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花物語

紫向日葵

作者: 美幸

 プールへ行こう、と涼介は言ったのだ。


 観ていたDVDから眼を離して、美咲は振り返った。涼介は相変わらずの無表情をベッドに横たえていた。


「どうしたの、急に」と美咲は呟く。彼から誘うことは、滅多にないのに。

「嫌なら、構わないけど」

「そんなこと、ない」


 そうか、と涼介は言ってから、テレビへ視線を戻した。

 どうして涼介は、こんな顔してるのかな。美咲は心の中で思う。私といると、退屈かな。たまには、帰ろうかな。でも、意心地良いんだよね、ここ。


 もちろん、美咲はこのアパートに住むこともできるし、現状では完全に住んでいる。一月くらいは、自分の家に帰っていない。好きなだけいていい、と涼介は言った。アパートは、学校に通うために借りているもので、彼は一人暮らしだ。だから美咲もそれに甘えた。


 美咲が涼介と知り合ったのは、大学一年生のときだ。誘われた飲み会の席で、高校が一緒だった涼介だ、と友達に紹介された。近いから乗せていく、と涼介が車で送ったことをきっかけに関係が始まった。なぜか、そのときからカーセックスをするようになった。暗がりの車で短い会話とキスを交わしながら、幾度となく夜を明かした。


 美咲は涼介のことを、好きではない、と思っている。好きでないと気づいたのは、かなり前のことだった。一体彼の何が、美咲を満たしていたのか。

 例えば、涼介の表情。無表情でいることが多いが、それは時折の変化を楽しませる。ゲームをするときの、子供っぽい顔。意地悪をするときの、にやけた顔。運転席で眠っているときの、穏やかな顔。


 そんなささいなところが、好きだったような気がする。

 涼介を好きではない。気づいてしまって、美咲は、胸に隙間風が入ってくるような、形容しにくい気持ちになっている。悲しい、でないような、切ない、でないような、とにかく、いらいらした。いまいましい、とも感じる。涼介に対してではない。自分と、もしくは、ある人に対して、だ。


 もちろん、涼介には何の責任もない。美咲はわかっている。心の底から、運が悪かった、と思う。自分に責任があるような気は、少しだけする。


「ねえ、今日ってさ」美咲がまた振り向く。

 今日は月曜日、時間は、夜の九時。涼介は八時ごろ、帰ってきた。少しだけ酒臭かった。 

「どうした」涼介は画面から眼を離して、問いかけた。

「帰ってくるの、遅かったね」

「飲んでたから」

「誰と」

「友達、とか」涼介は呟いて、それから、またテレビに眼を戻した。


 シャワーを浴びる、と美咲が部屋を出た。暗い廊下を進むと、床が気味悪く軋む。

ここは暗くて苦手。気持ちが一層、重くなってしまう。だからシャワーはゆっくり浴びよう。浴びて、流せばいい。美咲は思った。


 二十分ほどで美咲が部屋に戻れば、涼介は安らかな寝息をたてていた。

 夏掛けもなしに眠る彼を、美咲はぼんやり眺める。ふだん無機質で何も映さない表情の、瞼が下りるというだけで、輪郭すら柔らかになっている。規則的な呼吸。顔が、少しだけ動いた。うん、と小さな声が出た。美咲は少しがっかりする。抱いてもらおうと思ったのに、車の中で。


 愛してくれる涼介を、美咲は思い浮かべる。涼介の手が、自分の体に触れる。自分も、涼介の体に触れる。しばらくしたら、入ってくる。美咲は、んっ、と声を漏らすだろう。体は正直だ。だから体と心は、実は切り離されているのではないか、と考えたりする。

 泣きついてみようか。思ったが、すぐにため息をついて、涼介の隣に横たわった。


「肌さみしいのかな」


 そっと、呟いた。涼介とは、週に四、五回くらいする。好きなのではない。ただ何となく、しているだけ。満たされたような気になるから。


 これを聞けば、馬鹿じゃないの、とあの人なら罵るだろう。美咲は想像する。好きじゃなかったら、さっさと別れなさい。あの人はきつい口調で指図するだろう。チャラいカップル。そんな感じで、さげすむに違いない。あの人は、きっとそんな人間だ。


 だから、美咲は明日香に、何かを言ったりすることはない。元々親しくなんてない。道場の前で、少し言葉を交わしただけの仲だ。「私、涼介のこと好きじゃないの」なんて、打ち明けたりしない。そんな雰囲気も、ちらつかせるつもりもない。むしろ、逆のことを、してやった。だって、涼介は。

 美咲は眼を閉じる。

 涼介の吐息が横から聞こえて、そっと彼の胸に、手を這わせた。



   ✽ ✽ ✽



 火曜日の朝、涼介が美咲を起こす。これは日課である。


 朝食は美咲が作った。食べたら水着を取りに行こう、と涼介がベーコンを頬張りながら提案した。水泳場に行く前に、美咲の家へ寄ることになった。

 昨日、涼介は携帯で、水泳場の地図を調べていた。そのときの彼は、どんな気分だっただろう。うきうきしていたのか、楽しみにしていたのか、なんてことが、ちらと美咲の頭に浮かんだ。


