、……無事、っすか?」

 何でここに! とポックは掴みかかるが、シオンはその問いに答える前にへたり込んでしまう。かちかちと、歯の根が合わぬ音が聞こえた。

「……っ、答えろ! 何でお前がここに居やがる!」

「っ、と、えっと……俺…………」

「お前が居るところじゃねえ! とっとと帰れ邪魔だ!」

 ポックはそう一喝したがしかし、シオンは引き下がらなかった。嫌です、と、震えながらもはっきりとした声が鼓膜を打つ。

「先輩やリオが負傷したのは、俺が原因だから、黙ってなんか……いられなかった。俺が……めんどくさいことに、した、から」

「…………、確かに原因はお前だが、もとはと言えばこれは俺たちの仕事だ、お前はただ、それに巻き込まれただけだろうが」

「巻き込まれたとか、俺は思ってない」

「……何?」

「仕事は一人でやるものじゃない、って、エレンが言ったから」

「……!」

「ここに居る以上、どんな依頼にも全員が関与するって、だから、最初から、俺も関係者の一人でしょう?」

 じっとポックを見る、真っ直ぐな瞳。自分はいつから、そんな目をしなくなったろうか。その目がふと、リオがポックを見上げる時の目とダブった気がした。

「……怖がりの分際で生意気言いやがって」

「はは……ぶっちゃけ、すげえ怖いですよ。震え、さっきから全然止まらない」

「その感情、忘れんなよ」

「え?」

「行くぞ」

 はぐれんじゃねえぞ、とぽかんとしているシオンを促して、ポックは暗闇の中を進み始めた。



 久々に暴れすぎた、とケインは舌打ちした。精巧な細工のような整った顔には、真紅の返り血が花開いている。殺してはいない、つもりだったが正直あまり自信はない、腕に違和感を覚えているせいでいつものような手加減が出来ないのだ。つい、力を込めすぎてしまう。

 血と脂で汚れたナイフを拭っていると、ソルがやってきた。

「派手にやったな」

「だあってえ、つい」

「つい、でここまでやるのかお前は」

「てへへ」

 そういうお前こそ、何してたんだよと笑いかけるとソルは肩をすくめた。お前の代わりに人質を救出していただけだ、というそっけない返答にケインは目を丸くする。

「リっちゃんとファスが向かってたんじゃなかったあ?」

「新入りとケガ人に何が出来る」

 それはそうかもしれないけれど、とケインは呟く。

 遠くから足音が聞こえる。何事かと二人でそちらを向くと、ファスが事務役の女性陣を連れてくるところだった。

「ご無事ですか!」

「うん、俺超元気ぃ」

 それなら、とファスは息を吐くものの、すぐにケインを見上げる。その目を見て、何かがあったのだろうとはすぐに察した。はぐれているリオ、青い顔をしているルネ、唇から血を滲ませたファス。どうした、とソルが話を促す。

「……申し訳ありません、私は……っ」

「リオを見捨てたか」

「っ!」

 びく、とファスが身を強張らせた。的確な図星は時として恐怖感を煽るものだ、とケインは痛いほど知っている。ちょっと替われよ、とソルの肩を叩いてケインはファスの前に立つ。

「派遣役ってえのは場合によっちゃあ、依頼を遂行するためには『切り捨てる』必要があるってえのは知ってるだろお?」

「…………はい」

「だからな、お前の判断は間違っちゃいねえよ。リっちゃんを置いてかなきゃ、お前らが危険だったんだろお?」

「……はい……」

 出来る限りゆっくりと、ファスを刺激しないようケインは話を進める。

「リっちゃんだってバカじゃねえよ、自分が足手まといになるんだったら、自分を切り捨てられる子だ」

「……しかしっ!」

 仲間を見捨てて自分だけ逃げることの辛さを、ケインはよく知っている。そうまでしても生きなければならないことが、どれほど痛いものなのか。だから、ケインは仲間を何よりも重んじる。誰も、そんな痛みを味わう必要など無いのだから。新人であるファスには、まだ重すぎる。

