カラス
男は廃れたTシャツに七分丈の黒いズボンといういでたちだった。たいそう人相が悪く、周囲に誰も寄せ付けまいとするように、いつでも睨みを利かせていた。一匹狼のような気配もあるが、髪は乱れ、唇は薄く紫を帯び、体中が汗の乾いたあとのようにベタベタとしていた。どちらかというならハイエナのような風貌である。
男は狭い路地裏を大股で歩きながら、何が不満なのか無闇やたらと唾を吐いていた。そのせいか口内は酷く乾いているようである。しかし、それでも口の中から唾液を絞り集めるかのようにし、しょっちゅう唾を吐く。喉が渇く一方であるが、飲み物を買うお金も所持していない。
男は若くして、すでに浮浪者であった。住む家も清潔な着替えも、食べ物ですら手に入れることが困難な毎日であった。街で捨てられていた物品を拾い集め、雨の日には傘を売り、快晴の日には帽子を売って現金に変えていた。しかし、とくに売れそうな物品のない今日のような曇り空の日には、男はぶらぶらと途方もなく歩き回っていた。
表通りだと、社会人やら家庭をもった幸福な人々と顔を合わせて腹が立ってしまうので、こうして路地裏を敢えて選んでいるが、それでも始終イライラは治まらず唾を吐き捨てている。ゆえに男が通った跡には両手で水をすくった少年が駆け抜けていったかのように、液体が所々で光っていた。
ついには唾もでないほどに口内がカラカラになった。男は「かあああ」と喉を鳴らすと、「ぺっ」っと次は痰を吐き捨てた。しかし、粘ついた痰は口内から飛び出るときに唇でひっつき、あごに落ちた。男はあごの上で瞬時に冷たくなっていく痰の感触に気持ち悪さを覚え、立ち止まって首を振った。すると痰はあごから離れたが、ズボンのすそに落ちた。
「あぁ、くそ」
脚を振るが、痰は落ちない。
やがて、必死に痰を振り払おうとする自分がみじめに見えてきて、諦めて歩き出した。
すると、しばらくしてパチンコ屋の裏へとたどり着いた。若い店員が関係者以外立ち入り禁止の戸から出てきて、携帯電話で何やら話をしている。店員はパチンコ屋の黒ずんだ白色の壁に寄りかかって宙を見つめるように「ああ」「うん」「わかった」と相槌をしていたが、男が目の前を通り過ぎると訝しげな目を向けた。男はむきになって睨みかえそうとしたが、店員はすぐに電話を終えて戸の向こうに消えた。戸が開かれた一瞬だけ、パチンコ屋の店内に流れる騒々しい音楽が漏れてきた。
男は、砂埃でかすんだ黒い戸に近寄ると、店員への腹いせに痰を吐きかけた。痰は戸を伝ってゆっくりと地面まで流れた。カタツムリが這った跡のように、そこだけ漆をぬったような艶がある。
こんなことをしても気が晴れることはなく、それは男にも分かっていたが、なぜかイライラしていると、唾を吐いてしまう。もしかすると、唾を吐くというのは、その対象物をけなす
――つまりは不潔で貧相な自分と同等の立場に無理やり変えようとする深層心理なのかもしれないと男は思っていた。
「おい、おまえさん」
男は身体を戸に向けていたが、後方から呼ばれたので慌てて振り向いた。唾を吐くという卑劣な行為を目撃されていたことに対し、男の顔はすでに赤くなっていた。
声の主は、パチンコ屋の予備駐車場と路地裏との区切りの小さな段差に腰掛けていた。紺色の古びたパーカーを深く被りこみ顔は明白としないが、声を聞くには老人のようであった。それを裏付けるかのように、股の間には杖がつかれており、杖の頭に老人は両手を重ねていた。
老人の顔を見てみようと、男は体勢を少し下げたが、老人はさらに俯いて顔を隠した。もしかすると、柄の良くない人間に顔を覚えられるのが嫌なのかもしれないと男は思った。
「なんですか?」
罪滅ぼしに愛想を良くしたというわけでもないが、男は紳士的な笑顔をつくって老人に近寄った。男は屈折した性格であったが、他人に暴力を振るったり、物を盗んだりという所業には手を染めなかった。
そのおかげか、老人は友好的に思えた。しばらくは、国家経済や政治の話をしたが、男はそういう知識に乏しく話についていけない。老人は、それに気付くと「ああ、そうだったな。社会のことは知らなかったな」となぜか納得された。自分のことをよく知った口ぶりなので、もしや知人かと男は考えたが、それならそうと早く打ち明けてくれるはずであるし、そもそも男には知人などいない。
「君は、貧困かね」老人が突然、そんなことを言った。
男はきょとん、としたがすぐに「ええ、はい」と笑い含みで答えた。本来ならば作った笑顔も凍りつくところであったが、そうはならなかった。馬鹿にされているという感覚が起きなかったからだ。なぜなら、男から見ると老人も十分に貧困に見えたからである。つまり老人は、仲間通し傷を舐めあいたいと思っているのではないかと男は察した。
「こんな生活してると、しょっちゅう金のことばっかり考えてしまいますよ」
老人は「わかる、わかる」と共感したようすで頷いた。それが何だか楽しくて、男はその後も自分の話を続けた。「町のゴミ規制も厳しくなって、傘のゴミとか少なくなってきてるんですよ」「わかる、わかる」「無性に唾が吐きたくなるんですよね」「わかる、わかる」「このまま死ぬのか、とか考えると辛くなります」「わかる、わかる」
聞き流して興味なさそうにしているようにも見えるが、男には老人の「わかる、わかる」が本当に共感してくれているように思えた。
男はこのままずっと話していられたが、不意に老人が口を挟んだ。