 美咲はちょっと高揚している。涼介が部活ばかりで、避暑めいたことをしたのは、この夏初めてのことだった。

 サンダルを履いてから、二人は玄関を開ける。涼介が錠をして、鍵を郵便受けの中へ入れる。美咲が一度、笑みを送ると、涼介も軽く笑った。


 車で県道に乗った。平日だけあって交通量が少ない。涼介は鼻歌混じりで、心なしか楽しそうだ。その表情を見ていると、美咲はなぜか、嬉しさがこみ上げてくるというより、胸の内を無数の虫がうごめくような、一種の不快感を覚えるのだった。たわいない会話をしながら、美咲は考えていた。


 私って、どんな人間なんだろう。

 美咲がそういうことを考えるのは、決まって涼介といるときだった。


 名前、美咲。年齢、二十。職業、大学生。長所、それなりにかわいい。短所、忘れっぽい。特技、料理。体型、スレンダー。髪型、ロング。――なんだか外面ばっかりだな、と嫌になった。

 他人の評価は、「とてもいい子」。だが美咲は、いつも思ってしまう。


 多分、自分はそんなに、いい子ではない。


 美咲のもやもやは、車に乗っている最中、睡魔によって霞になった。授業中でも、電車の中でも、気持ちが良ければどこでも寝る。車に揺られてしまえば、もちろん眠くなる。


 寝ていいぞ、と運転している涼介は促した。いつものことなので遠慮なく寝た。涼介はそれに、何も表情に表すことなく、ただ車を走らせた。

 美咲がシートに体をあずけて眼を閉じると、少し前、この車の中であったことが、ぼんやり思い出された。


「切らしてる」あのとき、涼介は気づいたのだ。暗がりの中で、美咲はたった一言、いいよ、とだけ呟いた。涼介はしばらく動きを止めていたが、やがて身を引き、その日のセックスなんてなかったように、美咲と部屋に戻った。


 どうして、あんなことを言ったのだろう。考えながら、眠った。



   ✽ ✽ ✽



 駐車してから水泳場に入ると、スタジオの前が子供たちで溢れていて、騒がしかった。この水泳場はプールの他、スタジオでエアロビクスの教室などを開き、客を集めている。ホワイトボードには、子供対象の運動教室が、この後すぐにあると書かれていた。


 そこの、涼介たちの目の前で、小学校一年生くらいの男の子が叫んで泣いている。髪の短い活発そうな子だ。両親の姿は見られない。美咲が声をかけようか、ちらちらと視線を送っていた。


 突然、涼介が奇妙なポーズをとった。


 泣いていた男の子が、それを見た瞬間に泣き止んで、大きな目をぱちくりさせた。美咲が恥ずかしそうに周囲をうかがう。それなりに人気がある。次いで涼介は大袈裟なアクションをしてみせた。


「違うよ」男の子は得意気に、涼介とはまた、別のポーズをとった。

涼介がすると、変な人にしか見えないことも、子供なら微笑ましい。涼介は笑って、男の子の頭を撫でた。お母さんは、と涼介が問うと、プール、と簡単な答えが返ってきた。

 男の子に手を振って別れてから、涼介が自動販売機に料金を入れて、二人分の入場券を買った。


「今の何?」


 戦隊シリーズ、と涼介は言った。もちろん部屋のテレビは、そんなものを映さない。子供っぽい、と美咲はおかしそうに微笑んだ。

 人ごみは、多くて、歩きづらい。入場口と書かれた立看板を見つけて、それに向かって歩いた。


「久しぶりに、涼介のそんなところ見た」

「別にいつも通りなんだけど。まあ、薄情だ、とはよく言われる」

「誰に言われるの?」

「親とか彼女とか。元々、愛想良くするなんて、得意じゃないみたいだ。だから苦手なんだよ、人付き合い」

「でも、今はちゃんと、私といるじゃない」

「セックスすると、少し変わってくる」


 何も言葉を返さないまま、美咲が入場券の片方を受け取った。それを受付に見せてから、更衣室へ続く通路へ入った。ここのプールさ、と美咲が話題を変える。


「五十メートルもあるでしょう」

「ある。けど深いぞ」

「中学まで、スイミングスクール通ってたから。涼介はそういうの、やってなかった?」


 柔道で体力全部使ってた、と話すと、美咲が涼介の右腕を揉み、固くて沈みそう、と茶化してから手を離した。


「二十五メートルで待ってる」涼介が告げた。ちゃんと待っていてね、と美咲が甘えるように声をかけたら、わかってる、と涼介が片手を上げた。女子更衣室に入り、塩素の匂いが鼻をつく中、混みあった通路を進んだ。



   ✽ ✽ ✽



 夏休みの今、プールは子供が多く、楽しそうにはしゃいでいて、飛び込まないよう監視員が呼びかけていた。他にも涼介たちのようなカップルや、勝手知った常連らしき大人も歩いている。


「寒い」美咲が涼介に身を寄せた。更衣室を出てすぐの自動シャワーで、お互い体が濡れていた。「あったかいね」美咲は涼介の手を握った。

「俺みたいに冷めた人間は、体温が高いらしいな」

「その方が、温まるから好き」

「お前は、寒がりだからな」


 早く水につかろう、と涼介がうながした。プールは、ロープで六つに区切られている。比較的人の少ない右から三つ目に入る。温かいぞ、と涼介は呼びかけた。

「涼介と泳ぎに来たのは、初めてだね」美咲はゆっくり、足先を水に入れる。冷たい。すると、涼介が不思議そうな顔をした。


「付き合い始めたのは、去年の秋だったじゃないか」


 と言った後、美咲が落ちた。胸元まで浸されて、寒気が一気にくる。その瞬間、美咲は涼介と付き合って、まだ一年も経っていないことを思い出した。右手で二の腕を握る。緊張したときの、美咲の癖。