「お前は何にも悪くねえよ。……俺に任しとけ」

 え? とファスが瞠目する。こいつら頼むわ、とソルに笑いかけると半ば予期していたのか深い溜め息をつく。お前は甘い、という呟き混じりに。

「……あの…………」

「ん? どうした嬢ちゃん」

 彼女の言いたいことは分かっている。けれどあえてケインは尋ねた。

「リオを、リオを……助けて…………」

「――だーいじょうぶ、すぐ戻ってくっから」

 涙声に応えるように、柔らかく笑いかける。

 女の子を泣かせるなど、リオは男としてまだまだだ。



「……お前、どこで銃なんか習った」

「リオに、少しだけ聞いて……あとは適当に」

「道理で、全然なってねえわけだ。……まあ、肩外さねえだけマシか」

 二人が辿り着いたのは、机と椅子が並べられた簡素な一室だった。何気なく机に置いてある紙を拾い上げると、なにやらクセのある文字でびっしりと書かれている。化学式のようだったが、生憎ポックたちには分からなかった。ひょっとしたら役に立つかもしれないとそれを全て回収して、部屋を出る。

「…………」

「血の、におい?」

 緊張した様子でシオンがポックを見る。血だけではない、かすかに硝煙の臭いも混ざっている。ついて来い、と指示をしポックはゆっくりと歩を進めた。

 ふと窓の外を見るとうっすらと日が地上を照らし始めている。もうそんな時間なのか、とどうでもいいことを思った。

「……ん」

 人の気配がする。とす、とポックの背中に激突したシオンが何事かと鼻を擦っているが無視した。

 刹那聞こえたのは、肉を切る音。

 掴みかかっている人間の胸元を切りつけたのは、痣と血にまみれたリオ。

 切りつけられて咄嗟に壁際に退いたのは、誘拐されていたはずの一人。

 二人はまだ、こちらに気付いていない。

「ぐぅっ……リオ、止めてくれ、頼む、俺を殺す気か!?」

「うっさい…………、はっ、……この、三し、た……がっ」

 撃たれたらしいリオは荒く呼吸が乱れている。ポックでさえ撃たれた直後は身動きが取れなかったというのに、それゆえリオが今ナイフを握っている姿が信じられなかった。けれど目は完全に焦点が定まっておらず、気力だけで動いていることはすぐに知れた。

「あんたが…………あんたが、影で、動い……」

「っ」

 状況が全く理解出来ない。げほ、とくずおれるリオがナイフを取り落とす音でようやく意識を戻したポックは一歩踏み込む。

 けれど、それより早くシオンが飛び出して、相手に殴りかかっていた。倒れたところを馬乗りになって、尚も一発殴る。

「バカ飛び出すなっ!」

「俺の弟に何てことしやがる!!」

 あのバカが、と銃を二丁拾いリオの状態を確認する。どうやら人間の区別がつかなくなっているらしく、声でようやくポックだと理解したと、血をげほげほと吐きながら告げる。一方のシオンは怒りを隠そうともしない。普段のシオンを知っている人間なら驚愕するだろう。ポックでさえ、止めるタイミングを失ったほどだ。なにやってんの、とリオが呟いた。

「知ってんだぞ! 捕まってるふりして全部あんたがやってたことも、ルネを攫ったのも、情報流してんのも、あんたがやったんだろ!」

 二発ほど顔面に拳を入れたところで、ポックはその硬く握られた手を掴む。何故止められたのか分からない、という顔をしていた。拳は震え、平生明るく光っている蜂蜜色の瞳は憤怒に燃えている。

「もう止めろ」

「何でですか!」

「あとは俺がやる。お前が手を汚すような相手じゃねえよ」

「……っ!」

「お前ら『きょうだい』は、そっくりだな」

 心底、そう思った。どういう? と首を傾げるシオンにリオを運ぶように告げて、ポックは銃を向けた。

「おかしいとは思ったぜ」

「な、何が」

「何で、非戦闘要員ばっかり狙えたかっつう話だ。五人も攫ってんならよお、一人くらい派遣役を間違って襲う可能性だってあるだろうがよ」

「……っ!」

「偶然は三度までだ、四度目なんてもう必然だろうが」

 頬を青黒く腫らした男は瞠目した。ポックと親しい、友人と呼んでも差し支えのない人間だった、のかもしれない。

「あーいたいたあ、おーいポックー」

 不意に、朝日の光を浴びた青年がひょっこりと遠くから手を振ってきた。にっこりと笑う金髪はどういうわけか血がべっとりと付着してはいたものの相変わらず眩いばかりに輝く。とことこと駆け寄ってきたケインはリオとシオンの惨状を見て「げっ」とひとりごちた。

「嬢ちゃんが待ってる、もう行け。多分もう敵さんはいねえから。……これからどうなるかなんて、見ないほうがいいぜ」

「あ、…………はい」

 先刻からぐったりと壁にもたれかかっていたリオは何も言わない。シオンはその痩躯を背負い、バランスを保ちながら向こうへ歩いていく。その様子をにこにこと見守っていたケインは、にこにこと男へ向き直った。