「貧困は、嫌だろう?」
「はあ……。それはそうです」
男は続けた。「でも、仕方がないことですし」
「何言ってる、努力しないから貧困なんだ」
少しだけ、老人の言葉に圧迫感が混じった。怒っているようではなかったが、子供の軽いいたずらを注意する親のような口調だった。けれども、話の調子を狂わされて男はもう何も言えなかった。
ただ、目の前で顔を伏せた老人が、次にどんな行動を起こすのか、それを見張るような目つきでその場に立っていた。顔は見えないため表情がわからないのは必然だが、なぜかその俯けた顔が笑っているのではないかと、突然に思えて男は悪寒を感じた。こちらからは、見えないのをいいことに、フードのなかでは道化師のように不気味な笑みを浮かべているのではないだろうかと思えた。なぜかは男自身にも分からなかった。
「チャンスをやろうか?」
老人が低い声をだした。今までと別人のような声だったので、男は少し驚いて肩を跳ねさせた。
「チャンス……ですか?」
「ああ、おまえにとっての最後のチャンスだ」
老人は杖に体重をかけるようにして立ち上がると、しおれた雑草のように腰をおった大勢のまま、後ろポケットから紙片を取り出した。
「宝くじ、ですか?」
その紙片を突きつけてくるので、男はそう言いながらそれを受け取った。
「ああ、必ずアタル宝くじだ」
「は?」
男は首をかしげて、手元の宝くじへと視線を落とした。確かに今年の宝くじの券であったが、四隅はしおれて、ところどころ湿って変色している。
「大切にもっておけ、二億がアタルからな」
老人はそう言って、男が今来た――唾が吐かれている――方の道へゆっくりと進んでいった。男は息を呑んで券の当選番号をなぞるように見つめ続けた。
「あの、やっぱりこれ!」
男は宝くじから視線を外して老人が去った方向を振り返った。しかし、そこに老人の姿はすでになかった。
男はしばらく老人を捜したが、結局見つからずに路地裏を抜け、大通りを横切り、県立公園の区画へと足を踏み入れた。しかし、ついには諦めてベンチへ腰掛けた。
初めは、二億が貰えるかもしれないと少し気分が踊ったが、よくよく考えると未来に発表されるはずの当選番号を老人が知るはずもないことや、そもそも確実に当選くじであるなら他人に譲るはずがない、などの理由が浮かび、ただ老人におちょくられただけなのだと悟った。
しかし、確実ではなくなっても、今年の宝くじなのだから一万円でもアタル可能性はあるはずである。だとしたらありがたく頂戴しようと男は思った。
それから、四日後のことである。
曇りが続き、物品もひとつと売れずに、ろくな物を食べていなかった男は、パン工場の廃棄所に忍び込んで袋をあさっていたが、警備員にすぐに捕まり追い出され、「今度したら通報する」と釘を刺された。
空腹でやつれた男は、ついに力なく行き倒れた。パン工場を追い出されてから歩いて他の食べ物はないかと徘徊していたときだったので、運悪く人気のない路地裏だった。
動こうとするが、指先に力が入らなかった。今までも何度かこういった状態に陥ることがあったが、たいていが表通りで親切な人が助けてくれた。しかし、ほとんどの店がシャッターを下ろした空疎な商店街の裏であったので、誰も助けはこないと思われた。
ふと、目の前を何かが通りすぎ「助けてください!」と力を振り絞って声を出したが、男は目を凝らすとそれは猫であることに気が付いた。男の声に驚いて、猫は首に付けた鈴を鳴らしながらどこかへ駆けていった。
男はもう助からないと思ったが、それでも死の危機は感じていなかった。まさか、自分が行き倒れて死ぬはずがないと安易に思っていたのかもしれない。
しかし、薄れていく視界に、男はまんじゅうを見つけた。また見間違いかと目を凝らしたが、確かに塀の上に瓶に入れられたピンク色の花と、小皿に入れられた二つのまんじゅうが見て取れた。以前、誰かがここで事故を起こして亡くなったのだろうと思えたが、事故が起きるような場所でもないし、殺人かもしれないと思った。
しかし、そんなことを思いながらも、男の身体は勝手に動き、塀づたいにまんじゅうの元へと歩み寄っていた。
けれども、盗みはしたくないという思いも男にはあった。自分に害だらけの人生だろうと、他人の人生に害は与えまいと自分で自分に嘯いていたのを思い出していた。それなのに、自分の都合で盗みを働かしていいものかと男は顔をしかめた。それが死んだ人間を弔う供え物であったなら、なおさらだと思った。
やがて、立つのにも限界が訪れ、膝が笑い出し、男は決心した。
後ろポケットから、老人に貰った宝くじを取り出して、「ごめんなさい」と言いながら、それをまんじゅうと取り替えた。
男は、おぼつかない足取りで、何度も左右の壁にぶつかりながらも、その場をさっていった。
「夢を捨てて、目の前の欲を取ったか」
男が去ったあと、建物の陰から老人が現れて取り替えられた宝くじの前に立った。
「それでは未来は変わらん、夢も叶わん」
老人は宝くじを掬い上げて、また後ろポケットに押し込んだ。
「最後のチャンスと言ったはずだが……」
老人はそう言って、深く被ったフードを外した。
そこには、年齢こそ高いものの、男と酷似した顔があった。
「自分よ自分。嘆かわしいな」
老人は独りでそう呟いて、「わかる、わかる」と独りで返事をした。
そうして、ゆっくりと空気に溶けるように、消えていった。