 後で五十メートルにも行こう。涼介は言って、あまり上手くないクロールをしてみせると、跳ね上げた水がきらきらした。



   ✽ ✽ ✽



「どうだった、プールは」涼介はハンドルを握りながら訊いた。窓から入る風が涼しい。楽しかった、と美咲は素直な感想を述べる。


「明日は、休み?」美咲は涼介の顔色をうかがう。子供みたいと思われているかもしれない、と不安になる。甘ったるい声出して、ふびんな感じで。


「明日は明日香先輩が、来るかもしれない。サボると恐いから行ってくる」

「涼介の性格で、よく柔道が続くね」

「スポーツ推薦だから」


 ため息をつきながら、彼はハンドルを切った。車の時計が正午になったことを示していた。

「私、男の人とプールに行くの、初めてだった」そう言った美咲に、涼介は意外そうな顔を向けた。よかった、と彼女は続けて呟いた。


「よかったって、なにが」

「夏になる度に、涼介とプール行ったことを思い出すんだなって。そのとき誰を好きかなんて、関係なくさ。ほら、私、忘れっぽいじゃない。付き合ってたことって、どこかへ行ったとか、きっかけがないと、思い出せないような気がするから」

「なんだか、嫌な言い方だな」

「もしも、の話。私は好きだけど、嫌い?」

「嫌いじゃないけど。でも、『もし』って、悪魔の言葉らしいな。人間を、誘惑するときに使うらしい。何かの本に、載ってた気がする」


 と涼介が教えたら、彼の携帯電話が鳴った。ちょっと昔に流行った、ロックバンドの曲。ドラムの音がうるさい。美咲はこの曲が、どうにも耳障りだ。

 運転しながら、涼介がカーゴパンツのポケットから取り出して画面を見た。すぐにメールを器用に打って、再びポケットに入れた。


「今日も泊まっていいよね」美咲は訊いた。確認する必要のないことを、間髪入れずに。

「いいよ」と涼介。彼が何を考えてるのか、美咲は気になる。しかし無表情の彼からは、感情が読み取れない。それはかえって、よかったかもしれない。

「どこか、食べに行くか」涼介がナビを操作する。

「どこでもいいよ」美咲は、暖かな気温に溶けていくような口調だ。美咲は涼介の方を向いたまま、眠ってしまった。



   ✽ ✽ ✽



 昼食を適当な店ですませた後、涼介のアパートへ戻った。


 涼介の部屋は特徴らしきものがないが、テレビの前にあるテーブルの真ん中には、美咲によって小ぶりな紫向日葵が数本盛られ、暖かな八月の庭を思わせる。

 たまには部屋で、ということで三回ほどしてから、シングルベッドに体を沈めた。


「何かもう、車で慣れすぎて、変な感じがするねえ」美咲が微笑む。涼介も同意した。

「最初のときも、車だっけ」

「そう。飲み会の後、涼介が車で送ってくれて」


 そのときも、眠そうにしていた美咲に、寝てていい、と涼介はすすめた。しかし酔っているのをいいことに、シートを倒さず、涼介の膝を枕にした。元々、そのままいい感じにしたい、と美咲は企てていた。

 すると思惑通り、彼は胸に触った。美咲は股間に反撃した。スウェットだったので、わかってしまい、なに固くしてんの、と指さした。そのまま下な会話になり、気が付けば車を停めて交わっていた。


 美咲がそんなことを喋っていたら、ふと涼介が少し、悲しそうに笑った。美咲の方に向けていた体を、仰向けにした。やがて美咲も涼介に身を寄せて、眼を閉じた。



   ✽ ✽ ✽



 その日の夜、胸騒ぎがして美咲は眼覚めた。時計を見ると、夜の八時。部屋は電気をつけたままで明るい。

 音が美咲を揺さぶる。時々涼介の電話から流れるロック・ミュージック。この音を聞くことは、美咲にとって確かな苦痛だった。

 起きた涼介が電話に出る。あの人だ、と美咲は気付く。何だろう、こんな時間に電話してくるなんて。


 電話の相手は、明日香先輩だ。


 部活の話だ、きっと。そう思いながらも、美咲の心臓は大きく打った。

 電話は間もなく切れた。短い会話でも、美咲には長く感じられた。

「昨日、道場の前で会った先輩だよ」涼介が誤解を招かないためか、説明した。


 知っている。美咲はそんなこと、ずっと前から知っている。こっそり涼介の携帯電話を盗み見て、一人だけメールの回数が多い女がいることを、美咲は知っている。一人だけ着信音が違う女がいることを、美咲は知っている。もちろん、自分以外で。


 涼介は、次に、明日香に手を出そうとしている。


 それが間違った判断ではないことを、美咲は頭の中のどこかで知っている。ざわざわする。危険を知らせる警報が、不気味に鳴っていた。


「どうして、明日香先輩と仲良くしているの」美咲の声に、尋常でないものが含まれていた。

「別に何もないって」涼介は落ち着いた様子で、美咲をなだめた。「明日香先輩は、好きな人がいるんだ。健治っていう、演劇部の先輩が。先輩と俺は、ただの先輩後輩ってだけ」

 だから本当に、何もない。そう念を押した。


「嘘つかないで。昨日、涼介、明日香先輩とお酒飲みに行ったでしょう。補講帰りの友達が、美咲の彼氏が別の女と歩いてるって、メールで教えてくれたから、ちゃんと知ってるんだから。どうして私を放ったらかしにして、他の女と飲むの」