「で? お前が主犯?」

「っ、た、助けてくれケイン! ポックの奴、妙なこと言って俺を……!」

 引きつった声が廊下に響く。そうだ、こいつはケインとも親しかった気がする。縋るような目でケインを見上げ助けを乞う男は、正直見ていられないほど見苦しかった。

「へえ、そいつは大変だったんだなあ」

 ケインはうっとりするほど極上の笑みを浮かべて。

「道化師に道化が通用するとでも思ったあ?」

 男の言葉を断ち切るかのごとく喉元にナイフを突きつけた。

「ひっ!」

「分かってねえようだから言うけどお、俺もポックも超怒ってるんですが」

「勝手に人を巻き込むんじゃねえ」

「あっれえ? ポック怒ってねえのお? すっげえ心広いじゃん」

「いいや、ブチ切れてっけどな」

 でっしょー? と無邪気に告げるケインの笑顔は正直背筋が凍るほど怖かったが、何も言わなかった。

「ちょうどいいやあ、俺新しい拷問思いついたんだよなあ」

「そう言ってまた精神崩壊起こさせるんじゃねえだろうな」

「わっかんねえよ、だってまだやってねえもん」

「……ああそうかよ」

 物騒な会話をする二人を見上げて、男はただ首を振るばかりだった。



 耳を覆いたくなるような悲鳴が聞こえた。実際に耳を覆うことは物理的に不可能であるので、シオンは黙って廊下を進んだ。熱に浮かされながらも、リオは熱いだの何だのと思いつくままに言葉を発する。時折支離滅裂になっているのはおそらく熱のせいだ。

 もうすぐ、夜が明ける。不意にリオが声を投げかけてきた。

「……何で、来たの…………」

「んー、俺がごっちゃにしたから、清算しに来た」

「バカか、そんなの……どうだって…………」

 声が途切れる。リオ? と振り返ると苦しげに呼吸をしているのが耳についた。急いだ方がいいのかもしれないが、生憎撃たれた傷口が開いてしまって歩くのが精一杯だった。その上簡易の解毒剤はシオンの体を完治させてはくれなかったらしく、徐々に手足が痺れてくる。じわ、と沁みが広がるように浸透してくるそれを感じ取って、せめて外に出るまでは持ってほしいと祈るばかり。

「熱、い……」

「そんな体で動くからだっつうの」

「……人のこと、言え、……ない、……くせ、に」

 案の定見透かされていたらしい。シオンは傷が痛まぬ程度にリオを背負いなおすとまた歩く。じわりじわりと、痺れが広がっていくのを感じた。

 つ、と耳の後ろから眼前に何かが突き出された。よく見るとそれは六時三分で止まっている、さほど値が張るものでも無さそうな、泥で汚れた時計。

「へったくそ」

「な、俺だってこれが精一杯だったんだっつーの!」

 苦し紛れの暗号は、やっぱり通じていなかったらしい。てっきり返してくれるのかと思いきやリオはそれを握りなおして手を引っ込めた。あとで、と呟いて己のポケットに押し込んでそれきり意識を手放したらしく、少しだけ重量が増したように思えた。それでも、ほうほうの体でどうにか外まで歩いて、すっかり待ちくたびれていたらしいソルたちをシオンが視界に入れるや否や、ルネが駆け寄ってきた。

「シオンのバカ!」

「な、ちょ、いきなりそれかよ!?」

「バカ、バカ……!」

 小さな拳がシオンの胸元に数回当たる。全然、痛くなかった。

「戻ってこないから、昨夜から戻らないから……っ」

 ああそうだった。最後に彼女と会ったのは街に行く直前だ。不安になったって当然のことだ。

 ルネは何も知らない。シオンが撃たれたことも、ポックを撃ったことも、さっきまで銃を握っていたことも、人を殴ってきたことも。

 それは今後一切教えるつもりもないし、知らずに済めばそれでいいだろうとシオンは考えていた。それはおそらく、背中で眠っている弟も。

「……悪かった」

 泣いている「妹」を見下ろしてシオンは苦笑する。ルネはもう一度「バカ」と呟いてリオの顔を覗き込む。眠っているだけだと教えてやると、安堵の息を吐いた。

「後のことはあいつらに任せる。……お前たちは病院へ行け」

「うあー……絶対絞られる…………」

「自業自得だ。待ってろ、今人を呼ぶ」

 この後のことを思うと酷く憂鬱になる。はあ、と溜め息をつくとリオがぽつりと何かを呟いた、気がした。

 ――電話、ごめん。



 的へ向かって一度引き金を引くと、弾丸は黒点へ吸い込まれていった。

 調子はそれほど悪くはないとポックは軽く肩ならしに数発撃つ。少し離れたところでは、ファスとシオンが二人で練習をしていた。

 銃というのは厄介なもので、ナイフ以上に人を選ぶ。ファスはもとより棒術より以前から希望していたためとりあえず使わせてはみているが、どう磨かれるかはポックにもまだ分からない。

 シオンは最低限の術を教えるという名目で、時間の空いた時にポックが指導していた。少なくともリオよりは遥かに筋がいいから幾分教え易かったものの、独学で身につけたらしい妙なクセを取り除くのに若干時間が掛かった。

「そういや、何でリオは駄目だったんですか?」

「ああ? あーっとな……照準の感覚が掴めねえんだよあいつ。骨格も細いからすぐ肩痛めやがるしな。最低限は使えるが……ナイフ専門で訓練させてら」

「…………はあ」

「不満か?」

 いえ、とシオンは首を振る。

 ポックにしてみれば、シオンがこんなものを習得する必要などないというのが本音だった。リオやケインが体術を教えているのだし、力とスタミナならそれこそリオより優れている。その彼が、リハビリ中のポックに向かって指導を乞うたのはつい数日前だ。冗談ではないというのは、すぐに分かった。

「お前なら問題ねえと思うけどな」

「?」

「変な使い方、すんじゃねえぞ」

「分かってますって」

 ポックの言葉を飲み込んで消化吸収しているというのは、目を見ればすぐに分かった。ならいい、と苦笑すると訓練場に、いまだ現場復帰出来ていないリオが顔を出す。じろ、とシオンを見上げて「USB返せ」と告げると、ひどく慌てた様子で散らかしていた私物を鞄に押し込んでいた。

「悪い、あれ借りっぱなしだったな」

「一昨日返せって言ったはずだけど?」

「や、だから悪かったって」

「……もうお前には貸さない」

「なっ! ちょっと待てよアレ大事なデータ目いっぱい入れてんだよ!」

「だったらいい加減人の間借りしてないで新しいの買え」

 リオの容赦のない突っ込みにシオンがぐっと詰まった。点検をする為に持ち帰るつもりなのか、練習用の小銃を鞄に詰めるのを見てリオが眉をひそめる。

「…………お前には、握ってほしくなかったな」

「? 何か言ったか?」

「別に。独り言」

 じゃあこれで、とポックに一礼して踵を返すリオの背中を、慌ててシオンが追う。騒々しい奴らだ、と誰かが苦笑いしているのが耳に入った。全くその通りだと休憩を取っていると、今度はルネが駆け込んできた。

「ポックさん、リオ来ませんでしたか?」

「ああ? さっき来て、帰ってったぞ」

「ああもう……また入れ違いじゃないの」

 息を切らせている少女の話によると、渡された規定量の薬を飲まずにどこかへ逃げてしまうということだった。今日も例外ではなく、朝は服用したものの昼食後の薬をなかなか飲もうとしないのだとか。一日くらいサボったところで大差はないが、一日も早い復帰を望むなら多少なりともそういうのに頼っても罪ではないとポックは思っている。しょうがないな、と少し怒った様子で頬を膨らませる少女は、ポックに礼を言い慌ただしく訓練場を後にした。

 その彼女と出入口ですれ違ったのは、腕のケガを完治させた金髪の青年。

「ちゃっおー」

「また騒々しいのが来やがった」

「なあっ! ポックったらひでえ! 俺に会えたのが嬉しくねえのおっ!?」

「一ミリも嬉しかねえよバカが」

「何いっ! 俺はみんなに会えて超ハッピーなのにいっ!?」

 そんなもんイコールで結びつけんな。

 そう思いつつもはや突っ込むのも面倒になってしまい「言ってろバカ」とだけ告げて再び銃を構えた。

「調子良さそうじゃん?」

「ぼちぼちだな」

「あの化学式で特効薬作っちまうなんてやーっぱ紫っちはすっげえよなあ」

「そりゃあ、専門家だからな」

「俺なんか最初の一文字すら理解してねえぜえ?」

「俺もだ」

 やだなあもうポックと俺って超気が合う! と寝言をほざいている青年を一瞥して、ポックは二発ほど撃つ。的からわずかに外れたそれを見て、舌打ちをする。完璧に集中力が削がれてしまったと察し、今日はもう切り上げようと心に決めた。銃を下ろし、安全装置をつける。