 涼介は、黙った。

 別に、美咲は、涼介を困らせたいわけではなかった。ただ、違う、と言ってほしかっただけ。何度でもいい。違う、と言ってくれた回数だけ、安心できるような気がしたから。


 しかし、次の瞬間、美咲は気付く。涼介が一瞬、白けたような顔をした。面倒臭さとか、嫌気がさしたとか、うんざりした感情が交じり合ったような、表情。


「トイレ」と涼介は言った。

「あの、涼介」美咲の声は、傷ついたCDを再生したときの音みたいだった。涼介は振り返らず、黙って出て行った。

 美咲は一人になった。やがて弾かれたように、部屋を飛び出た。

 しかし出たところで、足が止まる。何と言えばいいか、わからない。どんな言葉でも、間違いのような気がしてくる。結局、部屋の前の廊下で、待っていることになった。


 廊下は、暗い。

 自然と、切なくなって、泣いてしまった。暗いのが怖いのに、ずっとそこで立っていた。


 お願い、早く来て。

 心の中で呟いていたら、思っていたより早く、涼介が戻ってきた。彼は少し驚いた様子を見せた。


「親に叱られたガキかよ」冗談っぽい口調。それから彼は苦笑した。確かに、美咲はシャツの裾を両手でつかんで、小さな嗚咽を漏らしていた。

「嫌わないで」美咲は言う。声がひどい。涼介は黙って、美咲の体を抱き寄せた。背中を撫でて、優しい言葉をかけた。美咲は大事にされている気分になり、安心することができた。


 ドライブしよう。涼介が誘えば、美咲はうなずいた。


 適当な場所に停めてしたセックスの後で、美咲は服を着ると、普段の調子に戻って、やっぱりこっち、シートを撫でた。車と同じように、シートにも色々あるが、これは硬い。


「お前、いつも、まったりしてるよなあ」涼介が何気なく言った。

「持病のせいだと思う」

「低血圧って、病気だっけ」

「多分。朝はもう、ひどいよ」

「他の症状は?」


 ほら、と美咲は、涼介の手を自分の胸にあてた。しばらく静かにしていた。


「前から思っていたけど、普通よりドキドキしてるな」

「心臓に穴が空いてるの」


 えっ、と涼介が驚いた。


「もしも、だよ。私の心臓に穴が空いてるとしたら、その穴から色々と漏れちゃうんだろうなあ、って。いずれは空っぽになって、風だけが中に入ってくる。何となく、そんな感じがする」

「そうなのか」

 そうなの。他人事のように、美咲は言った。涼介に背を向けて、ドアの方へ寝返りをうつ。


 この穴は、あなたが空けたのよ。


 そんなことを、美咲は心の中で、呟いた。



   ✽ ✽ ✽



 翌日の水曜日。


 夏の朝に、紫煙が揺らぐような雲が浮かんで、まだ薄暗い。

 美咲の家に、車を停めた。久々の帰宅だ。閉鎖された空間から降りて、美咲はふと思う。映画の場面が、切り替わるみたい。

 庭に植わった紫色の向日葵は、鮮やかに暖かい。


「あの助手席は、寝にくいのに安心できるのが不思議」美咲が歩き出すと、いつもぐっすり寝やがって、と涼介が皮肉をこめた声で、腰を回した。

「いつか車中泊の旅に付き合わされて、くたくたになった俺の身にもなってほしいな。ほら、骨がよく鳴る」

「あ、また行きたい?」美咲がおかしそうに、玄関を開けようとしたとき。美咲が送ってもらったお礼を告げると、涼介はまっすぐな眼で美咲を見ていた。相変わらずの、無表情。去年の秋、彼女が一目で惹かれた、何を考えているのか、わからない顔。


 何か言いたそうだ、と美咲はうつむいた。そっか、と、何となく、わかった。一年も経っていなくても、ずっと同じ屋根の下で、暮らしてきたんだもの。わかるよ。妙に寂れた空気を、美咲は感じた。


「終わるか」涼介は言う。美咲はまだ何か言おうとしたが、言葉が詰まって、何も言うことができなかった。明日香先輩が好きなんだね、と問いかけたい気持ちも、外に出る前に流れた。


「美咲はいい子だから、もっとマシな男といろ」

「いい子は嫌い?」

「嫌いだよ」


 気を使うからな、と涼介は言う。荷物はまた、届けに来る。言い残して、薄暗い中、車を出した。美咲が気付かないうちに、彼女の頬を涙が流れた。


 美咲は、知っていた。涼介のことが、好きじゃない。そう自分に嘘をついて、ずっと思い込んできただけ。涼介が、好きな男が、違う女を好きなのが、辛かった。でも、嫌い、とは、やっぱり最後まで思えなかった。


 美咲は泣き続けた。やっと素直な気持ちで泣けた。好きであることを、噛み締めながら泣けた。

 どうすれば、よかったのかな。美咲は思う。

 私、これから、どうしよう。見送りながら、美咲は思う。昨日、涼介は私とつながりながら、このことを考えていたのかな。

 美咲は家に入る。誰もいない。涼介、と呟いてみる。返事はない。


 心の中を見せることができたら、いいのにな。美咲は思う。心臓にナイフを突き立てて、真っ赤な血と一緒に、気持ちを全部見せることができたら、涼介、いつまでも私のこと、好きだったのかな。