「……一歩なんて、踏み込まなくったっていいのになあ」

「?」

「何でもねえよ、独り言」

 ああそうかよ、と知らぬふりをして、後片付けを始める。煙草が吸いたい気がした。

「おいファス、お前ももう切り上げろ」

 朝から撃ちっぱなしだろうが、と指摘するとファスはどこか物足りぬ表情をしながらもポックの言葉に従った。同じように私物を片付け始める青年のその背中にポックはふと声を投げる。

「お前は何で、ここに来たんだ?」

「世界を見たかったからです」

「……なるほど、ここにいるにしちゃあまともな理由だ」

 それ以上話をする気がないのかファスは返答しなかった。ふん、と鼻を鳴らしてポックは訓練場を去ろうと踵を返す。と、何故かケインも追って来た。

「飯食おうぜ飯」

「誰がお前と食うかよ」

 やだなあもう意地悪! と悪態をつきながら肩を並べて、憎たらしいまでに眩しい笑顔をポックに向ける。大抵の人間が、この笑顔に騙されるのだ。綺麗な顔で綺麗に微笑まれたら、警戒心など解けて当然だ。

「俺も、わっかい奴らに負けてらんねえよなあ」

「…………」

「なあなあポック、飯食ったら俺と手合わせしてくんねえ?」

「ああ? 何で俺となんだよ」

 彼と同僚になってから幾年も過ぎた。徐々に開きの出てきている実力を考えてみても、自分と手合わせをするにケインは役不足だった。ソルかフェイならいざ知らず、何故自分と。

「俺のクセとかぜーんぶ知ってんの、お前だけだもん」

「…………」

「久々にさーあ、強くなってみたくなっちゃったんだあ」

「嫌味な奴だな」

「冗談だろお? 俺なんて所詮は下っ端だぜえ?」

 ポックは何も言わなかった。下っ端から脱却できればより多くのあらゆる情報が入手出来ると、そうして理由は知らないがケインがそれを狙っていることを、ポックは知っていたから。

「だったら中央へ異動したらいいじゃねえか」

「あーんな窮屈な所嫌だあ」

「……上役ってのも窮屈な仕事なんじゃねえのか? 知らねえけど」

「それは我慢するけどお……」

 唇を尖らせる同僚を一瞥して、ポックは溜め息をついた。そういえば主犯はどうなったのかと聞くと、上役にヤキ入れられたんじゃね? と適当な返答。

「ったく……結局は上役の判断ミスだったんじゃねえか」

「だから始末させてくれりゃあよかったのになーあ」

 そうしたら、と言いかけてケインは口を噤む。突風が吹いて青年の金髪を揺らし、太陽にも似た顔を隠してしまう。続きを促すかどうか、迷った。迷ったけれど、結局聞くことにした。そうしたら何だ、と口を開くと、ケインはばつの悪い表情を浮かべていた。

「そうしたら、ポックもケガしなくて済んだし、リっちゃんが上役から嫌味ったらしい封書送りつけられることも、シオンが銃を握るなんてことも、嬢ちゃんがあんな怖い目に遭うことも、みーんな無かったんだよなあ、って」

「俺のことなんざどうでもいい」

 仕事での負傷率の高さを指摘されたリオなどより己のことなど遥かにどうでもいいことのようにポックは思っていた。けれどそんなポックの言葉を打ち消すがごとく、ケインは目を細めてふっと笑う。一瞬だけ光ったのはケインの髪なのか目元なのか、それは分からない。

「俺にとっちゃあどれも同列」

「そうかよ」

 さらさらと、風が吹く。青空と草原、ほかほかとした日差しという、いわゆる平和な光景。

 派遣役になって経験を積んで、多少のことでも何とかなると思っていた。おそらく、ケインも同様に思っていたのかもしれない。だからこその、「強くなってみたくなった」なのかもしれない。

 所詮は、憶測の域を出ないことだが。



おしまい。

大分前に書いた小説を改稿したものです。本来でしたら主役はリオくん(ナイフ使いで二回三回銃で撃たれたかわいそうな人)なのですが、今回は内容が内容なのでサブキャラでベテラン派遣役であるポックさんに頑張っていただきました。

正直彼は動かしにくいのですが、コツをつかめばかなり味があるのだなあ、と私自身書いていて勉強になるタイプです。


評価などお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