 美咲はパジャマに着替えて、手と顔を洗い、ベッドに倒れた。ベッドの中で、美咲は中指を使う。体温が上がる。息が乱れてくる。涼介のことを思い出しながら、美咲は中指を動かし続けた。

 終わったら、また泣いた。虚しいな、私。美咲は思う。涼介が私を好きだったら、よかったのにな。私、こんなに悲しいのに、涼介、あまり悲しそうじゃなくて、それが一番、悲しいな。

 やがて明けの陽が昇ってきた。気だるさと眠気が一気に来て、沈むように寝た。



   ✽ ✽ ✽



 美咲はGEOの中を歩いている。


 涼介が帰ってから、時間が経って、午後四時。

 気分転換に髪をショートにしてみても、美咲の気分は晴れない。


 新作のDVDの前で、立ち止まった。特に、観たいものはない。

 自動ドアをくぐる人たちが見える。一人で、入ってくる人。五人、グループで入ってくる人。二人、男女で入ってくる人。


 漫画のコーナーで、立ち読みをする人もいる。鞄を地面に置いて、少女漫画を読んでいる女の子。地面に座りながら読んでいる、柄の悪い男。


「帰りたくないな」美咲は呟いてみる。家に帰ると、涼介と別れたことを実感してしまう。どこでもいいから、家ではない場所にいたかった。

 よく涼介がDVDを借りに来ていた、この場所。もしかしたら、なんてことを期待していたけれど、そんなに上手くは、いかないみたいで。


 男の店員が、横を通り過ぎる。風が柔らかい匂いを運ぶ。美咲は眼で追う。美咲はすぐ横の、DVDを返却している店員をしばらく見つめる。背は、高い。

 ねえ、とその店員に声をかけられた。DVDコーナーを離れて、そろそろ帰ろうとしたときだった。


 美咲は声のした方、左斜め上を向いた。

 店員が、美咲を見下ろしている。脇に抱えた五、六枚のDVDは、同じジャンルのものであることを、美咲は一目で見てとった。


 しばらく、美咲はじっと見ていた。それから、えっ、と声を出した。

 一瞬、見つめ合った。美咲が先に、眼を棚の方にそらす。店員も、DVDへ、眼をそらす。何となく並んでいた一つを手に取って、美咲は裏面を眺めた。店員の視線が左肩にあたっているように、美咲は感じた。


「よく、涼介君と来るよね」と店員は訊いた。静かな声で。横を見て、ええ、と美咲は答えた。

 よく通る声だ、と美咲は思う。声が大きい、というわけではない。それなのに、響いて、耳に残る。そのような、いい声である。


「涼介君は、どうしたの」

「涼介?」


 美咲は、ああ、と何を言うか考えた。


「知りません」


 そうなの? と店員は首をかしげた。

 よく、レジで怒られている店員だった。知り合いと喋っている感覚。そんな、親しみやすさがある。涼介は多少面識があるらしいが、美咲が彼と話すのは初めてだ。何度か、会計をしてもらったことがある。手際が悪かったけれど。

 初めて見たときから、記憶に残っていた。美咲は人の顔を記憶するのが苦手。なのに、覚えている。


 こいつ、さっき、出てきただろ。一緒にDVDを見ていたとき、涼介はよく登場人物の説明をした。出てきた。出てきたけど、すぐ忘れちゃうの。美咲はまた涼介に訊きたい。涼介はただ、馬鹿だなあ、と笑うだろう。それでいい。でも、言えない。多分、もう一緒に、観ることはない。


 店員はあまり、DVDの返却をしないようだった。返却しているうちに、場所がわからなくて、レジに戻って行く。そんなところを、美咲は見たことがあるが、店員に顔を覚えられていたのは、意外だった。


「いつも、怒られているでしょ」美咲は茶化した。店員は申し訳なさそうに謝った。店員はもうバイトが終わりらしく、一旦レジに引っ込んで行ったが、やがて戻って来る。

二人は並んで店を出た。一緒に帰ることになったのである。美咲よりも頭ひとつ分以上、店員は高かった。美咲は右手で、自分の二の腕を握った。


「大学で涼介君といたから、覚えてた」店員は美咲の左を歩いている。そういえば、美咲の横に、涼介はいないのだ。

「髪型、変えたばかりなのに」

「僕、人の顔覚えるの、得意なんだ」


 頼りなさそうな笑顔を見せた店員に、美咲は好感を覚えた。こんなささいなことで。今日あんなことがあったのに、なんてことが頭をよぎった。もちろん嫌に思えてきたが、その好感を引っ込めることはなかった。

 覚えやすい顔、とふいに思った。


「ね、手、つないでいい?」美咲は言い、返事を待たず、すぐ店員の手を取った。店員は少し驚いたようだったが、優しく握り返してきた。大きいけれど綺麗な手だった。


 しばらく無言で歩いた。やがて店員が、家どこ、と訊ねた。大学の近く、と美咲は言う。近くのどこ、と店員はまた訊ねた。美咲のペースに、店員は合わせて歩いているようだった。長い足に、小さすぎる一歩。


 そのまま店員の家まで歩いた。美咲が通っている大学の男子寮だった。どうしてついてくるの、と店員は言った。

 男のくせに、白々しい。そう思いながら、帰りたくないの、と美咲は言ってみた。店員は美咲を、自らの部屋に上げた。どうにでもして、いいよ。彼女は思う。もう、すっかり投げやりな気持ちだった。



   ✽ ✽ ✽



 付き合うってどんな感じ、と健治が言う。


 その男子寮の一室では、いつまで経っても、何も起きなかった。小綺麗な部屋で、ただ平穏に、二人で話していただけである。


 意外に思いながら、美咲は少し考える。店員の名前は、健治、といった。聞いたことのある名前だった。しっかりと、記憶に残っていた。この人が、健治先輩。


 敬語はいらない、と彼は言った。誰か気になる子、いるの。美咲は訊いた。

 二時間くらい、たわいのない話をして、午後の六時半である。涼介と別れたことは言ってない。二人で紅茶を飲んだ。演劇部だ、と彼は自己紹介した。もうすぐ公演があるらしい。美咲は話しているうちに、気分が和らいできた。居心地がいい、とさえ思った。


「うん、まあ」健治は紅茶を一口含む

「誰?」

「同じ部活の、早苗って子」健治は答えて、それから、ちらと美咲を見た。明らかに期待している。そんな眼で見られても、大したことは、言えないよ。美咲は呟いた。

「明日、明日香と買い物に行く」健治は言った。明日香と彼は、昔からの中であることを、美咲は既に聞かされていた。


 健治によれば、デート、程ではないらしい。仲がいい友達の、買い物みたいなものだろう。その話を聞いていると、美咲は一瞬、嫌な気分になる。それが少しずつ広がって、大きくなる。そして、それに気付いた自分を、より嫌に思う。


 ほら、やっぱり私、いい子なんかじゃない。

 こんな気分になるのも、心のどこかで、しょうがないと思ってる。


 健治先輩は、いい人だ。私なんかよりも、ずっと。

 でも、もし、健治先輩が。

 健治先輩が、早苗先輩じゃなくて、明日香先輩を好きだったら。

 そんな「もし」を、美咲は望んだ。


「ねえ、美咲ちゃん」健治が言う。

「なに、先輩」美咲の「先輩」には、敬意が含まれていない。なんだか健治は、年上らしくない。というか、子供っぽい。涼介と重なる部分があった。


 押し倒そうか。美咲は部屋の隅にあるベッドを見て、考える。そうしたら、明日香先輩は、一体どんな顔をするだろう。――見たい。そんなことを考えることができた自分が、少し怖かった。


 ねえ、健治先輩。どうか明日香先輩を、好きになって。

 美咲は願って、想像したら、少し楽になった。こっちの方が、いくらか安心だ。あるいは、明日香先輩。健治先輩を、簡単に誘惑できる女になって。心の中で、美咲は色々と言いつのる。


「そうだなあ」と健治が呟く。美咲の心臓が跳ねた。

「なに、どうしたの」

「いや、夕飯、どうしようかと思って。美咲ちゃんいるし」

「作ってあげる」


 美咲は立ち上がった。声が変わってる、と自分で気付く。なるほど、嫌なことを考えていた後は、こんな優しい声が出るんだ。人間を内側から観察するような気分で、美咲は悟った。


「ここ、夏季休暇中でも、残っている生徒には食事出るんだ。もう暗いから、そろそろ帰りなよ」

「帰りたくない」反射的に、喉から鋭い声が出た。美咲は、すっかり冷めた紅茶を飲む。

「親、心配するよ。それとも、放任主義なのかな」

「逆。うちの親は、過保護すぎるの。先生だもん」


 そう言いながら、飲み終えた紅茶を運んだ。健治が何を言えばいいか、迷っている素振りを見せているうちに、玄関の方まで歩いて、靴を履いた。


「邪魔だったら、すぐ言ってくれればいいのに」美咲は小さな声で、呟いた。健治の耳に入るくらいの声で。

「別に、そんなことは、言ってないよ」

「家の話はしないで。今日は、本当に、帰りたくないの」


 美咲は押し黙ってしまい、途方に暮れたような気分で健治を見た。しかし、送ってくよ、と健治も玄関へ歩いて来た。いていいよ、と言ってくれるかと期待していた気持ちが、一瞬にして萎えた。


 先に外へ出た彼の後を、諦めてついて行った。健治と、金属製の階段を下りた。



   ✽ ✽ ✽



 二日後の、金曜日のこと。


 道場へ訪れた美咲が入口の引き戸を開けたところ、案の定、練習を終えたらしき部員が残っていた。


 その中に、涼介もいる。

 涼介、と小さな声で呼ぶと、気付いた。美咲の方へ寄ってくる。美咲は涼介を見つめた。


「どうした」涼介がいつものように話しかけるので、美咲は思わず、顔がほころんでしまう。

「ちょっと、荷物持ってくるって言ったのに、いつ持ってくるの」

「ああ、悪い、今日持って行くつもりだった」


 荷物は持ってきている、と彼は言う。久しぶり、なんてことを、美咲は思う。一昨日、会ったばかりなのに。


「今から、帰るとこだった」涼介は汗を拭った。胸元から覗く肌からも、水滴が伝っている。すぐ着替えるから、待ってろ。そう言って、横の部屋へと消えた。

 外に出て涼介と歩く。八月末の外気は湿度も少なく、やや冷たい風が植木を揺らしている。


「もうすぐ、明日香先輩は卒業するね」美咲が言う。

「なんだ、藪から棒に」

 涼介は困ったように笑った後で、

「しょうがないさ、最後だから」


 明日香は来年卒業する。涼介は明日香のことを話した。就職が決まっている、など、勤め先は地元の銀行、など、今夏に内定が決まった、など、たまに出向く、など、就職活動しなくていいから部活に顔を出せる、など、何でもよく、知っていた。


「昨日、健治先輩の家に行ってさ」美咲が呟いて、言い淀んだ。なんで、と訊かれる。GEOで会った、と言えば、ふうん、と彼は返す。もう少し、嫉妬してくれても、いいじゃない。美咲は思った。もう、ダメか。ダメだなあ、私。


「そういえば、今日、健治先輩が足を怪我してたぞ」思いついたように、涼介。

「どうして」

「転んだってさ。明日香先輩が言うには、昔からそのせいで、生傷が絶えなかったらしい」


 涼介は、あまり気にしていないようだ。今日、明日香先輩がいなかった、とすぐ話題を変えた。


「どうして」と、また美咲。

「健治先輩の付き添いらしい。医者に行くって、メールで連絡があった」


 ああ見えて世話好きなんだよ。そう付け加えた涼介の声は、優しかった。


「もし明日香先輩に会っても、俺が部活サボって、お前とプール行ってたことは言うなよ。いいか、絶対だぞ」


 と、人差し指をたてる。さっきまで運動していた涼介は、シャツにうっすらと汗が滲んでいた。美咲はうなずいた。


「涼介は結構いい加減なとこがあるのに、ほんと、部活に熱心。もっと私のために、サボってくれても、よかったじゃない」


 涼介は、苦笑いした。意地悪。美咲はそんなことを考えている。八月下旬の風は、夕方になれば少し冷たく、汗が冷えて、美咲は身震いした。


「ねえ。夏の終わりって、小さな泡がはじけて消えるイメージない? こう、ぶくぶくと」美咲の言葉に、涼介は首を傾げた。気にしなくていいよ、と美咲は目を伏せた。

「涼介、明日も部活出るよね」

「出るけど。なんで?」


 なんでもない、と美咲は呟いた。

 二股の分かれ道まで来た。右が帰り道の、駅前へ続く道。左が部室棟へ続く道。脇には、自動販売機がある。


「涼介。何か飲もうよ」


 奢るよ、と自動販売機を指す。女に奢られるのはな、と遠慮された。


「今まで付き合ってくれたお礼です」


 美咲は、そう押し切って、財布を出してから、投入口に、百円を入れた。

 涼介は仕方なさそうに、コーラを選んだ。


「美咲は本当、いい子だよな」彼は微笑む。美咲は自分のミルクティーのボタンを押しながら、胸に心地悪さを覚えた。少し気味が悪い。


 ねえ、涼介。美咲は訊く。涼介がコーラのペットボトルを開けると、炭酸の抜ける音がして、泡が上がってきた。小さな泡がはじけて消える。わりと的確な表現だな、と美咲は思う。ぶくぶくぶく、と。


「どした」涼介が喉を鳴らしてコーラを飲んでいたところ、口を離して、一息ついた。


 缶が美咲の指を冷やす。冷たい。そう思いながら、タブを開けた。


「ねえ。部室棟まで、歩かない?」


 いいけどすぐ帰るぞ。ぞんざいな感じで涼介は言って、二人は左に曲がった。

 部室棟近くの銀杏は紅葉していない。涼介が飲みかけのコーラで幹を叩くと、液体が泡をたてた。

大学の中で、とりわけ日当たりの良いこの場所は、暑い代わりに木陰がある。涼介は木の周りを歩き回っていた。美咲は木の影に出たり入ったりする涼介の影を眺めて、何となく、手をつないでみたくなって、やっぱりやめた。

 銀杏のすぐ下に立って、葉の隙間から空を見てみる。若葉が風を受けて激しく揺れた。


「寒いね」


 その髪型、と涼介が足を止めて、今気付いたかのような調子で指摘する、美咲は彼を見た。


「似合ってるぞ」


 短い方が好き、と彼は言った。それから木の幹にもたれかかって、手を後ろに組んだ。


「でも、ちょっと名残惜しくて、なんとなくさみしくはあるんだけどな」


 やあね、と美咲は呟いてから、


「こういうときに、髪は切るべきだと思うよ」

「切らなきゃならない、ってことはないだろ」


 前の髪型もよかった、と涼介はおっとりした口調で褒めた。美咲が髪を手の平で撫でた。風になびいて揺れもした。


「お前は、そういうことするだけで、過去を切り捨てられると思っているのか」


そんなわけ、ないじゃない。思ったが、決して口にはしなかった。ミルクティーに口をつけた。少し、ぬるくなっていた。


「そろそろ、行くか」涼介が言い出す。

「ねえ」

「どした」

「ここで私が抱きついたら、どうする?」


 馬鹿、と涼介の声が返ってくると、美咲はうつむいた。


「言ってみただけ」美咲は、思う。ちょっと、がっかりかな。本当に馬鹿なこと、言ったかも。地面の美咲の影が足を前後させた。涼介は動かない。

「もしも、の話だよ」美咲は悪戯っぽく、前屈みになって、涼介を上目遣いに見た。


 お前って本当、そういうの好きだったよな。涼介は言う。美咲はそれを見ていると、秋の風を薄着で感じたような愁いが、胸に残る。

ふいに涼介が、もしかして、と声をひそめる。


「なあ、お前さ」

「さみしくなんて、ないよ」


 即答したら、涼介は困った顔になった。


「でもさっきのは、そうは聞こえなかったぞ」

「あえて脈絡もなく言ってみたら、涼介がどんな顔するか、気になっただけだもん」


 今度ははっきりと、涼介は呆れたように笑った。美咲が恥ずかしそうに黙った。そして、涼介は美咲の手を取った。美咲は少し驚いて、どうしたの、と訊く。


「あったまるだろ」


 涼介は微笑みながら手を握った。ほんとうだ、あったかい。美咲は思いながら、握り返す。


「涼介」と、美咲が横を見ると、なんだ、と彼も美咲の方を向いた。

「また、もしも話か」

「違うよ」

「じゃあ、なんだよ」


 美咲は次を言おうとした瞬間、喉のあたりに引っかかっているらしいことに気付いた。息苦しくてどうしようかと思ったが、やたらと心臓がうるさく、何となく外には出せずに、そのまま飲み込んでしまった。握っている涼介の手が、いきなり怖くなった。


「そろそろ、行くぞ」涼介が自転車置き場の方へ体を向けた。それとほぼ同時くらいに、このまま涼介の家まで行っていい、と美咲が訊いた。

 また断られるかと予想した美咲を、涼介はじっと見た。すると、美咲の背筋を、すっと寒いものが上がってきた。

 自転車置き場に向かう。山際に陽が近づき始めて、二人の影が少しずつ長くなっていった。



   ✽ ✽ ✽



 歩調は、ゆったり。

 涼介が自転車を押す横を、手をつなぎながら、美咲が歩道を歩く。


 自分で、一緒に行っていい、って言ったくせに。美咲は思う。右手、震えてるかも。寒いって言えば、ごまかせるかな。でも、汗ばんでたら、どうしよう。


 涼介の手は、太い。柔道をしている人の手。マメのごろごろした突起が、美咲の手をこする。小指の下のマメは破れて固まったのか、皮が時折刺さってくすぐったい。くすぐったいが、美咲には刃に思えてならない。涼介の指紋すべてが、心情を調べているように思える。たまに変わる彼の握力に、心臓が反応しては、不規則に血をめぐらせる。嬉しさと恐怖が、秤の両端で上下していた。


 横を歩く涼介から、懐かしい香りがした。毎日のように慣れ親しんだ、それもずっと同じ部屋に住んでいたのだから、今の美咲にとって、むしろ自宅の方が別居めいて匂うのだが、離れた二日間がそう感じさせるのか、とにかく、懐かしいと美咲は思う。


 涼介の家まで来たとき、もういいだろ、と彼は言う。彼は手を離す。荷物を美咲に渡す。そして開放されたように、美咲は息を吐いた。

 涼介も体を離すと、腰に手をあてて、意地悪そうな顔をしてから、ポケットから鍵を取り出した。


「満足か?」彼はいつも通りの顔だ。

 美咲は黙って見つめていた。満足か、と言われれば、満足、とも言うことができるし、あるいは、満たされるはずがないのだから、諦めていた、と言うこともできる。


「俺なんかの、どこが好きだったんだ」

「顔」


 涼介は、黙ったまま苦笑した。


「お前がいてくれて、よかった。今まで付き合ってきた中で、お前が一番よかった」


 美咲は別れを告げた後、首だけで振り返った。


「涼介」


 少し大きな声で、呼びかけた。鍵を回していた音が二、三度響いてから止まる。


「どうした」

「健治先輩は階段で転んだらしいよ。しばらく、明日香先輩のお世話になると思う」


 ふうん、と涼介は少し考え込んだ。


「先輩は、明日部活に来ないかもしれないな。そういえば、お前、さっき健治先輩の怪我、知らないって言わなかったか」


 今思い出した、と答える。また美咲は緊張していた。怪我をして包帯が巻かれた健治の足が、一瞬だけ思い起こされた。

 そして、同時に思う。涼介は、明日香先輩が来ないから、部活に行かないんじゃなくて、明日香先輩が来るから、部活に行くんだよね。


 涼介の家を後にして、家までの道を辿る。夏祭りの旗が道沿いになびいていた。勢いよく走ると、サンダルが靴底を鳴らしながら、脱げそうに踵の真ん中までずり下がる。

 そういえば、と美咲は思い出した。あのことを伝えてなかった。もう、かなり遠い場所まで走った。振り向けば、涼介のアパートは見えない。


 涼介の部屋に飾った、紫向日葵。涼介が珍しそうに、よく眺めていたこと。気が利くじゃないか、といつか褒められた美咲は、恥ずかしくて結局言い出せなかった。

 あの向日葵を育てたのは、私なの。よかったら、またあげる。今日、機会を見つけて言おうとしていたが、他のことに頭がいっていたから忘れていた。


 ダメ。こんなことするから、いい子なんて言われるの。いたたまれなくなって、いっそ笑いがこみ上げてきた。


 あの向日葵だけが、涼介の部屋に残っている。


 何の飾り気もなく、美咲が約一年の間、寝泊まりしていたあの部屋に――少しの間だけ、視界が水中のようにぼやけた。数度瞬きすると元通りになったが、すぐ風を受けて、頬が冷たくなった。


 美咲はまた、もし、を想像する。


 私が健治先輩を階段から突き落としたって知ったら、涼介、どう思うかな。

 そのときこそ、私は、涼介が嫌いって言った、いい子でなくなれるのかな。


 走り疲れると、美咲は再び歩いた。

 来年になるれば、また美咲は向日葵を育てる。そして、涼介とプールへ行ったことを思い出すのだろう。

 


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